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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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10/12

俺が選んだのは、お前だ

 名前を告げた夜は、ほとんど眠れなかった。


 でも、不思議と辛くはなかった。


 長い間、胸の上に乗っていた重石がようやく取れたような——そんな気持ちだった。



 翌朝。


 食堂に降りると、ヴィクトル様がいつもの席にいた。


 目が合う。


「……おはよう、フローラ」


 私の名前を呼んだ。


 この屋敷に来てから、ずっとカミラと呼ばれてきた。初めて——本当の名前で。


「おはようございます、ヴィクトル様」


 声が震えた。嬉しくて。


「……なぜ泣く」


「泣いてません。ちょっと——目にゴミが」


「朝から嘘をつくな」


「もう嘘はつきません」


 二人の間に、小さな笑いが零れた。


 初めての、本当の朝だった。



 朝食の後、ヴィクトル様は私を庭に誘った。


 母の花が咲いていた。私が毎日水をやっていた、あの花。白い小さな花びらが、朝露を載せて光っている。


「咲いたな」


「はい。やっと」


「お前が世話をしてくれたおかげだ」


「私は水をやっただけです」


「それが、俺にはできなかった」


 ヴィクトル様が花の前にしゃがみ込む。大きな指で、花びらに触れた。


「この花は母が好きだった。母が死んでから、何度も枯らしかけた。俺は——大切なものを守るのが下手だ」


「そんなことはありません。領地を守り、民を守り——」


「人を愛すのが下手だと言っている」


 静かな告白だった。


 ヴィクトル様が立ち上がって、私を見た。


「カミラが来ると聞いたとき、正直、興味がなかった」


「……はい」


「政略結婚だ。伯爵の娘がどんな女かなど、どうでもよかった。形だけの妻を迎えて、形だけの婚姻を維持すればいい。そう思っていた」


 ヴィクトル様の目が、朝日を受けて琥珀色に光っている。


「だが——お前が来た」


 心臓が跳ねた。


「花に水をやる女が来た。子供の怪我を手当てする女が来た。俺の秘密を知っても笑ってくれる女が来た」


「ヴィクトル様——」


「カミラという名前の裏に、フローラがいた。俺が見ていたのは、最初からフローラだった」


 涙が、また溢れそうになる。


 ヴィクトル様が一歩近づいた。


「正直に言う。お前がカミラでないと気づいたとき——ほっとした」


「え?」


「カミラという伯爵令嬢なら、俺は形だけの夫で終わっただろう。だが、お前は違った。お前は——この領地を好きになってくれた。この花を生き返らせてくれた。俺の——」


 言葉が途切れた。


 ヴィクトル様は、顔を背けた。耳が真っ赤だ。


「……俺の傍にいてくれた」


 その言葉を聞いたとき、胸の中で何かが弾けた。


「ヴィクトル様」


「何だ」


「私も——正直に言わせてください」


 花の前で、向き合った。朝の光が二人の間に差し込んでいる。


「最初は怖かった。鬼伯爵の噂を聞いて、三ヶ月だけ耐えればいいと思っていた。でも——」


「でも?」


「あなたが差し出してくれた手が温かくて。花を飾ってくれて。毛布を重ねてくれて。泣いていたら頭を撫でてくれて——」


 涙が頬を伝った。


「気づいたら、三ヶ月で終わってほしくないと思っていました」


 ヴィクトル様が、黙って私を見ている。


「偽りの名前で愛されるのが、苦しかった。あなたの優しさを受け取るたびに、胸が痛かった。でも——」


「でも?」


「あなたの隣にいたいと思ったのは、嘘ではありません。これだけは——フローラとしての、本当の気持ちです」


 沈黙。


 風が吹いた。花びらが一枚、空に舞い上がった。


 ヴィクトル様が、手を差し出した。


 馬車から降りた日と同じように。あの日と同じ、大きくて温かい手。


「俺が選んだのは、お前だ。カミラではなく——フローラ。お前を、俺の妻にしたい」


 ——ああ。


 この言葉を、待っていた。


 偽りの花嫁ではなく。本当の名前で。本当の自分として。


 その手を取った。


 初めて、手袋越しではなく——手袋をしたままの手で、でも心は裸のままで。


「はい。——はい、ヴィクトル様」


 ヴィクトル様が、小さく笑った。


 初めて見る、本当の笑顔だった。


 鬼伯爵の仮面の下にあった、不器用で温かい笑顔。


「ヴィクトルでいい。呼び捨てにしろ」


「無理です」


「なぜだ」


「恥ずかしいからです」


「……俺の方が恥ずかしい」


 二人で、笑った。


 花の前で。朝日の中で。本当の名前で。


「フローラ。——ああ、その名前の方が、よほどお前に似合う」


 泣きながら笑いながら、頷いた。


 偽りから始まった婚姻が、今、本当のものになろうとしていた。


 まだ問題は山積みだ。伯爵家のこと。母のこと。カミラお嬢様のこと。


 でも今は——この手の温もりだけで、十分だった。


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