第2話「箱の中の、もうひとりの花嫁」
鍵は、髪留めのピンで開いた。
こんな特技が役に立つ日が来るとは思わなかった。子爵家にいた頃、姉たちは面白がってミアの持ち物を小箱にしまっては鍵をかけた。返してほしければ夜中まで待つしかなくて、いつの間にか、ピン一本で開けられるようになっていたのだ。
(人の箱を勝手に開けるなんて、いい子のすることじゃないけど)
かちり、と小さな音がした。ふたを持ち上げると、乾いた花の匂いが、さっきより濃く立ちのぼる。
中に入っていたのは、押し花にしたスズランの束と、革紐でまとめられた十数通の手紙だった。宛名を見て、ミアは息を止める。
『レオンハルト様』
エドヴァルドではない。
一番上の封筒だけ、封がされていなかった。悪いと思いながら、指が勝手に便箋を引き出す。几帳面で細い字が並んでいた。
『わたしは公爵夫人になるために育てられました。それを疑ったことはありません。けれどあなたと話した三十分だけ、わたしは初めて、自分が何になりたいのかを考えました』
続きを読む前に、廊下から足音がした。
「ミア様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
扉の向こうから聞こえたのは、朝食の支度に来たメイドの声だった。昨日紹介されたばかりの、ロッテという赤毛の娘だ。ミアは便箋を戻してふたを閉じ、とっさに箱をベッドの下へ押し込んで、「はい、今行きます」と答えた。声が裏返らなかったのは、我ながら上出来だった。
朝の食堂では、エドヴァルドがすでに席についていた。新聞を読んでいるふりをしているけれど、ページが昨日から進んでいないことにミアは気づいている。
「……眠れたか」
「ええ、とても」
「あの部屋は、アネットが使っていた。気に障るなら、別の部屋を用意させる」
ミアはスープをすくう手を止めた。気になります、と言えば、この人はきっとすぐ部屋を替えてくれる。そうすればあの箱も、たぶん誰かの手で片づけられてしまう。
「いえ、このままで大丈夫です。日当たりがいいので」
そう言って笑うと、エドヴァルドはほんの少しだけ眉を寄せた。何か言いたげに口を開いて、結局、また新聞に視線を落とす。
(この人、笑い返してはくれないのに、目だけはいつもこっちを見てる)
ロッテがミアのカップに紅茶を注ぎながら、小声で言った。
「あの、ミア様。旦那様、昨夜はずっと書斎の灯りがついたままだったんですよ。アネット様がいなくなってからは、あんなことなかったのに」
「そうなの?」
「はい。だから、その……ミア様が来てくださって、お屋敷がちょっと明るくなりました」
湯気の向こうで、赤毛の娘は照れたように笑った。誰かの代わりに来た人間に、そんなことを言う人がいるなんて。ミアは返事ができなくて、カップを両手で包んだまま、うつむいた。
その夜、ミアはもう一度あの箱を開けた。
手紙の束を数える。十四通。日付は失踪の半年前から始まって、最後は三週間前で途切れていた。最後の一通だけ、宛名の下に走り書きがある。
『これを出したら、わたしは戻れない』
窓の外で風が鳴った。ミアは便箋をたたみ直し、箱に戻しかけて、手を止める。
(本物が見つからなければ、わたしはずっとここにいられる)
そんな考えが浮かんだ自分にぞっとするより先に、胸の奥がふっとあたたかくなった。
ミアは箱のふたを閉じ、鍵をかけ直さないまま、自分のトランクの底へ滑り込ませた。
本物が見つかりませんように。
祈った声が思いのほか穏やかで、ミアは少し驚いていた。




