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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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7/12

旦那様にも、秘密がおありなのですね

 それは、満月の夜だった。


 眠れなかった。母のこと、伯爵の手紙のこと、使者のことが頭の中でぐるぐる回って、目が冴えてしまった。


 水を飲もうと部屋を出た。


 廊下は月明かりで青白く照らされている。屋敷は静まり返っていて、自分の足音だけが響く。


 台所に向かう途中、窓の外に人影が見えた。


 ——誰?


 こんな時間に、屋敷の裏口から出ていく人がいる。


 大きな背中。あの体格は——


「ヴィクトル様……?」


 こんな夜中に、どこへ?


 理性は「見て見ぬふりをしろ」と言っていた。他人の秘密に首を突っ込むべきではない。私自身が秘密を抱えているのだから。


 でも——足が動いていた。



 薄い上着を羽織って、裏口から外に出た。


 月明かりの下、ヴィクトル様の背中が屋敷の裏手の道を歩いていく。足音を殺しながら、距離を保ってついていった。


 十分ほど歩いただろうか。


 辺境の森の手前に、小さな集落があった。領地の端の方だ。日中の巡回コースにも入っていない場所。


 ヴィクトル様が、その集落の一軒に入っていく。


 窓から中を覗いた。



 部屋の中には、老夫婦がいた。


「旦那様、いつもすみません」


「気にするな。屋根の修理、材料は手配した。明日、大工が来る」


「こんな夜中にわざわざ……お体に障りますよ」


「昼間は人目がある。俺が来たとわかれば、『冷酷な鬼伯爵が住民に施しをしている』と噂が変わってしまう」


 ——えっ。


 息を呑んだ。


 ヴィクトル様は自分で老夫婦の家を訪ねて、修理の手配をしていたのだ。しかも、誰にも知られないように、夜中にこっそりと。


「旦那様。いつかは、皆にも本当のお姿を見せてくださいな」


「不要だ。俺が冷酷だと思われている方が、都合がいい。敵は油断する。民は——俺を恐れているくらいが、ちょうどいい」


「そんなことはありませんよ。皆、本当は——」


「いい。これでいいんだ」


 ヴィクトル様は、鬼伯爵の仮面を自ら被っていた。


 領民を守るために。敵に備えるために。自分が怖がられることを、承知の上で。



 集落を出たヴィクトル様は、次に森の入り口で足を止めた。


 懐から何かを取り出す。小さな袋——金貨の音がした。


 森の脇に、ぼろぼろの小屋がある。その戸口に袋を置いた。


「……ここの一家は去年の魔物被害で家畜を全て失った。立て直しの資金だ」


 独り言のように呟いている。


 いや——独り言ではなかった。


「いつまで隠れているつもりだ」


 心臓が止まりかけた。


「……え」


「お前の足音は静かだが、息遣いが聞こえる。最初からわかっていた」


 ヴィクトル様が振り返った。月明かりが、その顔を照らしている。


 怒っている——と思った。秘密を見られたのだから。


「す、すみません。つい——お姿を見かけて、心配で——」


「心配?」


「こんな夜中にお一人で出られるのは危ないかと思って——」


「俺は辺境伯だ。この森の魔物は俺を恐れている」


「そういう意味ではなく——」


 言い訳がしどろもどろになる。


 ヴィクトル様は、ため息をついた。


「——見たな」


「……はい」


「老夫婦のことも。この袋のことも」


「……はい」


 沈黙。


 夜風が木々を揺らす音だけが聞こえる。


 ヴィクトル様は、頭をがりがりと掻いた。


「……まあいい。お前にだけは見られても構わん」


「え?」


「他の者には言うな。鬼伯爵の看板に傷がつく」


 その言い方が、あまりにも不器用で。


 私は思わず笑ってしまった。


「笑うな」


「すみません——でも、旦那様にも、秘密がおありなのですね」


 ヴィクトル様が、ぴくりと肩を動かした。


「……秘密か」


「はい。あなた様は、冷酷でも鬼でもなかった。——民を守るために、怖い顔をしていただけ」


「大げさだ」


「大げさではありません。素敵なことです」


 月明かりの下で、ヴィクトル様の耳が赤くなった。暗いのに、わかった。


「……帰るぞ。夜風で体を壊す」


「はい」


 並んで歩いた。


 今まで少し先を歩くヴィクトル様の後ろをついていくだけだったのに、今夜は隣を歩いている。


 半歩ぶん、距離が縮まった気がした。



 屋敷に戻る途中、ヴィクトル様がぽつりと言った。


「俺も——お前に隠していたことがある」


「はい」


「お前にだけは、見せてもいいと思った。なぜかはわからん」


 心臓が、とくんと鳴った。


「……私も」


 ——あなたにだけは、本当の自分を見せたい。


 その言葉は、喉まで出かかって、飲み込んだ。


 まだ言えない。まだ——。



 部屋に戻って、扉を閉めた。


 壁に背をつけて、ゆっくり息を吐く。


 ヴィクトル様の秘密を知った。あの人もまた、仮面をつけて生きていた。


 ——私たちは、似ているのかもしれない。


 偽りの名前で生きる私と。


 偽りの冷酷さで民を守る、あの人と。


 ベッドに横になって、目を閉じた。


 月明かりが窓から差し込んでいる。


 胸の中で、小さな灯がともった気がした。


 それが何なのか、名前をつけるのが怖かった。


 ——この女は……カミラではないな。だが——


 もしヴィクトル様がそう思っていたとしても。


 今はまだ、知らないふりをさせてほしい。

ヴィクトルにも、人には言えない秘密があった。

二人きりの夜、少しだけ心の距離が近づきます。

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