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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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5/12

なぜ、お前は泣くのだ

 二度目の手紙が届いたのは、辺境伯領に来て十日目のことだった。


 朝食の後、ニコラスが封書を運んできた。


 見覚えのある封蝋。伯爵家の紋章。


「ありがとう」


 平静を装って受け取り、部屋に戻った。


 メルティが扉を閉める。


 手紙を開く。



『報告が遅い。辺境伯との関係はどこまで進んだ。利権交渉の見込みを書け。


 お前の母は、このところ体調がすぐれない。医師を呼ぶかどうかは、次の報告次第だ。


 また——カミラはまだ見つかっていない。お前の代役はまだ必要だ。期限の延長を検討している。


 わかっているな、フローラ。お前の立場を』



 手紙を持つ手が、震えていた。


「母さんが……」


「フローラ——」


 メルティが私の肩を掴んだ。


「体調がすぐれないって、どの程度なんでしょう? もともとお体が弱い方だけど——」


「わからない。わからないけど——医師を呼ぶかどうかが、私の報告次第って……」


 脅しだ。


 伯爵は母の治療を盾に、私に辺境伯の情報を送れと言っている。


 そしてカミラお嬢様が見つからない。期限が延びるかもしれない。三ヶ月で終わると思っていたのに。


「……どうすればいいの」


 声が掠れた。


 辺境伯の情報を送る? ヴィクトル様の信頼を裏切る? この温かい場所を、伯爵家の利権のために利用する?


 できない。


 でも——母のためには。


「フローラ。今は何も送らなくていいですよ。時間を稼ぎましょう。無難なことだけ書けば——」


「メルティ。母さんが倒れたら、どうするの」


 メルティが口を閉じた。


 答えなんて、ないのだ。



 その日、私はうまく笑えなかった。


 ニコラスの仕事の説明も上の空で、帳簿の数字が頭に入ってこない。


 侍女たちが話しかけてくれるのに、うまく返事ができない。


「カミラ様、お加減が悪いのですか?」


「いえ——少し疲れただけ」


 嘘。嘘ばかりだ。


 夕食の席でも、ヴィクトル様の前でまともに顔を上げられなかった。


「……食欲がないのか」


「いえ、大丈夫です」


「嘘だな。朝から元気がない」


 ヴィクトル様は見ている。この人は、無口なくせに、よく見ている。


「今日は早く休め。明日、体調が戻らなければ医師を呼ぶ」


「大丈夫です、本当に——」


「俺が心配しているんだ。休め」


 その一言で、涙腺が崩壊しかけた。


 なんとかこらえて、食堂を出た。



 夜。


 部屋に戻って、メルティを先に休ませた。


 一人になりたかった。


 窓を開けて、夜風に当たる。辺境の夜空は、相変わらず星が多い。こんなに綺麗な空の下で、私は何をしているのだろう。


 母の顔が浮かぶ。穏やかに笑う母。「フローラ、あなたは優しい子ね」と、いつも言ってくれた母。


 あの母が今、体調を崩している。


 私のせいだ。私が伯爵の言いなりになったからこそ、母はまだ伯爵家にいる。でも私が逆らえば、母はどうなるかわからない。


 涙が、頬を伝った。


 止められなかった。


 声を殺して泣いた。肩を震わせて、唇を噛んで、音が漏れないように。


 ——こんなところで泣くな。泣いたって何も変わらない。


 そう思うのに、涙は止まらない。



「——なぜ、お前は泣くのだ」


 低い声が、闇の中から聞こえた。


 弾かれたように振り返る。


 廊下側の窓辺に、ヴィクトル様が立っていた。


 ——なぜ、ここに。


「ヴィクトル、様——」


「夜回りの途中だ。部屋の明かりが消えていないのが気になった」


 嘘だ。夜回りの経路に、この部屋の前は含まれていないはずだ。


 でも、そんなことを指摘する余裕はなかった。


 涙で滲む視界の中に、ヴィクトル様の顔がある。


「何があった」


「……何も」


「嘘をつくな。朝から様子がおかしかった。手紙が来てからだ」


 見ていたのだ。全部。


 胸が苦しい。この人に嘘をつくのが、何より苦しい。


「言えないのです。私には——言えないことが、たくさんあって——」


 声が震えて、言葉にならない。


 ヴィクトル様は、しばらく黙っていた。


 そして——


「言えぬのなら、言わなくていい」


 一歩、近づいてきた。


「だが——泣くな」


 大きな手が、私の頭にそっと置かれた。


 ぽん、と。不器用に。力加減を探るように。


 ——温かい。


 その手の温もりに触れた瞬間、堰が切れた。


 声を上げて泣いた。もう、隠せなかった。


 ヴィクトル様は何も聞かず、何も言わず、ただ私が泣き止むまで、その大きな手を頭の上に置いていてくれた。



 どのくらい泣いただろう。


 涙が枯れた頃、ヴィクトル様は静かに手を離した。


「……すみません、見苦しいところを——」


「見苦しくなどない」


 ヴィクトル様は窓辺に背を向けた。


「お前が泣く理由がわからんのは、俺の力不足だ。——だが、これだけは覚えておけ」


 振り返らずに言った。


「お前は、俺の領地にいる。俺の妻だ。お前を泣かせる何かがあるなら——それは、俺の敵だ」


 そう言い残して、去っていった。


 残されたのは、涙の跡と、頭に残る手の温もりだけ。


「——俺の敵だ」


 その言葉が、胸の奥で響き続けていた。


 私を泣かせているのは——あなたを騙している、私自身なのに。

涙を見られてしまった。

ヴィクトルの「なぜ泣く」に、フローラが答えられない理由は——。

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