決心
想像以上のりんごバームの開発というのは難航し一筋縄では行かなかった。
祐司に紹介されて山田ラボまで一緒に訪ねた。山田拓は祐司の大学時代の同じゼミ仲間で、山田の他に2名の研究員がいた。農大以外にも主に化粧品会社等から研究材料を引き受けていた。山田拓は祐司の1歳下で農大卒業後に食品会社の研究員として就職したが5年程前に独立していた。祐司も同じ食品会社の研究員をしていたが、祐司はりんご園を継ぐために退所した。そんなつながりで、山田は美佐子の希望を聞いてくれ、実現に向けて研究を進めてくれた。何度も何度も話し合いや試作を繰り返し、漸く形になった頃には約2年の月日が経ってしまっていた。
陽菜は何とか大学の授業に何とか付いていってはいたが、追試や居残りは相変わらずだった。
「陽菜、あたしねデキちゃったみたいなの。」
クラスメイトの咲苗が漏らした。咲苗は成績優秀で、単位は勿論のこと、小テストでも常に上位の学生だ。
「え?デキた?咲苗、優秀だから試験デキたんだ?ちょっとここんところ教えてくれない?」
陽菜は教本を広げ、自分はまた追試だと返事をした。
「違うの⋯妊娠したみたいなの。」
「えっ?」
陽菜は固まったまま返事が出来なかった。学生での妊娠というものがどこか別の世界の話だと思っていたが急に身近になってしまった。
「実は堕ろそうかと思ってて⋯今だったらまだ手術できるし⋯彼氏もまだ学生だし⋯。」
学校に通いながら子育てすることは出来ないのだろうか。まだやったこともない育児や子育ての両立や苦労を想像する事もできない。でも、きっと大変なんだろうな。皆子育ては大変だと言っているから。
「お父さんやお母さんに相談したの?」
陽菜はもう自分達では解決出来ない問題だと考えた。
「うん。お父さんもお母さんも堕ろせって⋯。」
「彼は?」
咲苗を質問攻めにしてしまう。咲苗は悩み苦しんでいるように見えた。涙声になっている。
「彼もまだ学生だから、って⋯」
彼氏も同い年の大学生だという。
「そうなんだ⋯。」
陽菜はこれ以上に言葉が出ない。何とか皆で協力してこの社会で産み育てることができないのだろうか。妊娠や出産で悩んだり傷ついたり、キャリアを断念せざるを得なかったり、女性が被ることの比重が多すぎる。現に咲苗はつわりと心労で体調が芳しくない様子だ。咲苗が辛い時に彼氏は何をしているのか。陽菜は怒りすら覚えた。
「咲苗、大丈夫?ひとりで帰られるの?」
今日の授業は終わっている。
「ありがと。今日は洋志が車で迎えに来てくれるの。陽菜も一緒に帰らない?洋志が送ってくれるから。」
咲苗の彼氏は洋志といった。間もなくして洋志が親から借りたというワンボックスカーで咲苗を迎えに来た。ワンボックスには若葉マークが付いていた。陽菜も1回生の夏休みに何とか免許を取得する事が出来た。洋志は陽菜に自宅近くまで送るから咲苗と一緒に同乗したらどうかと促してくれた。
「今朝は雨だったから、ママが大学まで送ってくれて、いつもの自転車がなくて助かった。ありがとう。」
洋志にお礼を言い、美佐子に迎えは不要だと電話をかけた。
車の中で洋志と咲苗、そして陽菜は殆ど会話がなかった。送ってくれるのは有難いし、咲苗を迎えに来たのは咲苗の体を心配してのことだろうけど。既に「人工妊娠中絶」という選択を決めているふたりに何と言葉をかけて良いのか、何の話題を切り出して良いのかわからない。
「あれ⋯何か渋滞してる。あの先、すごい人だかり。何だろう?」
洋志が指さす先にはかなりの人だかりが出来ていた。車は渋滞し全く動かない。下がって!下がって!と規制する声が聞こえた。
「ちょっと見てくるね。咲苗は待ってて。」
陽菜は車を降り、人だかりの方を見に行った。どうやら人の声とその熱気、熱さで火事だと悟った。
「陽菜、私も行く!」
危ないというのに陽菜の後を咲苗は付いてきて咲苗を追った洋志も車を安全な場所へ停めて出てきた。火事なら仕方ないね、落ち着くまで車の中で待とう。体調不良の咲苗の安全確保が先だ。
「うちの子が⋯大河がいません!まだ中に⋯!」
母親らしき女性が半狂乱で燃えている家屋を指さす。裸足の様だった。この女性の子供がまだ取り残されているのだろうか。
炎は生き物のように燃え広がる。燃えている家屋からこんなに離れているというのに顔面で熱さが伝わってくる。火事の恐ろしさ、炎の怖さを嫌でもわかった。
その時に消防団員と見られる男がまだ2歳位の男児を抱きかかえ出てきた。
「大河!大河!」
母親が息子の名前を叫んで消防団員から男児を引き取った。男児は何も言えずに母親にしがみついていたが漸く事の重大さに気付いたのかわんわん泣き出した。
炎の中にいたところを救出したわけではなく、あと一歩のギリギリの場所で立ちすくしていたようで事なきを得た。
その状況の一部始終を見ていた咲苗が
「⋯やっぱり私⋯、産む!」
「うん。俺⋯大学辞めて働くよ。ふたりで育てよう。」
火事から助かった命の男児が咲苗と洋志を決心させた様だった。
「良かったです。」
母親に声をかけた消防団員の声に聞き覚えがあった。信司だった。信司の姿に陽菜は尊敬の気持ちを自覚した。いつもの信司ではなく、消防団員の役割をきっちりこなし、消防士よりも活躍していた信司を誇りにも感じた。




