第4話 推しへの憧れ、銀髪小女、ダンジョン配信者を目指す
食卓の中央に置かれた大きなお鍋から、スパイシーで食欲をそそる芳醇な香りがリビングルームいっぱいに立ち込めている。
アゲハは目の前に置かれた平皿の上の純白のご飯と、その周囲をたっぷりと満たす艶やかな褐色のルーを、うっとりとした瞳で見つめていた。まるで美術品を鑑賞するかのようにスプーンを慎重に持ち上げ、黄金比率ですくい取ったそれを口に運んだ瞬間、彼女の瞳がキラリと星のように輝いた。
「んー、美味しい……! こんなの、初めて食べたよ……!」
「アゲハちゃんは、本当に美味しそうに食べてくれるわねぇ。作った甲斐があるわ」
優しげな笑みを浮かべながら、エプロン姿の理乃が愛おしそうに目を細める。
その向かいの席では、父親の和樹が「いやあ、理音が結婚する前からこんなに可愛い孫はできるなんて思わなかったなあ」と、目を細めてすっかり骨抜きにされている様子だ。彼もまた、突然未来からやってきたというアゲハの荒唐無稽な自己紹介を、一欠片も疑うことなく笑顔で歓迎してくれた。
天音家の両親は、揃いも揃って器が大きすぎるというか、ある種の天然マイペースを極めているようだった。ディストピアの冷淡な管理社会で育ったアゲハにとって、この無条件の優しさと大らかさは、時にスパイスよりも深く胸に染み入るものがあった。
一方、そんな両親の様子を横目で見ながら、理音は呆れたように自身のスプーンをコツンと皿の縁に当てた。
「こんなごく普通の家庭的なカレーが、そんなに美味しいんですか……? アゲハさんのリアクション、まるで人生で初めて美味しいものを食べた野生の小動物みたいになってますけど」
「もちろん! 未来の世界では、生きるために必要な栄養素を効率よく摂取するためだけに支給される、味気ないチューブ入りの人工栄養食しか食べられなかったの。栄養バランスは完璧だけど、味なんてものは存在しなくて、ただ喉を通すだけの作業だったんだ。こんなにも豊かなスパイスの香りと、お肉や野菜の旨味が溶け込んだ温かい食事なんて……私にとっては夢のような最高のご馳走だよ!」
アゲハは感極まった様子で胸の前で両手を組み、再びスプーンを手に取って夢中になりながらカレーを頬張った。そのあまりの美味しさに、時折小さく体を揺らす姿は、108歳のレジスタンスエージェントというよりは、美味しいご飯に目を輝かせるただの少女そのものだった。
「まだお鍋にはおかわりが山ほどあるからね。遠慮しないでいっぱい食べなさい、アゲハちゃん」
「はいっ! ありがとう、理乃おばあちゃん!」
アゲハは嬉しそうに頷くと、また一口、スプーンを口に運んだ。
あまりにも満たされた時間がそこには流れていた。
§
夕食の片付けが終わり、リビングには心地よい満腹感と、夜の静けさがもたらす穏やかな空気が流れていた。
理乃が淹れてくれた香ばしいダージリンティーのカップがそれぞれの前に置かれると、理音はふと思い出したように眉根を寄せ、アゲハに向かって真剣な視線を向けた。
「あの、アゲハさん。ちょっと現実的な話に戻らせてください。アゲハさんはこれから一体どうやってその魔神王を倒すつもりでいるんですか? アゲハさんがいくらイレギュラーモンスターを圧倒的な力で倒せるくらい強いとしても、たった一人じゃ、そんな世界を揺るがすような巨大な敵に太刀打ちできなくないですか?」
理音の現実的で尤もな問いかけに、アゲハはフッと艶やかに微笑み、ティーカップの縁に指先を添えながら、優雅に足を組み替えた。
「それなら、私、すごく素敵なアイデアがあるんだ。ダンジョン配信を利用するの」
「えっ……? アゲハさん、まさかダンジョン配信者になるつもりでいるんですか?」
「そう! 理音おばあちゃんみたいにダンジョン配信者になって、この時代のネットワークを通じてリスナーの皆に私が戦っている姿を生配信するの。そうして一躍人気者になって、世界中から魔神王と一緒に戦ってくれる頼もしい仲間をたくさん募るんだ!」
「スケールが大きすぎるっていうか、配信者の知名度を利用してレジスタンスの同志を集めようってことですか……? なにかインフルエンサーの戦略みたいでめちゃくちゃ現代的ですけど……そう上手くいきますかね?」
「大丈夫、私の美貌と、最先端のアルターエゴ・システムや超兵器を駆使した華麗な戦いぶりがあれば、一瞬でトレンドのトップに躍り出ることができるはずだよ。それにね、私がダンジョン配信者を目指すのには、もう一つすごく大きな理由があるんだ」
アゲハは急に真剣な表情になり、カップをソーサーに置いた。
「もう一つの理由?」
「うん。理音おばあちゃんは、『姫宮シオン』様を知ってる?」
その名前が出た瞬間、理音は目を見張り、手元でいじっていたスマホの画面を思わずスワイプして止めた。
「え……! 知ってるどころか、業界の超有名人ですよ。【七天】って呼ばれてる、この世界に七人しかいないEX級探索者のトップに君臨するダンジョンチューバー、通称『Dtuber』の筆頭格ですしね。凛とした美しさと圧倒的な実力を兼ね備えた、クールビューティな最強の剣聖としてめちゃくちゃ人気がある人なんですけど……でも、なんで未来から来たアゲハさんが、今の時代の配信者のことなんて知ってるんですか?」
理音が探るような目を向けると、アゲハは誇らしげに胸を張った。
「ふふふ、私、未来のメタバース上の裏ルートで、こっそり流出していた古の時代のアーカイブ映像や、ファンアートのお宝データをたまたま漁る機会があってね。その中で、シオンお姉様の過去の伝説的な配信に出会ったの」
アゲハは目をキラキラと輝かせながら、当時を思い出すように熱っぽく語り始めた。
「ダージリンティーをこよなく愛し、どんな強大な魔物が現れても決して怯まず、常に気高く弱者を守るために正義の剣を振るうその姿に、私は心底憧れを抱いたんだ。そうして、私もいつかあんな風に、誰かを守れる強い存在になりたい、自分もあんな強さが得たいって思って、訓練に励み、ダンジョンに挑み始めたの。ディストピアでの過酷な現実を生き抜く私にとって、シオン様の存在は唯一の心の支え、人生のバイブルだったんだ!」
「なるほど……。アゲハさんがダンジョン配信者を目指すのは、その『推し』の存在が大きな影響を与えていたわけですか。動機がめちゃくちゃファン心理で親近感湧きますけど、目指す高みがエグすぎませんか? シオン様って、普段はめったにコラボとかしない孤高のトップスターなんですよ?」
「だからこそ意味があるの。彼女と同じ舞台に立ち、いつか直接肩を並べて戦えるほどの存在になってみせるんだ。それが私の、この時代におけるもう一つの夢なんだから!」
アゲハの瞳に宿る熱い光を見て、理音は思わず苦笑いを浮かべた。
「まあ、アゲハさんのその底抜けのポジティブさと行動力なら、もしか本当にトップまで登り詰めちゃうかもしれないですけどね……。でも、実際に配信をするためには、撮影用の高性能な浮遊ドローンとか、配信用の専用アカウントの開設とか、色々準備が必要ですよ?」
「ふふん、そこは心配いらないよ。今日、ギルドで〈クリスタル・オーガ〉の素材を換金した時にもらった大金が、私の空間収納の中にたっぷりと眠っているからね! あの買取金額なら、最高級の配信機材なんて一式丸ごと余裕で買い揃えられるはずだよ」
「お小遣いどころか、下手したら中小企業の資本金くらいになりそうな大金ですもんね……。分かりました。そこまで言うなら、明日、私の知ってる信頼できるオーディオ・ビジュアル専門店と、ギルド直営の配信機材ショップに案内してあげます。初期設定とかも、配信者の私が手伝ってあげますから」
「本当!? やったあ! さすが理音おばあちゃん、最高に頼りになるね!」
アゲハは喜びのあまり、向かいの席から身を乗り出して理音の両手をぎゅっと握りしめた。理音は「おばあちゃんって言わないで……」と照れくさそうに頬を掻きつつも、どこか嬉しそうな、誇らしい笑みを浮かべていた。
§
夜が更け、天音家の二階にある理音の自室。
淡い間接照明が照らす部屋の中では、未来からやってきた銀髪の少女と、現代の女子高生による、前代未聞の同居生活の準備が進められていた。
「ほら、アゲハさん。今日から当分の間は、このベッドの横に並べる形で簡易ベッドを置きますからね。寝相が悪かったりで、私のベッドになだれ込んできちゃダメですよ?」
「もう、子供扱いしないでよ、理音おばあちゃん。私だって未来のエージェントなんだから、これくらい……うわっ!」
新しいベッドのクッション性を確かめようと飛び乗ったアゲハが、バランスを崩してふわりとフローリングの床に転がり落ちる。そのドジっ子っぷりに、理音は思わず吹き出した。
「ほら見なさい。やっぱり中身はまだまだ子供じゃないですか」
「うう……不意打ちだったもん。でも、このお部屋、すごくいい匂いがする。未来の居住区にはなかった、木の温もりと柔軟剤の優しい香りがするよ」
アゲハは床に座り込んだまま、理音の部屋のあちこちを興味津々な瞳で見回した。ポスターが貼られた壁、本棚に並ぶライトノベルや雑誌、そしてデスクの上に置かれた可愛いデザインの配信用マイク。すべてが、アゲハにとっての『豊かな過去の文明』の結晶だった。
「気に入ってもらえて何よりです。さて、明日は朝から街に出て、アゲハの配信者デビューに向けた機材集めと、探索者登録の正式な手続きを済ませに行きましょうか」
「うん! 私、絶対に最高の配信をしてみせるからね。そして、この時代の歴史を書き換えて、理音おばあちゃんたちがいるこの美しい世界を、絶対に魔神王から守ってみせる!」
アゲハは力強く拳を握りしめ、決意に満ちた瞳をきらめかせた。
窓の外では、二百年前の穏やかな夜空に満天の星々が瞬いている。
銀髪の少女が抱いた小さな夢と大きな使命は、奇跡のような出会いを経て、今まさに現代という名のキャンバスに鮮やかな軌跡を描き始めようとしていた。




