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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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9/12

君は、カミラではないな

 ゲルハルトの訪問から三日が経った。


 伯爵からの新しい手紙は来ない。それが却って不気味だった。嵐の前の静けさのように、何かが近づいている気がする。


 その日の夕方、ヴィクトル様に呼ばれた。


 ——書斎に来い。


 ニコラスがそう伝えてきたとき、胸騒ぎがした。



 書斎の扉を開けると、ヴィクトル様が窓際に立っていた。


 夕日が差し込んで、その横顔を赤く染めている。


「座れ」


「……はい」


 椅子に腰を下ろす。ヴィクトル様は窓の外を見たまま、しばらく沈黙していた。


 重い空気。何を言われるのか、想像がつかない。


「——聞きたいことがある」


「はい」


「正直に答えてくれ」


 心臓が縮んだ。


「お前の名前は、カミラか」


 世界が止まった。


「……何を、おっしゃっているのですか」


「聞いたままだ。お前は——カミラ・フォン・ヴァレンシュタインか」


 声が出なかった。


 足が震える。手が震える。呼吸が浅くなる。


「ヴィクトル様、私は——」


「嘘はいい」


 ヴィクトル様が振り返った。


 その目は、怒っていなかった。


 悲しそうでもなかった。


 ただ、真っ直ぐだった。


「君は、カミラではないな」


 ——終わった。


 そう思った。全てが。この温かい場所での暮らしが。ヴィクトル様の隣にいられる日々が。


 涙が溢れ出した。


「すみません——すみません、ヴィクトル様——私は——」


「泣くな。まだ何も言っていない」


 ヴィクトル様が近づいてきた。椅子に座ったまま泣く私の前に、しゃがみ込んだ。


 大きな体が小さくなる。目線が同じ高さになる。


「ずっと——気づいていた」


「……え?」


「最初からではない。だが——早い段階で気づいた」



---


〈ヴィクトル〉


 最初に違和感を覚えたのは、初日の夜だった。


 馬車から降りてきた女は、伯爵令嬢にしては手が震えていた。怯えていた。それ自体は不思議ではない——鬼伯爵の噂を聞いて怯えるのは当然だ。


 だが。


 「ありがとう、ございます」と言ったとき、声が裏返った。


 伯爵令嬢は声を裏返さない。社交界で鍛えられた女は、どんなときでも声を制御する。


 気のせいだと思おうとした。


 二日目。


 食堂で「そんなに離れて座るのですか?」と聞かれた。政略結婚の相手に、距離を縮めたいと言う伯爵令嬢。おかしな話だ。


 三日目。


 庭で花に水をやっていた。土に触れることを嫌がらなかった。手袋を汚すことすら気にしなかった。


 四日目。


 台所を覗いた。料理に興味を持った。伯爵令嬢が台所に立つなど、聞いたことがない。


 五日目。


 泣いた。声を殺して。一人で。


 ——その泣き方は、伯爵令嬢のものではなかった。


 使用人が、主人の前で隠れて泣く、あの泣き方だ。


 俺の母は、伯爵の圧政に苦しむ民の娘だった。母も同じように泣いていた。


 あの夜、頭に手を置いたとき——確信した。


 この女は、カミラではない。


 では誰か。わからなかった。わからなかったが——


 「心から愛せる人を妻にせよ」


 母の遺言が、頭をよぎった。


 ——この女は、カミラではない。だが、俺が妻にしたいのは、この女だ。


 だから黙っていた。


 気づいていて、何も言わなかった。


 言えば、この女は消えてしまう気がしたからだ。


---



「ずっと——知っていたのですか」


「ああ」


「なぜ……なぜ何も言わなかったのですか」


「お前が怯えていたからだ。追い詰めれば、逃げるだろうと思った」


 そんな——


「お前にはお前の事情がある。俺はそれを聞く立場にはなかった。だが——」


 ヴィクトル様の手が、私の頬に触れた。


 涙を拭うように。


 ——温かい。


「それでも、お前は俺の妻だ」


「私は——カミラではありません。伯爵令嬢なんかじゃない。ただの——」


「知っている」


「侍女です。カミラお嬢様に仕えていた、ただの侍女で——」


「知っている。だから、どうした」


 声が、泣き声で滲んで、言葉にならなかった。


「俺が見ていたのは、カミラという名前じゃない。花に水をやり、子供の怪我を手当てし、使者に毅然と立ち向かった——お前という人間だ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが壊れた。


 嘘の上に積み上げてきた全てが崩れて、代わりに——温かいものが溢れ出した。


「お前の名前を教えてくれ。本当の名前を」


 涙が止まらないまま、口を開いた。


 震える唇で。


 でも——初めて、自分の名前を言える嬉しさで。


「フローラ。——私の名前は、フローラです」


 ヴィクトル様の手が、私の頭を撫でた。


 あの夜と同じ、不器用な手つきで。


「フローラ。——いい名前だ」


 泣き笑いのまま、小さく頷いた。


 偽りの名前が、ようやく脱げた。


 夕日が二人を赤く照らしていた。


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