第5章 ネフタソリタミン
「現場で妙な香りがした」という事実を追加しました。
「青島さん」
「おう、帰ったか、亀山」
事件現場から戻ってきた亀山は、俺の姿を見つけると、先ほど話を聞いた二人――田中花子さんと鈴木一二三君について報告を始めた。
佐藤浩太君との関係。三人が幼い頃から親しい間柄だったこと。そして、花子さんと一二三君が中学三年生の頃から、互いに好意を抱いていたこと。
俺は腕を組み、亀山の報告に耳を傾けた。
「なるほどな……」
ひと通り話を聞き終えると、俺は顎に手をやり、しばらく考え込んだ。
「ただ、それだけで自殺の理由になるとは限らないよな」
「はい。二人とも、佐藤君を恨んでいたようには見えませんでした。むしろ、二人にとっても浩太君は大切な友人だったように思います。もちろん、話を聞いただけで、何もなかったと断定することはできませんが……」
「そうだな。人間関係ってのは、表から見ただけじゃ分からんこともある。仲が良さそうに見えるからって、腹の中まで同じとは限らねえからな」
そう言いながら、俺は窓の外へと目を向けた。
夕暮れが近づき、街の景色が少しずつ赤みを帯び始めている。
俺はしばらく窓の外を眺めていたが、やがて亀山へ視線を戻した。
「亀山、ちょっと上に行かないか」
「はあ? 上って、どこです?」
「いいから、付き合え。ここはうるさくてかなわん」
俺はそれだけ言うと、返事を待たずに歩き出した。
亀山は納得のいかない顔をしていたが、俺の後をついてきた。
* * *
階段を上り、屋上へ続く扉を開ける。
その瞬間、傾き始めた夕日が目に飛び込んできた。
「うわっ、まぶし……」
亀山は右手をかざして日差しを遮りながら、俺の後ろから屋上へ出てきた。
吹き抜ける風が、少しだけ火照った頬を冷ましていく。
俺は手すりの前まで歩いていくと、上着のポケットから煙草の箱を取り出した。一本を指でつまみ、口にくわえる。続いてライターを取り出し、慣れた手つきで火をつけた。
「青島さん、ここ禁煙ですよ」
「固いこと言うな」
「いや、そういう問題じゃ……」
亀山は呆れたように眉をひそめた。
まったく、何をそんなに真面目ぶりやがって。
俺は煙をひと口吸い込むと、煙草の箱を亀山へ差し出した。
「お前も吸え」
「……はぁ。じゃあ、一本だけ」
亀山は少しためらったあと、箱から一本抜き取った。
俺が差し出したライターで火をつけると、彼もまた、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
二人して、夕日に染まる街並みを眺める。
眼下には、いつもと変わらない街の風景が広がっていた。行き交う車も、人々の暮らしも、何事もなかったかのように動き続けている。
だが、俺たちが追っている事件の真相は、まだ闇の中だった。
しばらくの沈黙のあと、俺は口を開いた。
「亀山。今回の佐藤浩太君の司法解剖で、ある成分が検出された」
「ある成分、ですか?」
「ああ。ネフタソリタミンという成分だ」
「ネフタソリタミン……。聞いたことのない名前ですね。それが佐藤浩太君の死に何か関係があるんですか?」
「いや、今の段階では何とも言えねえ。検出されたというだけで、死因と関係があるかどうかも分かっていない」
俺は煙草を指に挟んだまま、亀山の顔を見た。
「このネフタソリタミンは、十五年前、大和大学病院の理化学研究室で偶然発見されたんだ」
「大和大学病院……。この近所にある病院ですよね」
「そうだ。だが、世間一般にはほとんど知られていない。大々的に報道されたわけでもなけりゃ、世間を騒がせたわけでもない。とりたてて有用な効能が確認されなかったことも、その理由の一つだろう。だから、お前が知らなくても無理はねえよ」
亀山は煙草を持つ手を止め、少し考えるような顔をした。
そして、何かに気づいたように俺を見た。
「……青島さんは、どうしてその成分のことを知っているんですか?」
「十年前の事故がきっかけだ」
「十年前の事故?」
「ああ。俺がまだ巡査長で、毎日のように現場を駆けずり回っていた頃の話だ」
俺は煙を吐き出し、遠い記憶をたどるように目を細めた。
「ある日、駅の階段から女性が転落する事故があってな。たまたま近くにいた俺も、その現場に立ち会うことになったんだ」
「女性が転落……。その方は?」
「頭を強く打って、亡くなった。それだけ聞けば、どこにでもある転落事故だ。現場を調べても、争ったような形跡は見当たらなかった。周囲に不自然な物が落ちていたわけでもない」
俺は煙草の灰を落とした。
「状況だけを見れば、事件性は薄い。普通なら、そのまま事故として処理されてもおかしくなかった」
「それなのに、何か気になることがあったんですね?」
「そうだ」
俺は短く答えた。
あのときの光景は、今でも妙にはっきりと覚えている。
現場の様子も、鑑識の連中が調べていた姿も。そして、あの場所に漂っていた、正体の分からない香りも。
「現場の周りでな、妙な香りがしたんだ」
「香り……ですか?」
「ああ。何とも言えねえ、不思議な香りだった。強烈ってわけじゃない。だが、確かにそこにあった。少なくとも、俺にはそう感じられた」
「何の香りだったんです?」
「それが分からなかった。俺だけじゃねえ。鑑識の連中も、現場にいた人間も、誰一人として正体を突き止められなかった」
亀山は黙って俺の話を聞いていた。
「念のため、現場周辺の空気も採取した。だが、分析しても決定的な手がかりは得られなかった。何かがあったんじゃないか。そう思ったんだが、それを裏付けるものがなかったんだ」
「不思議なこともあるんですね……」
「不思議、か。まあ、そう言うしかねえな」
俺は苦笑した。
しかし、あのとき感じた違和感は、どうしても頭から離れなかった。
事故そのものに不審な点が見当たらなかったからこそ、かえって気になったのかもしれない。
「それで、俺は念のため、司法解剖を行うよう関係者に話をした。結果、遺体を詳しく調べることになったんだ」
「それで、何かが見つかった……?」
「ああ」
俺はそこで言葉を切り、煙草を口元へ運んだ。
一度、ゆっくりと煙を吸い込む。
「解剖の結果、あの女性の体内から、ある成分が検出された」
亀山が息をのむ気配がした。
「……まさか」
俺は亀山の目をまっすぐに見据えた。
「そう。ネフタソリタミンだ」
「やっぱり……。ああっ! そういえば!」
亀山は何かを思い出したように、突然声を上げた。
「今日の現場でも、嗅いだことのない香りがしてました!」
「ああ。俺も気づいていた」
俺は煙草を指で挟み、遠くの街並みに目を向けた。
「だから、あの香りを覚えていた俺は、お前より先に署へ戻って、鑑識にそのことを伝えておいたんだ。そして、今回の司法解剖でも、同じ成分が検出された」
「なるほど……。それで、さっきの話につながるんですね」
「そういうことだ」
俺は残りわずかになった煙草を吸い終えると、携帯灰皿を取り出し、吸い殻を中に収めた。
「ただし、十年前の事故と今回の事件がつながっているとは、まだ言えねえ。そもそも、佐藤君がどうしてその成分を体内に取り込んでいたのかも分かっていない。まずは、今回の事件で、どのような経緯でその成分が検出されたのか、詳しく調べる必要がある」
「それと並行して、十年前の事故も調べ直すべきですね」
「そうだ。今度こそ、分からないことを分からないままにしておきたくない」
自分でも驚くほど、強い口調になっていた。
十年前、俺は最後まで真相にたどり着けなかった。
証拠がなかった。それは事実だ。
だが、証拠がなかったことと、何も起きていなかったことは、同じではない。
今回の事件が、あのとき見落とした何かにつながっているのなら。
今度こそ、確かめなければならない。
「亀山。今回の事件の捜査は、これまでどおり進めてくれ。鈴木一二三君と数式の関係も、薬の入手経路も、まだ何一つ分かっていないからな」
「分かりました。先入観を持たず、一つずつ確認していきます」
「頼んだぞ。俺は十年前の事故をもう一度洗い直してみる。まずは当時の捜査資料と、鑑識記録を確認するつもりだ」
「何か分かったら、すぐに共有してください」
「ああ、分かってる」
亀山はうなずくと、吸い終えた煙草を携帯灰皿に収め、屋上を後にした。
その背中を見送りながら、俺はもう一度、十年前の記憶をたどっていた。
あのとき、俺は何を見落としたのか。
なぜ、あの女性の体内からネフタソリタミンが検出されたのか。
そして、今回の佐藤浩太君の死と、何か関係があるのだろうか。
まだ、答えは見えない。
だが、確かなことが一つだけあった。
十年前、事故として処理されたあの出来事が、再び俺の目の前に姿を現したのだ。




