第10章 ひとときの休息
大和大学病院に来て、かれこれ4年目を迎えた。
私は今も、仕事の合間を縫ってネフタソリタミンの成分に関する研究を続けている。
夜遅くまで研究室に残ることも珍しくなかった。それでも、真実を追い求めたいという思いが、疲労を感じることさえ忘れさせていた。
そんなある日も、私は研究に行き詰まっていた。
どうあがいても、あの論文を超える成果が得られない。
新たな手がかりを探しても、どこかで壁にぶつかってしまう。まるで、目の前にある真実だけが、私の手の届かない場所へ逃げていくようだった。
「さて、どうしたものか……」
私は椅子の背もたれに体を預け、深く息を吐いた。
「ふぅ……休憩するか」
おもむろに研究室を抜け出し、休憩コーナーへと向かう。
自動販売機で買ったカップコーヒーを手に、ベンチに腰を下ろした。
ふと、周囲を見渡す。
そういえば、2年前もここで理事長と話をしたっけ。
あの日のことを思い出すと、今でも胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
あれから2年。
理事長に目立った動きはなく、私自身も、これといった成果を上げられずにいた。
母の死に隠された真実を追い求めてきたはずなのに、今では、その手がかりすら見つけられない。
最近では、こんなことを考えるようになっていた。
――もう、母の死に対する疑いは捨てて、前を向いて歩いていこうか。
この仕事は楽しい。
研究に没頭できる環境も、周囲の仲間たちにも恵まれている。
何より、この大和大学病院に来られてよかったと、心から思っている。
この環境なら母の思いを引き継ぐこともできる。
私なりに、精いっぱい頑張ってきたつもりだ。
だから、もういいんじゃないだろうか。
これ以上、過去にとらわれなくてもいいんじゃないだろうか。
カップの中のコーヒーをひと口すすり、私はぼんやりと天井を見上げた。
そんなことを考えていた、そのときだった。
向こうから、見覚えのある人影が歩いてくる。
「おっ、綾瀬! 今日もかわいいねぇ!」
「げっ、林……」
思わず顔をしかめてしまった。
「そんなあからさまに嫌がらなくてもいいじゃないっすか」
「あんたと関わると、ろくなことがないのよ」
「そんなこと言って、ほんとは俺のことが好きなくせに。おいで、マイハニー!」
林君は両手を大きく広げ、さあ飛び込んでこいと言わんばかりのポーズをとった。
「ばからしい」
私はぷいっと顔を背けた。
「あはは、また嫌われたかな」
林君は苦笑いを浮かべながらも、どこか楽しそうだった。
いつもの軽口。
いつもの調子。
まったく、懲りない人だ。
そう思っていたのだが、ひとしきりふざけたあと、林君はふと表情を改めた。
「……そんなことより、綾瀬。ちょっと真面目な話だけど」
「なによ、急に」
「少し休んだほうがいいんじゃないか? ここんとこ、なんとなく元気がないように見えるぞ」
林は自販機前に行き、ボタンを押しながら問いかける。
「そう、かな……」
不意を突かれ、私は返事に詰まった。
自分では普段どおりに振る舞っているつもりだった。
けれど、確かに研究は行き詰まっている。
残業も続いていたし、必要以上に根を詰めていたのかもしれない。
何より、ここ最近は、研究に向き合うたびに焦りばかりが募っていた。
林君は人差し指をぴんと立て、名案を思いついたとばかりに言った。
「今度の休日、どっか行ってきたらどうっすか?」
「どっかって……」
「温泉でも、観光地でも。仕事のことなんか忘れて、のんびりしてくるんだよ。ずっと頑張りっぱなしじゃ、いい考えだって浮かばない!」
その提案は、思いのほか魅力的に聞こえた。
母が亡くなって以来、私は自分の時間をほとんど顧みてこなかった。
研究に打ち込み、勉強を重ね、少しでも真実に近づこうとしてきた。
遊びに出かけることも、誰かとゆっくり過ごすことも、いつの間にか後回しになっていた。
たまには、何も考えずに過ごす時間があってもいいのかもしれない。
「うーん……そうね。それもいいかもしれないわね」
「おっ、いい反応! なんなら俺も一緒に行きましょうか!」
「却下!」
「即答!? 傷つくぅ~!」
林君が大げさに胸を押さえる。
思わず吹き出してしまった。
つられて林君も笑い出す。
さっきまで胸の中に居座っていた重苦しさが、ほんの少しだけ薄れた気がした。
――そうね。少しくらい、休んでもいいのかもしれない。
私は、ひとときの休息を取ることに決めた。
* * *
「ただいまー」
玄関の扉を開け、いつものように声をかける。
返事はない。
けれど、それでいい。
誰もいない家に帰ることにも、もうすっかり慣れていた。
私は荷物をリビングのテーブルに置くと、そのまま仏間へと向かった。
仏壇の前に座り、線香を供える。
静かに手を合わせたあと、おりんを鳴らした。
ちーん……。
澄んだ音が、仏間に広がる。
「お母さん、ただいま」
これが、私の日課だった。
仕事でどんなことがあっても、帰宅したらまず母に報告する。
もちろん、返事が返ってくるわけではない。
それでも、こうして声をかけることで、母が今もそばにいてくれるような気がするのだ。
今日は残業をせずに帰宅したので、まだ時間に余裕があった。
私は簡単な夕食を作り、一人で食事を済ませる。
父の分はラップをかけて、冷蔵庫に入れておいた。
父は、以前の職場を辞めて転職していた。
どうやら、前の仕事が自分には合わなくなっていたらしい。
今はイベントなどの企画やコンサルティングに携わる仕事をしている。
新しい仕事は、さまざまな人と協力しながら形にしていく仕事で、帰宅が遅くなることも多いけれど、 父身は充実しているようだった。
最近では、仕事の話を楽しそうにしてくれることもある。
そんな父の姿を見ていると、私も安心する。
母を亡くした悲しみが消えたわけではないだろう。
それでも、父は父なりに前を向き、自分の居場所を見つけたのだと思う。
以前に比べて、表情も明るくなった。
母が亡くなってから、ずいぶんとつらい思いをしてきた父。
だからこそ、以前のように元気を取り戻していく父の姿を見ると、私はほっとする。
――お父さんも、前に進んでいるんだ。
そう思うと、私もいつまでも立ち止まってはいられない気がした。
「さて、お風呂でも入ろうかな」
食器を片づけ、ひと息つこうとした、そのときだった。
ピンポーン。
突然、インターホンが鳴った。
「はーい」
私は返事をしながら、インターホンのモニターを確認した。
そこに映っていた人物を見て、思わず目を見開く。
――浩太君?
モニター越しでもわかるほど、彼の表情は暗かった。
普段の元気な姿とはまるで違う。
うつむき加減で立つその姿からは、何か思い詰めているような雰囲気が伝わってきた。
私はすぐに玄関を出て、門扉まで歩いていった。
「どうしたの、浩太君?」
声をかけても、浩太君は何も答えなかった。
近くで見ると、ずいぶん大きくなったものだ。
昔は、私の隣に並べばずっと小さかったのに、今では身長もとっくに追い越されている。
時間がたつのは、本当に早い。
そんなことを思いながら、私は改めて彼の顔をのぞき込んだ。
「……とりあえず、上がって」
ここで話を聞くより、家の中でゆっくり話したほうがよさそうだった。
浩太君を招き入れ、リビングのソファーに座らせる。
「コーヒーとお茶、どっちがいい?」
「じゃあ、お茶で」
「はいはい、ちょっと待っててね」
私は台所でお茶を用意し、湯飲みを二つ持ってリビングへ戻った。
浩太君の隣に腰を下ろし、テーブルに湯飲みを置く。
「どうしたの? こんな時間に。何かあった?」
浩太君は、湯飲みに視線を落としたまま黙っていた。
やがて、意を決したように口を開いた。
「……花子と鈴木一二三君っていう、俺の親友がいるんですが」
「うん」
「二人が……先月から付き合い始めたんです」
「えっ?」
思わず声が出た。
花子ちゃんと一二三君。
2年前、大和大学病院で二人を見かけたことがある。
あのときは、まさか二人が付き合うことになるなんて思いもしなかった。
「そう……なのね」
驚きはしたものの、二人にとっては喜ばしいことなのだろう。
けれど、浩太君の表情を見るかぎり、話はそれだけではなさそうだった。
「でも、花子はいつもどおり俺に話しかけてくるし、一二三も親友のままなんです。二人とも、俺に対する態度は何も変わってない。でも……」
浩太君は言葉を切り、膝の上でぎゅっと手を握った。
「やっぱり、そこに溝があるっていうか……」
「溝、ねぇ……」
私は小さく相づちを打った。
難しい悩みだ。
友達だった二人が恋人になったことで、三人の関係が少しずつ変わっていく。
本人たちに悪気がなくても、今までと同じようにはいかなくなることだってあるだろう。
ましてや、その一方を好きだという気持ちがあるのなら、なおさらだ。
ただ、困ったことに、私には恋愛経験というものがほとんどない。
母の死の真相を追いかけることに夢中で、青春らしい青春を送ってこなかった。
こんなとき、どんな言葉をかければいいのだろう。
……いや、まずはお姉さんとして、ちゃんと話を聞いてあげないと。
「その溝って、具体的にはどんな感じなの?」
私が尋ねると、浩太君は少し考えてから答えた。
「うーん……三人で話してるときに、二人だけの世界に入っちゃうことがあるんです。俺が話しかけても、二人で笑い合ってたりして……。別に、わざとやってるわけじゃないってわかってるんですけど」
「そっか……」
私は湯飲みを手に取り、お茶をひと口すすった。
浩太君の気持ちが、少しだけわかった気がした。
今まで当たり前だった関係が、ある日を境に変わってしまう。
自分だけが取り残されてしまったような、そんな寂しさなのだろう。
そして、浩太君はとうとう、心の奥にしまっていた本音を口にした。
「なな姉……俺、花子が好きなんです」
その言葉は、思いのほか静かだった。
けれど、そこには長い間抱えてきた気持ちが詰まっているように思えた。
「でも、二人があんなふうにしてるのを見ると……もう、諦めるしかないのかなって」
浩太君はうつむいた。
「だって、一二三も大切な親友だし。二人が付き合ってるのに、俺が花子を好きだなんて……」
それ以上は言葉にならなかったのか、浩太君は黙り込んでしまった。
私は彼の横顔を見つめながら、どうしたものかと考えた。
無責任に「諦めなくていい」と言うのも違う気がする。
だからといって、「諦めたほうがいい」と決めつけることもできない。
恋愛経験の乏しい私に、気の利いた助言なんてできるのだろうか。
……いや。
今、必要なのは、恋愛の正解を教えることじゃない。
浩太君が少しでも気持ちを整理できるように、いつもとは違う時間を過ごさせてあげること。
そこで、ふと思いついた。
今日は金曜日。
明日も明後日も、私は休みだ。
せっかく林君に休息を勧められたのだから、ちょうどいい機会かもしれない。
私は浩太君のほうへ向き直り、できるだけ明るい声で尋ねた。
「ねえ、浩太君。明日か明後日、暇?」
「……え?」
突然の質問に、浩太君はきょとんとした顔で私を見た。
「私とデートしよ!」
「えええーーっ!?」
浩太君が、リビングに響き渡るほどの大声で叫んだ。
あまりの反応に、私は思わず笑ってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください! デ、デートって……なな姉と!?」
「そうよ。何か問題でも?」
「いや、問題っていうか……えっ、ええっ!?」
顔を真っ赤にして、しどろもどろになる浩太君。
さっきまであんなに沈んでいたのに、今では目を白黒させている。
私はそんな彼を見て、にこっと微笑んだ。
さて、どこへ連れていこうか。
せっかくの休みだ。
少しくらい、年上のお姉さんらしいことをしてあげてもいいだろう。
――今週末は、きっと楽くなるな。
そう思いながら、私は目の前でまだ慌てふためいている浩太君を、微笑ましく見つめていた。




