第6章 忍び寄る影
「奈々さん、この前のロキソフルメタンの資料、どこにしまいましたっけ。」
「ああ、あれならBの棚の上から2番目よ」
「ありがとうございます」
大和大学病院の研究室、私は日々研究に明け暮れ、2年目をむかえている。
周りの仲間も気さくな方ばかりで、研究室の雰囲気も良好だ。仕事にも慣れ、皆との関係も少しずつ深まってきた。
こんな職場に恵まれた私は、きっと幸せなのだろう。
――表向きは。
母が亡くなってから、私はひたすら勉強に打ち込んできた。
青春と呼べる時間さえ犠牲にして、ただひとつの目的のために。
そして今、私はこの場所にいる。
母が治験に参加しようとしていた薬、その開発の鍵を握るかもしれない――
『ココ』へ。
この場所で、必ず何か手掛かりを見つける。
そう自分を鼓舞しながら、私は日々の研究に取り組んでいた。
そこへひとりの男性が姿を現した。
「おや、鈴木理事長。どうしたんですか、今日は」
その姿を見て、室長の柳田尋史〔タカシ〕が声をかけた。
大和大学病院理事長、鈴木奏〔カナデ〕。
普段、研究室に顔を出すことなど滅多にない。
「いや、ちょっと様子を見にね。」
理事長は室長と二、三言葉を交わしたあと、ゆっくりと室内を見渡した。そして、不意に私のほうへ視線を向けた。
「綾瀬君、ちょっといいかね?」
「はい?」
理事長はそう言うと、外で話そうというように軽く手招きし、研究室を出て行った。
「室長、ちょっと出てきます」
「了解。理事長に呼ばれるなんて、何かやらかしたのかい」
「まさか!」
室長の冗談に笑顔で返し、私は理事長のあとを追った。
しかし、胸の奥には、ほんのわずかな不安が芽生えていた。
* * *
理事長が向かったのは、自動販売機が並ぶ休憩コーナーだった。
「何を飲む?」
「では、お茶を」
自動販売機からガコンと音が響く。
落ちてきたペットボトルを取り出すと、理事長がそれを私に手渡した。
「ありがとうございます」
「いや、構わないよ。」
理事長は穏やかに微笑んだ。
私は受け取ったお茶を手に、さっそく本題を切り出した。
「ところで、私に何かご用でしょうか」
そう言うと、理事長は併設されている窓際の椅子に腰かけ、静かに口を開いた。
「君、今ネフタソリタミンの研究をしてるそうじゃないか」
その言葉に、心臓が小さく揺さぶられた。
理事長の目が私を見つめている。
「はい。」
できるだけ自然に答えられたと思う。
理事長は私の返事を聞くと、窓の外の景色に視線を移した。
「あれは13年前、わたしが偶然発見した成分でね。当時は、特に何かに実用できるようなものではないと思っていた。ひとまず論文にまとめて発表したものの、その後は大きな進展もなく、研究はそこで一区切りついていたんだ。」
そう言ってから、理事長は再び私に目を向けた。
「それで、どうして今になって、あの成分を?」
やはり、そこを聞いてくるか。
私はあらかじめ用意していた答えを、慎重に口にした。
「その論文は拝読いたしました。でも、せっかく発見されたこの成分を野放しにするのはもったいないと感じたんです。この大学病院に在籍している以上、研究を通じて病院の知名度を高めるとともに、医学の発展にも貢献できればと思いまして。」
嘘ではない。
ただし、すべてを語っていないだけ。
「ふむ。そうか――。」
理事長は何かを考えるように、しばらく黙り込んだ。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
やがて理事長は、何事もなかったかのように立ち上がり、私の元に近づいてきた。にこやかな表情を浮かべ、緊張の糸を解くように話しかけた。
「まあ、頑張りなさい。何かわからないことがあったら、いつでも私のところに来なさい。力になれることがあれば、協力するよ。」
そう言いながら私の肩をポンポンと叩き、その場を後にした。
「ありがとうございます」
その姿を見送りながら私は答え、頭を下げた。
遠ざかっていく背中を見送りながら、私は手の中のペットボトルを見つめた。
冷たい水滴が、指先に触れている。
――なにか感づかれたか。
周りの信頼も得てきた今、ようやく動き出せる時が来た。
そう考えて、私はネフタソリタミンの研究を始めた。
だが、まさかこんなに早く鈴木理事長が動いてくるとは思わなかった。
単なる様子見だったのか。
それとも、私がこの成分に目をつけたこと自体に、何か意味を見いだしているのか。
そもそも、理事長はなぜ、わざわざ私を呼び出してまで確認したのだろう。
研究の進捗を気にしているだけなら、室長を通じて聞くこともできたはずだ。
それなのに、直接私に問いかけてきた。
あの穏やかな笑顔も、何気ない口調も、表面上は何ひとつ不自然ではなかった。
けれど、あの沈黙だけが、どうしても頭から離れない。
――考えすぎだろうか。
そう思おうとしても、胸の奥に芽生えた不安は消えてくれなかった。
そして、もうひとつ気になることがあった。
理事長は、ネフタソリタミンを自ら発見したと言った。
13年前に発見し、論文を発表したものの、その後は大きな進展もなかったという。
本当に、それだけなのだろうか。
母が治験に参加しようとしていた薬と、この成分には何らかの関係があるはずだ。
だからこそ、私はここまで来た。
もし理事長がその関係を知っているのだとしたら――。
そこまで考えて、私は思考を止めた。
まだ何も確かめられていない。憶測だけで判断するのは危険だ。
今は、余計な疑念を抱かせず、研究を続けることが先決だった。
私は窓辺に歩み寄り、空を見上げた。
外は曇り。
重く垂れこめた雲が、今の状況と、これから先の行方を暗示しているように思えた。




