君は、カミラではないな
ゲルハルトの訪問から三日が経った。
伯爵からの新しい手紙は来ない。それが却って不気味だった。嵐の前の静けさのように、何かが近づいている気がする。
その日の夕方、ヴィクトル様に呼ばれた。
——書斎に来い。
ニコラスがそう伝えてきたとき、胸騒ぎがした。
書斎の扉を開けると、ヴィクトル様が窓際に立っていた。
夕日が差し込んで、その横顔を赤く染めている。
「座れ」
「……はい」
椅子に腰を下ろす。ヴィクトル様は窓の外を見たまま、しばらく沈黙していた。
重い空気。何を言われるのか、想像がつかない。
「——聞きたいことがある」
「はい」
「正直に答えてくれ」
心臓が縮んだ。
「お前の名前は、カミラか」
世界が止まった。
「……何を、おっしゃっているのですか」
「聞いたままだ。お前は——カミラ・フォン・ヴァレンシュタインか」
声が出なかった。
足が震える。手が震える。呼吸が浅くなる。
「ヴィクトル様、私は——」
「嘘はいい」
ヴィクトル様が振り返った。
その目は、怒っていなかった。
悲しそうでもなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
「君は、カミラではないな」
——終わった。
そう思った。全てが。この温かい場所での暮らしが。ヴィクトル様の隣にいられる日々が。
涙が溢れ出した。
「すみません——すみません、ヴィクトル様——私は——」
「泣くな。まだ何も言っていない」
ヴィクトル様が近づいてきた。椅子に座ったまま泣く私の前に、しゃがみ込んだ。
大きな体が小さくなる。目線が同じ高さになる。
「ずっと——気づいていた」
「……え?」
「最初からではない。だが——早い段階で気づいた」
---
〈ヴィクトル〉
最初に違和感を覚えたのは、初日の夜だった。
馬車から降りてきた女は、伯爵令嬢にしては手が震えていた。怯えていた。それ自体は不思議ではない——鬼伯爵の噂を聞いて怯えるのは当然だ。
だが。
「ありがとう、ございます」と言ったとき、声が裏返った。
伯爵令嬢は声を裏返さない。社交界で鍛えられた女は、どんなときでも声を制御する。
気のせいだと思おうとした。
二日目。
食堂で「そんなに離れて座るのですか?」と聞かれた。政略結婚の相手に、距離を縮めたいと言う伯爵令嬢。おかしな話だ。
三日目。
庭で花に水をやっていた。土に触れることを嫌がらなかった。手袋を汚すことすら気にしなかった。
四日目。
台所を覗いた。料理に興味を持った。伯爵令嬢が台所に立つなど、聞いたことがない。
五日目。
泣いた。声を殺して。一人で。
——その泣き方は、伯爵令嬢のものではなかった。
使用人が、主人の前で隠れて泣く、あの泣き方だ。
俺の母は、伯爵の圧政に苦しむ民の娘だった。母も同じように泣いていた。
あの夜、頭に手を置いたとき——確信した。
この女は、カミラではない。
では誰か。わからなかった。わからなかったが——
「心から愛せる人を妻にせよ」
母の遺言が、頭をよぎった。
——この女は、カミラではない。だが、俺が妻にしたいのは、この女だ。
だから黙っていた。
気づいていて、何も言わなかった。
言えば、この女は消えてしまう気がしたからだ。
---
「ずっと——知っていたのですか」
「ああ」
「なぜ……なぜ何も言わなかったのですか」
「お前が怯えていたからだ。追い詰めれば、逃げるだろうと思った」
そんな——
「お前にはお前の事情がある。俺はそれを聞く立場にはなかった。だが——」
ヴィクトル様の手が、私の頬に触れた。
涙を拭うように。
——温かい。
「それでも、お前は俺の妻だ」
「私は——カミラではありません。伯爵令嬢なんかじゃない。ただの——」
「知っている」
「侍女です。カミラお嬢様に仕えていた、ただの侍女で——」
「知っている。だから、どうした」
声が、泣き声で滲んで、言葉にならなかった。
「俺が見ていたのは、カミラという名前じゃない。花に水をやり、子供の怪我を手当てし、使者に毅然と立ち向かった——お前という人間だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが壊れた。
嘘の上に積み上げてきた全てが崩れて、代わりに——温かいものが溢れ出した。
「お前の名前を教えてくれ。本当の名前を」
涙が止まらないまま、口を開いた。
震える唇で。
でも——初めて、自分の名前を言える嬉しさで。
「フローラ。——私の名前は、フローラです」
ヴィクトル様の手が、私の頭を撫でた。
あの夜と同じ、不器用な手つきで。
「フローラ。——いい名前だ」
泣き笑いのまま、小さく頷いた。
偽りの名前が、ようやく脱げた。
夕日が二人を赤く照らしていた。




