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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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4/12

カミラ様は、そのようなことは致しません

 辺境伯領での生活は、一週間を超えた。


 少しずつわかってきたことがある。この領地は、ヴィクトル様が一から作り直した場所なのだ。


 先代の辺境伯は放漫で、領地は荒れ果てていたらしい。それをヴィクトル様が継いで、農地を整え、魔物の被害を減らし、今の豊かな土地に変えた。


 ——鬼伯爵の正体は、領民のために誰よりも働く領主だった。



「カミラ様! 今日のお昼は何になさいますか?」


 台所の侍女が聞いてくる。


「そうね……何でもいいわ」


「あら、カミラ様って好き嫌いないんですか? 伯爵家のお嬢様だから、色々お好みがあるかと——」


「え。ええ、辺境のお料理はどれも美味しいから……」


 カミラお嬢様は好き嫌いが多い。野菜は半分くらい嫌いだし、魚は骨があると食べない。


 でも私は侍女だ。出されたものは何でも食べる。


 ——こういうところで、ボロが出る。



 午後。


 台所の前を通りかかると、侍女たちがパンを焼いているのが見えた。


 いい匂いだ。母に教わった、あの素朴なパンの匂い。


 足が、勝手に台所に向かっていた。


「あの——手伝ってもいいかしら」


 侍女たちが目を丸くした。


「カミラ様が……台所仕事を?」


「あ——」


 しまった。伯爵令嬢が台所に立つはずがない。カミラお嬢様なら、厨房に足を踏み入れることすらしないだろう。


「カミラ様は、そのようなことは致しません!」


 メルティが飛んできた。私の腕を掴んで、やんわりと台所から引き離す。


「お嬢様、お部屋で刺繍をなさいましょう? ね?」


 笑顔の裏で、メルティの目が「危ないですよ!」と叫んでいる。


「……そうね。ごめんなさい、ちょっと珍しかったものだから」


 作り笑いで取り繕って、台所を後にした。


 廊下を歩きながら、メルティが小声で言う。


「フローラ、危ないですって。カミラ様は絶対に台所なんか行かない人なんですから」


「わかってる。わかってるのに……」


 体が勝手に動いてしまうのだ。


 侍女としての習慣は、十年以上かけて身についたものだ。料理を見れば手伝いたくなる。汚れた食器を見れば片付けたくなる。花がしおれていれば水をあげたくなる。


 カミラお嬢様を演じるということは、自分自身を殺すということだった。



 夕刻。庭に出た。


 ——ここにいると、少しだけ素の自分に戻れる。


 ヴィクトル様の母が植えたという花に、今日も水をやる。あの日から毎日、こっそり水をやっている。


 花は少しずつ元気になっていた。つぼみが膨らみ始めている。


「……咲いてくれるといいな」


 しゃがみ込んで、花びらに触れた。そのとき——


「お前は、不思議な女だな」


 背後から声がして、肩が跳ねた。


 ヴィクトル様が立っていた。壁に肩を預けて、腕を組んでいる。いつからそこにいたのだろう。


「ヴィクトル様——」


「伯爵令嬢が庭仕事をするのか」


「あ——これは、ただ花が綺麗だったので——」


「今日は台所にも行ったそうだな」


 知っていたのだ。


 血の気が引く。侍女たちが話したのだろうか。


「あれは——好奇心で、少し覗いただけで——」


「別に咎めていない」


 ヴィクトル様が壁から離れて、近づいてくる。


「お前は花に水をやり、台所を覗き、領民の子供に手を振る。伯爵令嬢にしては——」


 言葉が途切れた。


 私は息を止めて、次の言葉を待った。


「——変わっているな」


 怒りではなかった。不審でもなかった。


 ヴィクトル様の目は、どこか温かかった。面白いものを見つけた子供のような、そんな目。


「変わっている——ですか」


「ああ。悪い意味じゃない」


 ヴィクトル様は、花のそばにしゃがみ込んだ。大きな体が、小さな花の前で縮こまる。少し滑稽で、少し愛おしい光景だった。


「この花、お前が世話してくれていたのか」


「はい……差し出がましいかとは思ったのですが」


「母が好きだった花だ。俺は——世話が下手でな。いつも枯らしかけていた」


 初めて聞く、ヴィクトル様の弱さだった。


 この人にも、苦手なことがある。大切にしたいのに、うまくできないことがある。


 ——私と同じだ。


 大切にしたいのに、嘘をついてしまう。守りたいのに、騙し続けている。



 ヴィクトル様が立ち上がり、私を見下ろした。


 夕日が逆光になって、表情がよく見えない。


「……不思議な女だな、お前は」


 二度目の、その言葉。


 今度は声が少しだけ柔らかかった。


「カミラという名前より——」


 何かを言いかけて、首を振った。


「いや。何でもない」


 去っていく背中を見送る。


 夕日が、ヴィクトル様の影を長く伸ばしていた。


 ——カミラという名前より、何だったのだろう。


 聞きたかった。聞くのが、怖かった。


 花に目を戻す。つぼみが、夕日の中で金色に光っていた。


「……ごめんなさい」


 花に向かって、小さく謝った。


 謝りたかったのは、花にではなく——嘘をつき続けている、全ての人に。

「カミラ」として振る舞うほど、本当の自分が遠くなる。

ヴィクトルの優しさが、フローラを追い詰めます。

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