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Arithmetic  作者: たろSAN
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第4章 消えない疑念

「現場で妙な香りがした」という事実の追加と時系列の調整をしました。

 あの日の朝、母は眩しいほどの笑顔で家を出ていった。

 持病一つない、健康そのものの母。

 そんな母が参加することになったのは、夢のような新薬の治験。

 母は、そう説明してくれた。

「これが実用化されたら、助かる命がもっと増えるかもしれないんだって」

 そう話す母の顔は、希望に満ちていた。

 人の役に立つことが大好きな母らしいと思った。

 私は何の疑いも持たず、笑顔で母を送り出した。

 それなのに――。

 その日の夕方、私のもとに届いたのは、警察からの無機質な報せ。

あまりにも理不尽で、あまりにも突然の出来事。

でも時間の流れは無情にも過ぎていく。

 葬儀など、必要なことを一通り済ませた私は、母の遺品を整理していた。

「あ……これ」

 手に取ったのは、少し不格好な湯飲みだった。

 私がまだ幼かった頃、母の日にプレゼントしたものだ。

 お小遣いをためて買った、決して高価ではない湯飲み。

 それでも母は、私が贈ったものだというだけで、いつも嬉しそうに使ってくれていた。

「奈々からもらったものだからね。お母さん、これ大好きなの。」

 そう言って笑っていた母の顔が、鮮明によみがえる。

「……お母さん」

 胸の奥から、込み上げてくるものがあった。

 私は湯飲みを両手で包み込むように持ったまま、しばらく動けなかった。

 遺品の一つ一つに、母との思い出が詰まっていた。

 見るたびに、声が聞こえてくるような気がした。

 笑顔も、何気ない会話も、いつもの仕草も。

 もう二度と、目にすることはできない。

 私は何度も涙をぬぐいながら、少しずつ整理を続けた。

 ふと、リビングに目を向ける。

 父がソファーに腰を下ろし、うなだれていた。

 こんな父を見るのは初めてだった。

 いつも家族を支えてくれていた父も、今回ばかりはどうしていいのか分からないのだろう。

 無理もない。

 私だって、どうすればいいのか分からないのだから。

 こんなとき、お母さんがいてくれたら……。

 きっと、いつもの笑顔で私たちを励ましてくれたはずだ。

『奈々、お父さんと二人で支え合って生きていくのよ。いつまでも落ち込んでいたら、お母さん、怒っちゃうからね!』

 そんな声が聞こえてくるようだった。

 私は父の隣に腰を下ろし、その手をそっと握った。

「お父さん。私も悲しいよ。でも、お母さんがいたら、きっと怒られちゃうよね」

 父はゆっくりと顔を上げ、私を見つめた。

 そして、私を強く抱き寄せた。

「……そうだな。いつまでもくよくよしていても、仕方がないな」

 父の声は、かすかに震えていた。

「でも、奈々。今日だけは、このままでいさせてくれ。大丈夫だ。明日になったら、いつものお父さんに戻るから……。すまないな」

「うん……分かった」

 それ以上、言葉は出てこなかった。

 私たちは肩を寄せ合い、しばらく何も話さずに座っていた。

 時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいる。

 カチ、カチ、カチ……。

 その音だけが、まるでこの世界のすべてを支配しているかのように響いていた。

 

     * * *


「なあ、米澤さん」

「ん? 何だ、青島巡査長。珍しいな、お前が鑑識課に顔を出すなんて」

 鑑識課のデスクで書類を整理していた米澤が、顔を上げた。

「まあ、そう言うなって。ちょっと聞きたいことがあってさ」

「聞きたいこと?」

 俺は米澤の向かいに腰を下ろした。

 頭から離れない光景があった。

 昨日、階段から転落して頭部を強く打って亡くなり、事故死として処理された女性のことだ。

 現場の状況だけを見れば、転落事故として説明できる。

 争った形跡もなく、その他明確な証拠も見つかっていない。

 警察としては、事故と判断するのが自然な状況だった。

 だが、どうしても引っかかるものがあった。

 亡くなった女性の娘――綾瀬奈々さんのことだ。

 彼女は、母親が事故で亡くなったとは思えないと訴えていた。

 もちろん、身近な人を突然失えば、現実を受け入れられないこともあるだろう。

 だからといって、遺族の訴えをそのまま事件の証拠にすることはできない。

 俺も、彼女にはそう説明した。

 だが、それで終わらせていいのだろうか。

 現場の状況に不自然な点はない。

 それでも、引っかかる。

 そう、それはあの香り。

 鑑識の調べでは問題なしで終わったが、なんというか俺の頭で警鐘が鳴り続けていた。

「米澤さん。あの女性、本当に事故死だったのか?」

 俺が尋ねると、米澤は一瞬だけ手を止めた。

 そして、呆れたように笑った。

「おいおい、また始まったな。刑事の勘ってやつか?」

「勘だけで、わざわざここまで来ると思うか?」

「いや、お前なら来るだろ」

「ひどいな、おい」

 俺は苦笑したが、すぐに表情を引き締めた。

「冗談はいいから。何か、気になることがあったんじゃないのか?」

 米澤は答えず、手元の書類に目を落とした。

 その沈黙が、かえって俺の疑念を深めた。

「……米澤さん?」

「参ったな」

 米澤は小さく息を吐き、周囲をちらりと見回した。

「青島。お前も分かっていると思うが、鑑識の結果だけで、すぐに事件だ事故だと決められるわけじゃない」

「そんなことは分かってる」

「なら、まずは落ち着いて聞け」

 米澤は椅子の背もたれに体を預けた。

「実はな。司法解剖の結果、睡眠薬などに使われることのあるベンゾジアゼピン系の成分が、ごく微量だが検出された」

「睡眠薬……?」

「ああ。ただし、それだけで事故か事件かを判断することはできん。薬の種類や量、服用した時期、本人が薬を使用していた可能性など、確認しなきゃならないことはいくつもある」

「それはそうだな……。だが、ほかにも何かあったんだろ?」

 俺がそう尋ねると、米澤は困ったような顔をした。

「お前、本当に勘がいいのか、単にしつこいだけなのか分からんな」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「褒めてねえよ」

 米澤は苦笑したあと、声を少し落とした。

「もう一つ、気になる成分が検出されている」

「何だ?」

「ネフタソリタミンという成分だ」

「ネフタ……ソリタミン?」

 聞き慣れない名前だった。

「聞いたことがないだろうな。一般にはあまり知られていない成分だ。今回の検査で検出されたこと自体は、鑑識としても気になっている」

「それは、どんな成分なんだ?」

「5年前に発見された成分でな、詳しい作用については、専門機関に確認しているところだ。現時点では、この成分が死因になったとは考えられていない。少なくとも、今までの調査では、人体に取り込まれたことだけで死に至るような成分とは確認されていないんだ」

「じゃあ、なぜそんなものが彼女の体内から検出された?」

「そこが問題なんだよ」

 米澤の表情から、先ほどまでの軽さが消えた。

「実は、この成分を発見したのが、大和大学病院なんだ」

「大和大学病院……?」

「ああ。しかも、亡くなった女性は、そこの研究機関で行われる新薬の治験に参加する予定だったらしい」

 俺は思わず身を乗り出した。

「待てよ。彼女が参加する予定だった治験と、この成分に何か関係があるのか?」

「それは、まだ分からん。成分が検出されたという事実と、治験との関連性は別の話だ。今の段階で結びつけるのは早計だよ」

 米澤は慎重に言葉を選んでいた。

「それに、今のところ、この成分が死因になったという証拠もない。転落による頭部の損傷が確認されている以上、事故という判断そのものが間違っていたとは言い切れないんだ」

「……なるほどな」

 俺はうなずいた。

 確かに、これだけで殺人事件だと断定することはできない。

 薬物が検出されたからといって、それが誰かの手によって飲まされたものだとは限らない。

 だが――。

「米澤さん。あんたは、どう思ってる?」

「俺の考えを聞いて、どうする?」

「参考にするだけさ」

 米澤はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……正直に言えば、気にはなっている。なぜ、あの女性の体内からその成分が検出されたのか。偶然なのか、何か理由があるのか。それは調べる必要があると思っている」

「そうか」

「そしてあの香り。」

俺は目を見開いた

「やっぱ米澤さんも気になるか!」

米澤はそれをあしらうように答えた

「そりゃな、今回の司法解剖をする原因はあの香りだ。でもその香りが何の正体だったのかもわからなかった以上、なにも解決には至らん。だが、気にはなる――。」

「その正体をあばくしかないな。」

「おい青島。これはまだ疑問の段階だ。思い込みで突っ走るなよ。何かを疑うなら、それを裏付けるものが必要だ」

「分かってるよ」

 俺は立ち上がった。

 頭の中で、いくつもの情報がつながり始めていた。

 亡くなった女性。

 彼女が参加する予定だった新薬の治験。

 体内から検出された聞き慣れない成分。

 そしてあの香り。

 どれも、単独では事故死を覆す証拠にはならない。

 だが、無関係だと決めつけることもできない。

「ありがとう、米澤さん。助かったよ」

「おい、ちょっと待て。どこへ行く気だ?」

「決まってるだろ。まずは、彼女の治験について調べ直す。それから、分かったことを一つずつ確認していくさ」

「青島!」

 米澤が声を張り上げた。

「いいか、勝手に事件だと決めつけるなよ! それと、俺が話したことも、まだ確認中の情報だからな!」

「分かってるって!」

 俺は振り返り、片手を上げた。

「今度、何かおごるよ!」

「お前なあ! そういう問題じゃないんだよ!」

 米澤の声が、廊下まで響き渡った。

 俺は苦笑しながら、鑑識課を後にした。

 まだ、事件と呼べるだけの証拠はない。

 しかし、確かめなければならないことは見えてきた。

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