第2話「辺境の村ミルガ」
村の名前はミルガといった。
街道から外れること半日、地図に名前すら載っていない小さな集落だった。家が二十戸ほどで、住民は百人に満たない。農業と少量の採掘で細々と暮らしている、と村長のグランが教えてくれた。
「なんじゃ、勇者か?ずいぶんと若いな」
白髭の大柄な老人は、ぼろぼろの麻袋を担いだアレンを見てそう言った。怪しむでもなく、追い払うでもなく、ただ素直な感想を口にした。
「元勇者です。今は仕事を探しています。薪割りでも、荷運びでも、なんでも」
「給金はいらんのか」
「泊まる場所と食事があれば十分です」
グランはしばらくアレンを眺めてから「ほっほ」と笑った。
「ちょうどよかった。若い男手が足りなくてな。何日でも居ていい」
三日が過ぎた。
アレンは日の出とともに起き、水を汲み、薪を割り、畑を耕した。夜は村人たちと食事をとった。こんな生活でいい、とアレンは思った。スキルを使わなくていい。誰も傷つけなくていい。
四日目の夜明け前に、それは来た。
低い地鳴りのような音。続いて、村の見張りが叫んだ。
「魔物だ!群れが来るぞ!」
アレンは宿の窓から外を見た。
東の林の縁から、黒い影が溢れ出ていた。四足の獣型魔物「クロウハウンド」の群れだった。三十頭はいる。一頭でもBランク勇者が手こずる相手だ。
村に勇者はいない。
グランが村人たちを集めて叫んでいた。「子供と老人を西側の丘へ!男は松明を持て!」老人の声は震えていなかった。だが、顔は蒼白だった。
松明で追い払えるような数じゃない。
アレンは宿を出た。東の林のほうへ、一人で歩いた。
後ろでグランが叫んだ。「おい、どこへ行く!危ないぞ!」
「大丈夫です」
振り返らずに答えた。
クロウハウンドの先頭の一頭が、アレンに気づいた。
低く唸り、走り出した。三十頭が一斉に続いた。地面が揺れた。爪が土を抉る音が嵐のように近づいてきた。
アレンは立ち止まった。目を閉じた。
胸の奥で、何かが動いた。ずっと押さえ込んでいた、あの感覚だ。「争い」を感知する感覚。敵意と殺意と恐怖が渦巻くこの場所に、【調停者】が反応していた。
アレンはゆっくりと息を吐いた。
消すことはしない。ただ、終わらせる。
手のひらを前に出した。
光はなかった。音もなかった。ただ、静寂が広がった。
先頭のクロウハウンドが、十歩手前で止まった。前脚を地につけ、頭を垂れた。その後ろの群れが次々と止まり、同じように伏せた。三十頭が、まるで嵐が過ぎ去るように静かになった。
争いが、終わった。
消滅ではなかった。今日はそこまで使わなかった。制圧だけで、相手の戦意を完全に砕くことができる。
アレンはゆっくりとそれを解いた。頭を上げたクロウハウンドたちは、一頭ずつ林の中に戻っていった。
グランが後ろにいた。何人かの村人も、遠巻きに見ていた。
老人の目が、アレンをじっと見ていた。驚いていなかった。ただ、何かを確かめているような目だった。
「お前さん」と、グランがゆっくり言った。
「そのスキル、なんという名前じゃ」
「教えない方がいいと思います」
「そうか」
グランは深くうなずいた。それ以上は聞かなかった。
「助かった。この村はお前さんに命を救われた。それだけは覚えておいてくれ」
アレンは何も言わなかった。
空が明るくなり始めていた。鳥の声が聞こえた。村の中から、子供たちの安堵した泣き声が聞こえた。
アレンは麻袋を肩に掛け直して、村の方へ歩いた。
朝飯の時間だ、とだけ思った。




