カミラを返してもらおう
その日は朝から空気が違った。
屋敷中がざわついている。侍女たちがいつもより忙しそうに走り回り、ニコラスは何度も玄関と書斎を往復していた。
「何かあったの?」
メルティに聞くと、顔を曇らせた。
「伯爵家から、正式な使者が来るそうです。前のドルフじゃなくて——もっと上の人」
血の気が引いた。
「誰が来るの?」
「伯爵家の筆頭家臣、ゲルハルト。カミラお嬢様の……もと家庭教師だそうです」
——家庭教師。
カミラお嬢様の家庭教師なら、カミラお嬢様の顔を知っている。仕草を知っている。癖を知っている。
ドルフのような下級使者なら誤魔化せた。でも——
「フローラ、これ、まずいです」
メルティの声が震えていた。
「私が出る。逃げるわけにはいかないわ」
「でも——」
「カミラ様として、堂々と迎えるの。それしかない」
午後、ゲルハルトが到着した。
白髪交じりの壮年の男で、鋭い目をしていた。書斎の仕事に就いていた人間特有の、一切の隙がない佇まい。
応接間で向き合う。メルティが私の後ろに控えている。
ヴィクトル様は領地の巡回に出ていた。——いや、ニコラスが意図的に巡回を入れたのかもしれない。使者と辺境伯が直接会うのを避けるために。
「カミラ様。お久しぶりでございます」
ゲルハルトが一礼した。その目が、私を頭の先から足の先まで値踏みしている。
「ゲルハルト。遠路はるばる、ご苦労様」
カミラお嬢様の声を模倣する。少し高めの、甘えたような、でも品のある声。何千回も聞いてきた声。
「伯爵閣下より、カミラ様のご様子を直接確認するよう仰せつかりました」
「ご覧の通り、元気にしておりますわ。辺境の暮らしも悪くありませんのよ」
「左様でございますか」
ゲルハルトの目が、私の手元に移った。
「カミラ様。覚えていらっしゃいますか。私がカミラ様に最後にお会いしたのは、婚礼衣装の仮縫いの日でございます」
「……ええ」
「あの日、カミラ様は右手で紅茶を召し上がりました。カミラ様は——右利きでございましたね」
氷が背筋を這い上がった。
私は左利きだ。
茶碗は——今、左手で持っている。
ゆっくりと茶碗を置いた。震えないように。悟られないように。
「旅の疲れで、少し手が……。どちらの手でも不自由はありませんのよ」
微笑む。カミラお嬢様の、あの取り繕った笑顔を。
ゲルハルトは表情を変えなかった。
「なるほど。では——刺繍の腕前は変わりませんか? カミラ様の刺繍は、伯爵閣下も自慢なさっておりましたが」
カミラお嬢様の刺繍は下手だ。でも伯爵は自慢していた。見栄のために。
「辺境にはあまり刺繍糸が手に入りませんの。最近はご無沙汰ですわ」
「それは残念。一つ、お見せいただけませんか。道中の暇つぶしに、伯爵閣下へお土産話にと——」
追い込まれている。
ゲルハルトは疑っているのだ。一つ一つ、カミラお嬢様しか知らないことを確認して、ボロを出させようとしている。
「ゲルハルト殿」
背後から声がした。
ニコラスだった。
「旦那様がお戻りです。ご挨拶をなさいますか」
ゲルハルトの目が一瞬揺れた。辺境伯と直接対面するのは、使者としても緊張するのだろう。
「——いえ。今日のところは、カミラ様のご様子を確認できましたので」
立ち上がるゲルハルト。
最後に、もう一度私を見た。
「カミラ様。お変わりなく——いえ。少しお変わりになったかもしれませんな」
その言葉に込められた意味を、私は正確に理解していた。
——この女は、カミラではないかもしれない。
ゲルハルトは、そう疑っている。
使者が屋敷を発った後、私は部屋で崩れ落ちた。
「フローラ——」
「利き手を見られた。刺繍のことも聞かれた。あの人は——気づいてる」
「でも、確証はないはずです。ヴィクトル様が——」
「ヴィクトル様は何も知らない! 知らないまま、私を守ってくれている。それが——一番つらいの」
頭を抱えた。
ゲルハルトの報告がハインリヒに届けば、次は何が起きる。本物のカミラを探す手が強まるか。それとも——偽物だとわかった上で、もっと過酷な要求を突きつけてくるか。
「時間がない」
メルティが手を握ってくれた。
「大丈夫。まだ確証はない。まだ——」
——まだ。
その「まだ」がいつまで続くのか、誰にもわからなかった。
夕食の席で、ヴィクトル様は使者のことを聞いた。
「伯爵家の使者が来たそうだな。何の用だ」
「カミラの……私の様子を確認しに」
「それだけか」
「……はい」
嘘だ。また嘘だ。
ヴィクトル様は、しばらく黙ってスープを口に運んでいた。
「ニコラスが言っていた。使者は色々と詮索していたそうだな」
「少し、世間話を——」
「お前の利き手のことを聞いたと」
スプーンが止まった。
「……ニコラスは、よく見ていますね」
「あいつは俺の目だ。——で、お前は切り抜けたのか」
「何とか」
ヴィクトル様が、静かにスプーンを置いた。
「伯爵家の連中が、お前に何をしようとしているのかは知らん。だが——」
鋭い目が、まっすぐ私を見た。
「お前は俺の妻だ。俺の領地にいる。誰であろうと、お前を連れ去ることは許さん」
その言葉が、胸に突き刺さった。
——俺の妻だ。
偽りの妻なのに。
「ありがとうございます……ヴィクトル様」
声が震えた。涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
食堂を出た後、メルティが小声で言った。
「フローラ。ゲルハルトの報告書が、今ごろ伯爵のもとに向かってます」
わかっている。
時間がない。
代理の報告書がハインリヒの元へ向かう。時間がない——その切迫感が、夜の闇の中で膨らんでいった。
主家からの使者。「カミラを返せ」——
フローラの正体がバレる最大の危機が迫ります。




