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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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8/12

カミラを返してもらおう

 その日は朝から空気が違った。


 屋敷中がざわついている。侍女たちがいつもより忙しそうに走り回り、ニコラスは何度も玄関と書斎を往復していた。


「何かあったの?」


 メルティに聞くと、顔を曇らせた。


「伯爵家から、正式な使者が来るそうです。前のドルフじゃなくて——もっと上の人」


 血の気が引いた。


「誰が来るの?」


「伯爵家の筆頭家臣、ゲルハルト。カミラお嬢様の……もと家庭教師だそうです」


 ——家庭教師。


 カミラお嬢様の家庭教師なら、カミラお嬢様の顔を知っている。仕草を知っている。癖を知っている。


 ドルフのような下級使者なら誤魔化せた。でも——


「フローラ、これ、まずいです」


 メルティの声が震えていた。


「私が出る。逃げるわけにはいかないわ」


「でも——」


「カミラ様として、堂々と迎えるの。それしかない」



 午後、ゲルハルトが到着した。


 白髪交じりの壮年の男で、鋭い目をしていた。書斎の仕事に就いていた人間特有の、一切の隙がない佇まい。


 応接間で向き合う。メルティが私の後ろに控えている。


 ヴィクトル様は領地の巡回に出ていた。——いや、ニコラスが意図的に巡回を入れたのかもしれない。使者と辺境伯が直接会うのを避けるために。


「カミラ様。お久しぶりでございます」


 ゲルハルトが一礼した。その目が、私を頭の先から足の先まで値踏みしている。


「ゲルハルト。遠路はるばる、ご苦労様」


 カミラお嬢様の声を模倣する。少し高めの、甘えたような、でも品のある声。何千回も聞いてきた声。


「伯爵閣下より、カミラ様のご様子を直接確認するよう仰せつかりました」


「ご覧の通り、元気にしておりますわ。辺境の暮らしも悪くありませんのよ」


「左様でございますか」


 ゲルハルトの目が、私の手元に移った。


「カミラ様。覚えていらっしゃいますか。私がカミラ様に最後にお会いしたのは、婚礼衣装の仮縫いの日でございます」


「……ええ」


「あの日、カミラ様は右手で紅茶を召し上がりました。カミラ様は——右利きでございましたね」


 氷が背筋を這い上がった。


 私は左利きだ。


 茶碗は——今、左手で持っている。


 ゆっくりと茶碗を置いた。震えないように。悟られないように。


「旅の疲れで、少し手が……。どちらの手でも不自由はありませんのよ」


 微笑む。カミラお嬢様の、あの取り繕った笑顔を。


 ゲルハルトは表情を変えなかった。


「なるほど。では——刺繍の腕前は変わりませんか? カミラ様の刺繍は、伯爵閣下も自慢なさっておりましたが」


 カミラお嬢様の刺繍は下手だ。でも伯爵は自慢していた。見栄のために。


「辺境にはあまり刺繍糸が手に入りませんの。最近はご無沙汰ですわ」


「それは残念。一つ、お見せいただけませんか。道中の暇つぶしに、伯爵閣下へお土産話にと——」


 追い込まれている。


 ゲルハルトは疑っているのだ。一つ一つ、カミラお嬢様しか知らないことを確認して、ボロを出させようとしている。


「ゲルハルト殿」


 背後から声がした。


 ニコラスだった。


「旦那様がお戻りです。ご挨拶をなさいますか」


 ゲルハルトの目が一瞬揺れた。辺境伯と直接対面するのは、使者としても緊張するのだろう。


「——いえ。今日のところは、カミラ様のご様子を確認できましたので」


 立ち上がるゲルハルト。


 最後に、もう一度私を見た。


「カミラ様。お変わりなく——いえ。少しお変わりになったかもしれませんな」


 その言葉に込められた意味を、私は正確に理解していた。


 ——この女は、カミラではないかもしれない。


 ゲルハルトは、そう疑っている。



 使者が屋敷を発った後、私は部屋で崩れ落ちた。


「フローラ——」


「利き手を見られた。刺繍のことも聞かれた。あの人は——気づいてる」


「でも、確証はないはずです。ヴィクトル様が——」


「ヴィクトル様は何も知らない! 知らないまま、私を守ってくれている。それが——一番つらいの」


 頭を抱えた。


 ゲルハルトの報告がハインリヒに届けば、次は何が起きる。本物のカミラを探す手が強まるか。それとも——偽物だとわかった上で、もっと過酷な要求を突きつけてくるか。


「時間がない」


 メルティが手を握ってくれた。


「大丈夫。まだ確証はない。まだ——」


 ——まだ。


 その「まだ」がいつまで続くのか、誰にもわからなかった。



 夕食の席で、ヴィクトル様は使者のことを聞いた。


「伯爵家の使者が来たそうだな。何の用だ」


「カミラの……私の様子を確認しに」


「それだけか」


「……はい」


 嘘だ。また嘘だ。


 ヴィクトル様は、しばらく黙ってスープを口に運んでいた。


「ニコラスが言っていた。使者は色々と詮索していたそうだな」


「少し、世間話を——」


「お前の利き手のことを聞いたと」


 スプーンが止まった。


「……ニコラスは、よく見ていますね」


「あいつは俺の目だ。——で、お前は切り抜けたのか」


「何とか」


 ヴィクトル様が、静かにスプーンを置いた。


「伯爵家の連中が、お前に何をしようとしているのかは知らん。だが——」


 鋭い目が、まっすぐ私を見た。


「お前は俺の妻だ。俺の領地にいる。誰であろうと、お前を連れ去ることは許さん」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 ——俺の妻だ。


 偽りの妻なのに。


「ありがとうございます……ヴィクトル様」


 声が震えた。涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。


 食堂を出た後、メルティが小声で言った。


「フローラ。ゲルハルトの報告書が、今ごろ伯爵のもとに向かってます」


 わかっている。


 時間がない。


 代理の報告書がハインリヒの元へ向かう。時間がない——その切迫感が、夜の闇の中で膨らんでいった。

主家からの使者。「カミラを返せ」——

フローラの正体がバレる最大の危機が迫ります。

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