カミラ様は、そのようなことは致しません
辺境伯領での生活は、一週間を超えた。
少しずつわかってきたことがある。この領地は、ヴィクトル様が一から作り直した場所なのだ。
先代の辺境伯は放漫で、領地は荒れ果てていたらしい。それをヴィクトル様が継いで、農地を整え、魔物の被害を減らし、今の豊かな土地に変えた。
——鬼伯爵の正体は、領民のために誰よりも働く領主だった。
「カミラ様! 今日のお昼は何になさいますか?」
台所の侍女が聞いてくる。
「そうね……何でもいいわ」
「あら、カミラ様って好き嫌いないんですか? 伯爵家のお嬢様だから、色々お好みがあるかと——」
「え。ええ、辺境のお料理はどれも美味しいから……」
カミラお嬢様は好き嫌いが多い。野菜は半分くらい嫌いだし、魚は骨があると食べない。
でも私は侍女だ。出されたものは何でも食べる。
——こういうところで、ボロが出る。
午後。
台所の前を通りかかると、侍女たちがパンを焼いているのが見えた。
いい匂いだ。母に教わった、あの素朴なパンの匂い。
足が、勝手に台所に向かっていた。
「あの——手伝ってもいいかしら」
侍女たちが目を丸くした。
「カミラ様が……台所仕事を?」
「あ——」
しまった。伯爵令嬢が台所に立つはずがない。カミラお嬢様なら、厨房に足を踏み入れることすらしないだろう。
「カミラ様は、そのようなことは致しません!」
メルティが飛んできた。私の腕を掴んで、やんわりと台所から引き離す。
「お嬢様、お部屋で刺繍をなさいましょう? ね?」
笑顔の裏で、メルティの目が「危ないですよ!」と叫んでいる。
「……そうね。ごめんなさい、ちょっと珍しかったものだから」
作り笑いで取り繕って、台所を後にした。
廊下を歩きながら、メルティが小声で言う。
「フローラ、危ないですって。カミラ様は絶対に台所なんか行かない人なんですから」
「わかってる。わかってるのに……」
体が勝手に動いてしまうのだ。
侍女としての習慣は、十年以上かけて身についたものだ。料理を見れば手伝いたくなる。汚れた食器を見れば片付けたくなる。花がしおれていれば水をあげたくなる。
カミラお嬢様を演じるということは、自分自身を殺すということだった。
夕刻。庭に出た。
——ここにいると、少しだけ素の自分に戻れる。
ヴィクトル様の母が植えたという花に、今日も水をやる。あの日から毎日、こっそり水をやっている。
花は少しずつ元気になっていた。つぼみが膨らみ始めている。
「……咲いてくれるといいな」
しゃがみ込んで、花びらに触れた。そのとき——
「お前は、不思議な女だな」
背後から声がして、肩が跳ねた。
ヴィクトル様が立っていた。壁に肩を預けて、腕を組んでいる。いつからそこにいたのだろう。
「ヴィクトル様——」
「伯爵令嬢が庭仕事をするのか」
「あ——これは、ただ花が綺麗だったので——」
「今日は台所にも行ったそうだな」
知っていたのだ。
血の気が引く。侍女たちが話したのだろうか。
「あれは——好奇心で、少し覗いただけで——」
「別に咎めていない」
ヴィクトル様が壁から離れて、近づいてくる。
「お前は花に水をやり、台所を覗き、領民の子供に手を振る。伯爵令嬢にしては——」
言葉が途切れた。
私は息を止めて、次の言葉を待った。
「——変わっているな」
怒りではなかった。不審でもなかった。
ヴィクトル様の目は、どこか温かかった。面白いものを見つけた子供のような、そんな目。
「変わっている——ですか」
「ああ。悪い意味じゃない」
ヴィクトル様は、花のそばにしゃがみ込んだ。大きな体が、小さな花の前で縮こまる。少し滑稽で、少し愛おしい光景だった。
「この花、お前が世話してくれていたのか」
「はい……差し出がましいかとは思ったのですが」
「母が好きだった花だ。俺は——世話が下手でな。いつも枯らしかけていた」
初めて聞く、ヴィクトル様の弱さだった。
この人にも、苦手なことがある。大切にしたいのに、うまくできないことがある。
——私と同じだ。
大切にしたいのに、嘘をついてしまう。守りたいのに、騙し続けている。
ヴィクトル様が立ち上がり、私を見下ろした。
夕日が逆光になって、表情がよく見えない。
「……不思議な女だな、お前は」
二度目の、その言葉。
今度は声が少しだけ柔らかかった。
「カミラという名前より——」
何かを言いかけて、首を振った。
「いや。何でもない」
去っていく背中を見送る。
夕日が、ヴィクトル様の影を長く伸ばしていた。
——カミラという名前より、何だったのだろう。
聞きたかった。聞くのが、怖かった。
花に目を戻す。つぼみが、夕日の中で金色に光っていた。
「……ごめんなさい」
花に向かって、小さく謝った。
謝りたかったのは、花にではなく——嘘をつき続けている、全ての人に。
「カミラ」として振る舞うほど、本当の自分が遠くなる。
ヴィクトルの優しさが、フローラを追い詰めます。




