伯爵令嬢は、こんなこと致しませんわ
辺境伯領に来て二週間。
母のことが心配で眠れない夜もあったけれど、日中はなんとか「カミラ」を演じ続けていた。
あの夜、ヴィクトル様に泣いているところを見られてから、ヴィクトル様は少しだけ変わった気がする。
直接何かを聞いてくることはない。ただ、朝食のときに温かい茶を自分で淹れてくれたり、夕食の後にテラスから月を見るよう勧めてくれたり。
不器用な気遣いが、嬉しくて、苦しい。
「カミラ様! 大変です!」
メルティが息を切らせて飛び込んできた。
「領民の子供が怪我をしたって! 薪割りの斧が足に当たったみたいで——出血がひどいそうです!」
「え——医師は!?」
「巡回先で、今日は留守です! 侍女たちもおろおろしていて——」
考えるより先に、体が動いていた。
「案内して」
「え? フローラ——じゃなくて、カミラ様、何を——」
「いいから!」
屋敷の裏手に駆けつけると、八歳くらいの男の子が地面に座り込んでいた。右足のすねから血が流れている。周りに侍女が三人、おろおろと立ちすくんでいた。
「見せて」
男の子の前にしゃがみ込む。
「お姉ちゃん、だれ……?」
「大丈夫。痛いよね。ちょっと見せてね」
傷口を確認する。深さはそれほどでもない。骨には達していない。ただ、出血が多い。
「メルティ、清潔な布と水を。あと、もし台所に蜂蜜があれば持ってきて」
「はいっ!」
メルティが走る。
侍女の一人が目を丸くしていた。
「カミラ様が——お手当てを?」
「母が……伝えてくれたのよ。こういうときの対処を」
嘘だ。伯爵令嬢の母が怪我の手当てを教えるはずがない。でも今は、子供の方が大事だった。
メルティが布と水と蜂蜜を持ってきた。
手際よく傷口を洗い、蜂蜜を薄く塗り、布できつく巻く。母に教わったやり方だ。侍女として、領民の怪我の手当ては何度もしてきた。
「はい。もう血は止まるわ。医師が戻ったら、ちゃんと診てもらってね」
男の子が泣きやんで、こくりと頷いた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
小さな手が、私の手袋に触れた。
心臓が跳ねる。——大丈夫、手袋は外していない。
「……いい子ね」
頭を撫でた。
周囲の侍女たちが、呆然とした顔でこちらを見ていた。
「カミラ様、すごいです! お怪我の手当てがお上手で——」
「ええ……まあ、少し心得があるだけよ」
立ち上がって、スカートの汚れを払う。
振り返ると——
ヴィクトル様が、少し離れた場所から見ていた。
いつから。どこまで見ていたのだろう。
目が合った。ヴィクトル様は何も言わなかったが、その目は——温かかった。
「おお、これはこれは。辺境というのは、やはり野蛮な土地でございますな」
その声は、午後に来た。
伯爵家からの使者だった。中年の痩せた男で、名をドルフと言った。表向きは「カミラの様子を確認するため」の訪問だが、目的は明らかだ。辺境伯領の利権を探りに来たのだ。
「この屋敷も、王都と比べればずいぶんと質素でございますな。カミラ様にはさぞお辛いでしょう」
ドルフは応接間で茶を飲みながら、辺境伯領を見下す発言を繰り返した。
「辺境の税収はどの程度で? 鉱山の権利は? 伯爵閣下がお知りになりたいのは——」
「ドルフ殿」
私は茶碗を静かに置いた。
カミラお嬢様なら、この手の使者には適当に合わせるだろう。父親の意向に逆らわない、従順な娘だったから。
でも——私は、もう黙っていられなかった。
「辺境伯領は質素ではございません。民のために必要な投資を優先した結果、このような暮らしになっているのです」
「はあ?」
ドルフの目が丸くなった。
「この領地の麦の収穫量は、北部三領で最も高いと聞いております。魔物被害の減少率も、辺境伯様の尽力で王国随一です。それを質素と呼ぶのは——」
ニコラスに教わった帳簿の数字が、するすると口から出てきた。この二週間、真面目に学んできたことが、今ここで役に立つとは思わなかった。
「——少々、ご認識が違うのではないでしょうか」
ドルフは口をぱくぱくさせた。伯爵令嬢がこんな具体的な数字を挙げて反論するとは、思っていなかったのだろう。
「し、しかし、伯爵閣下がお知りになりたいのは——」
「父にはこうお伝えください。辺境伯領は健全に運営されており、外からの干渉は不要です。カミラは元気に暮らしておりますと」
にっこりと微笑んだ。
カミラお嬢様の微笑みを、完璧に模倣して。
ドルフは顔を赤くして、何も言い返せなかった。
「やりすぎですよ、フローラ——じゃなくて、カミラ様」
使者が帰った後、メルティが廊下でこっそり言った。
「カミラ様があんなに堂々と反論するわけないじゃないですか。バレますよ?」
「……ごめん。でも、あの人の言い方が許せなかった。この領地を見下すなんて——」
「わかりますけど! でも——」
メルティが言葉を飲み込んだ。
廊下の向こうに、ヴィクトル様が立っていたからだ。
……聞かれた?
「ヴィクトル様」
「使者は帰ったか」
「はい。お見送りいたしました」
ヴィクトル様は、しばらく私を見つめた。
怒られるだろうか。伯爵家の使者に逆らったのだ。政治的に問題があったかもしれない。
「……ニコラスに聞いた。お前が帳簿の数字を使って使者を論破したと」
「あ——すみません、出過ぎたことを——」
「——礼を言う」
え。
「俺が言えば角が立つ。お前が言ってくれたことで、伯爵家への返答が穏便に済んだ」
ヴィクトル様の口元が、かすかに上がった。
「お前は——伯爵令嬢にしては、やはり変わっている」
その言葉に、もう何度目かわからない胸の痛みを感じた。
伯爵令嬢ではないから、変わっているのだ。
私はただの侍女だから。
使者は顔を赤くして帰った。でも、伯爵への報告にはきっと——「カミラは辺境伯に肩入れしている」と書くだろう。
次の手紙が来るのが、怖かった。
侍女の技で領民を救うフローラ。
「伯爵令嬢は、こんなこと致しませんわ」——バレる? バレない?




