第1話「わたしは、花嫁の予備でした」
指輪の箱を開けたとき、ミアは笑うことにした。
泣くよりも、その方がずっと楽だと知っていたからだ。
「本物のアネットが見つかるまでの、仮の婚約者ということで構わないな」
公爵エドヴァルドの声は、天気の話でもするように平坦だった。窓から差し込む午後の光が、彼の手にある指輪の粒を無意味に輝かせている。ミアはその光を見つめながら、腹の底で(ああ、またこれか)とだけ思った。
姉が熱を出した夜会には、ミアが代わりに出た。従姉の縁談が父親の借金で流れたときは、ミアがその見合い相手の前に座らされた。誰も彼女自身を望んだことはない。望まれるのはいつも、空いた席のかたちをした「代わり」だった。
「――かしこまりました」
短くそう答えて、ミアは指輪を受け取った。薬指に嵌めると、思っていたよりも冷たかった。
婚約者だったアネット・フォンターナは、式の三週間前に姿を消したのだという。荷物ひとつ残さず、書き置きひとつ残さず。屋敷の使用人たちは声を潜めてその話をし、そのたびに扉の陰でミアの視線から逃げるように口をつぐんだ。
初めて訪れた公爵邸は、広すぎて足音が反響した。案内された部屋には、まだアネットの匂いが残っている気がした。使われていない化粧台、埃をかぶった小説の背表紙、閉じられたままのクローゼット。ミアはそのどれにも触れず、ただ突っ立って部屋の中央を見つめていた。
(この部屋の主に、わたしはなれるんだろうか)
いや、なる必要すらないのかもしれない。本物が見つかれば、自分はまた元の場所に戻される。子爵家の四女、誰かの代わりでしかない娘。それでいいはずだった。今までずっと、そうやって生きてきたのだから。
夕食の席で、エドヴァルドはほとんど言葉を発さなかった。ナイフとフォークの音だけが響く食堂で、ミアはふと視線を感じて顔を上げる。彼はすぐに目を逸らしたが、その一瞬、確かにミアを見ていた。誰かの代わりとしてではなく、ミアという一人の人間として。
心臓が、小さく跳ねた。
(勘違いしては駄目)
そう自分に言い聞かせながらも、指先に残るその視線の熱だけは、どうしても消えてくれなかった。
夜、与えられた寝室でひとり指輪を見つめていると、机の引き出しの奥に、小さな鍵のかかった手箱を見つけた。誰のものかは分からない。けれど、なぜかミアの手はその箱に伸びていき——鍵穴の奥から、かすかに乾いた花の匂いがした。




