第7章 手紙①
警察署で母の遺体と対面したとき、私は警察の方に訴えた。
「事故死なんかじゃありません。もっと詳しく調べてください」
母が事故で亡くなったなど、どうしても信じられなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない。
けれど、時間が経つにつれて、私は少しずつ冷静に物事を考えられるようになっていった。
状況をひとつひとつ整理し、論理的に考えれば考えるほど、母の死が事故によるものだったという事実を認めざるを得なくなっていった。
それでも、心が納得したわけではなかった。
あの日以来、明るかった我が家は、まるで別の家になってしまったかのように静まり返っていた。
父は仕事には出かけていたものの、職場でもうまくいっていない様子だった。帰宅すると、どこか苛立った様子で自室にこもり、私とも顔を合わせることさえ避けるようになっていた。
食事もろくに摂らず、私が声をかけても、まともな返事が返ってくることは少なかった。
私も家事をこなしながら学校に通っていたが、以前と同じ日常を取り戻すことはできずにいた。
母がいない。
たったそれだけのことなのに、家の中から温もりが消えてしまったようだった。
そんな暗闇の中にいた私に、一筋の光を差し込んでくれた子たちがいた。
浩太君と花子ちゃんだ。
「なな姉ちゃん、ホットケーキ食べたい!」
二人は、ふと思い出したように我が家へ遊びに来ては、あれが食べたい、これをしてほしいと、遠慮なく私にねだってきた。
そんな二人の無邪気な笑顔や、屈託のない言葉に触れているうちに、私は少しずつ笑えるようになっていった。
二人と過ごす時間だけは、母を失った悲しみを忘れられた。
いや、忘れられたというより、悲しみを抱えたままでも、前を向いていられると思うようになった。
それから一年ほど経った、ある日のことだった。
私はキッチンで夕食の支度をしていた。棚の奥にしまってある食器を取り出そうと手を伸ばしたとき、ふと、奥のほうに何かが置かれていることに気づいた。
「……何だろう、これ」
手を伸ばして引き出してみると、それは一冊のノートだった。
表紙を見た瞬間、私は息をのんだ。
『レシピノート』
それは、母が生前に書き残したレシピノートだった。
私はコンロの火を止めると、ノートを胸に抱えるようにしてリビングへ向かった。
そして、ソファーに腰を下ろし、そっとページを開いた。
そこには、母の手料理のレシピが細かく書き記されていた。
材料の分量から調理の手順まで、丁寧な文字で綴られている。
私の大好きだった煮込み料理のレシピもあった。
「……こんなの、書いてたんだ」
思わず、笑みがこぼれた。
ページをめくるたびに、母の姿が目に浮かぶようだった。
キッチンに立つ後ろ姿。味見をしながら、少し首をかしげる仕草。
そして、私が「おいしい」と言うと、うれしそうに笑う顔。
懐かしさが込み上げ、気づけば涙が頬を伝っていた。
もう二度と、母の手料理を食べることはできない。
そう思うと、胸が締めつけられた。
それでも、このノートが残っていたことが、たまらなくうれしかった。
私は涙をぬぐいながら、さらにページをめくった。
そのときだった。
ひらり、と一枚の紙がノートの間から滑り落ちた。
「ん? 何だろう……」
拾い上げてみると、そこには母の文字で宛名が書かれていた。
『泰三さん、奈々ちゃんへ』
父と私に宛てた手紙だった。
私は一度、深呼吸をした。
そして、震える指で手紙を開いた。
そこには、母の思いが綴られていた。
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泰三さん、奈々ちゃんへ
この手紙を見つけているということは、もしかして私はもうこの世にいないのかな。
ちょっと思うところがあって、今、この手紙を書いています。
私は、おばあちゃんの死をきっかけに、誰かを助けることができないだろうか、同じ思いをする人の力になりたい、そう考えるようになりました。
それで、NPO法人の医療支援活動に参加したの。
このことについては、二人も納得してくれていたからいいのだけど、今度、大和大学病院で画期的な薬の治験を受けることになりました。
でも、もしかしたら……と思ってね。手紙を書いています。
ほら、治験が100パーセント安全というわけでもないじゃない?
でもね、私は怖くないの。
もし失敗したとしても、それが今後の医療に少しでも役立つのなら、意味のあることだと思っているから。
それに、責任者の鈴木先生はとても信頼のおける人だし、周りのチームのみんなも統率が取れていて、雰囲気もいいの。
だからね、泰三さん、そして奈々。
もしも私がいなくなっても、寂しがらないでね。
最後に、泰三さん。
あなたは何かと不器用なところがあるけれど、誠実で優しい人。
私は、あなたのそういうところに惹かれて、結婚を決めたの。
今の人生には、とても満足しているつもりよ。
だからね、この言葉だけは言わせて。
ありがとう。
奈々。
もう立派なお姉さんになったあなたは、私の宝物よ。
何事もなく、すくすくと成長してくれたこと。いろいろなことがあったけれど、その一つひとつの出来事を忘れたことなんて、一度もないわ。
あなたは、私と泰三さんにとって自慢の子。
まだ人生は先が長いわ。
この先あなたが成長して、結婚して、子供を作って――。
その姿を見られないのは悲しいけれども、きっと幸せな人生よ。
奈々、頑張ってね。応援してるわよ。
泰三さん、奈々ちゃん。
二人で力を合わせて、これからも生きていってね。
めげたら承知しないんだから!
みさえ
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「……な、何、これ……」
声が震えた。
うれしかった。
母が、こんなにも私たちのことを思ってくれていた。
その事実が、たまらなくうれしかった。
けれど、同時に悲しかった。
どうして、こんな大切なことを、もっと早く話してくれなかったの?
どうして、何も言わずにいなくなってしまったの?
そして、何よりも悔しかった。
母は、誰かを救いたいと願っていた。
そのために、危険があることも承知のうえで治験に参加しようとしていた。
なのに、母はもういない。
手紙を持つ手が、小刻みに震えた。
頭の中では、いくつもの思いが渦巻いていた。
母の優しさ。母の覚悟。父への愛情。そして、私への思い。
それらすべてが胸の中に押し寄せ、何をどう考えればいいのか、もう分からなかった。
「お母さん……私は、どうしたらいいの……?」
誰もいないリビングに、私の声だけが響いた。
もう一度、手紙に目を落とす。
そこには、母の温かな言葉が並んでいた。
けれど、その言葉を読み返すほど、母がもうこの世にいないという現実が、容赦なく私を襲った。
「うっ……ううっ……」
こらえきれず、嗚咽が漏れた。
私は手紙を握りしめ、ソファーの上で泣き崩れた。
こんなに泣いたのは、母が亡くなったとき以来だ。
母を失った悲しみも、やり場のない悔しさも、どうしようもない寂しさも、すべてが一気にあふれ出してきた。
涙が止まらなかった。
母の声が聞きたい。
もう一度、あの笑顔が見たい。
もう一度だけでいい。
お母さんに、会いたい。
けれど、どれだけ願っても、その願いが叶うことはなかった。
私はただ、母の残した手紙を胸に抱きしめ、声を上げて泣き続けた。




