第3話 「レオンハルトという名前」
その名前を口にしたのは、ほんの出来心だった。
朝の庭で洗濯物を取り込んでいたロッテに、ミアはさりげなく尋ねてみたのだ。「レオンハルトって、どなたのことか知ってる?」と。
籠を抱えたロッテの手が、目に見えて止まった。
「……どこでその名前を」
「ちょっと、耳にしただけ」
嘘だった。けれどロッテの顔からさっと血の気が引くのを見て、ミアは自分の質問が思った以上に重いものだったと悟る。
「旦那様の前では、絶対に出さないでください」
そう言い残して、ロッテは逃げるように屋敷の裏口へ消えた。籠から落ちたシーツの端を拾い上げながら、ミアはしばらくその場に立ち尽くした。
(触れてはいけないところに触れた)
そういう手応えだけが、胸の奥に重く残っていた。
その夜も、書斎の灯りは遅くまで消えなかった。ミアは寝室を抜け出し、廊下の暗がりからその灯りを見つめる。扉には鍵がかかっていない。ノックをしようとして、迷って、結局その手を下ろした。
けれど扉の隙間から、紙をめくる音に混じって、独り言のような呟きが漏れてきた。
「……手紙の筆跡と、報告書の筆跡が違う」
ミアは息を止めた。扉一枚を隔てた向こうで、エドヴァルドは誰かの筆跡を調べている。失踪の報告書と、そして――おそらく、あの手箱に入っていた手紙と。
(旦那様も、あの箱のことを知っている)
いや、それとも、まだ気づいていないのだろうか。ミアの背筋を冷たいものが伝った。もし手紙の存在に気づかれれば、隠していたことを問い詰められる。それだけならまだいい。もしあの手紙が、アネットの失踪に関わる何かの証拠だったとしたら。
足音を立てないよう後ずさったつもりが、廊下の床板が小さく軋んだ。
扉が開いたのは、その直後だった。
「――ミア?」
灯りを背にしたエドヴァルドの顔は、影になってよく見えない。ただ、驚いたようにこちらを見ている気配だけが伝わってきた。
「眠れなくて。灯りが見えたので、つい」
とっさに出た嘘にしては、悪くない出来だったと思う。エドヴァルドはしばらく黙ってミアを見つめたあと、意外にも、書斎の中へ視線を促した。
「……入るか」
その誘いに、ミアは自分の心臓が跳ねる音を聞いた。断る理由はいくらでも浮かんだのに、口から出たのは別の言葉だった。
「はい」
書斎の机には、開いたままの報告書と、見覚えのある細い筆跡の便箋が並んでいた。ミアの視線がそれに吸い寄せられるのを、エドヴァルドは見逃さなかった。
「知っているのか、この字を」
答える前に、ミアは自分の手のひらが冷たく汗ばんでいることに気づいた。




