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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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2/12

あなた様は、噂ほど怖くはありませんね

 辺境伯領での暮らしは、私が想像していたものとは全く違っていた。


 「冷酷な鬼伯爵の領地」。王都ではそう噂されていたから、荒れ果てた土地と怯える民を想像していた。


 でも。


「おはようございます、カミラ様! 今日はお天気がいいですよ!」


 屋敷の廊下で出会う侍女たちは、皆明るく挨拶をしてくれる。


「カミラ様、朝食は食堂ですか? テラスにもご用意できますが」


「あ……テラスで、お願いします」


 カミラお嬢様なら迷わず食堂を選ぶだろう。テラスなんて、日焼けすると嫌がるはずだ。


 ——しまった。


 でも侍女は特に気にした様子もなく、にこにこと準備を始めてくれた。


 胸の奥がざわつく。こんな小さなことでも、カミラお嬢様と違う選択をしてしまう。



 テラスから見える景色は、息を呑むほど美しかった。


 青い空の下に、金色の麦畑が広がっている。遠くの山の稜線が朝日を受けて輝いている。


 風が心地よい。王都の空気とは全然違う。


「フローラ、見てください。あの畑、すごく広い」


 メルティが目を丸くしている。


「……綺麗ね」


「ここ、本当に鬼伯爵の領地なんですか? 全然、鬼っぽくないんですけど」


「声が大きいわ、メルティ」


 慌てて周囲を見回す。幸い、誰もいない。


 でも——メルティの言う通りだった。



 午後、ヴィクトル様は不在だった。領地の巡回だと、執事のニコラスが教えてくれた。


「旦那様は毎日、領地を回られます。辺境ですので、魔物の被害や作物の状況を直接確認されるのです」


 ニコラスは穏やかな物腰の男性だった。銀縁の眼鏡の奥に、鋭い目がある。ヴィクトル様の右腕として、長年仕えてきたのだという。


「カミラ様。何かお困りのことがあれば、私にお申し付けください」


「ありがとう、ニコラス」


 お嬢様っぽく微笑んでみせたが、ニコラスは一瞬、眉をわずかに動かした。


「……失礼ですが、カミラ様は伯爵家ではどのようなお過ごし方を?」


「え?」


「いえ、領主夫人としてのお仕事をご案内するにあたり、お嬢様のご趣味やお好みを伺えればと」


 心臓が跳ねた。


 カミラお嬢様のご趣味。刺繍、読書、音楽——表向きはそうだ。でも本当は、読書は退屈だと投げ出すし、刺繍は途中で飽きるし、音楽も形だけだった。


「刺繍と……読書を少々」


「左様でございますか。では、図書室をご案内いたしましょう。旦那様が蔵書をかなり増やされましたので」


 にこりと微笑むニコラスに、どこか試されているような気がした。気のせいだ。気のせいだと思いたかった。



 図書室は想像以上に立派だった。壁一面の本棚に、農業書から歴史書、詩集まで並んでいる。


 ——これ、全部ヴィクトル様が集めたの?


 鬼伯爵と呼ばれる人が、詩集を読むのだろうか。


 一冊を手に取る。薬草の図鑑だった。よく読み込まれていて、ページの端に細かい書き込みがある。


「この薬草は辺境でしか採れない……領民の病に使える」


 几帳面な字。不器用だけど丁寧な文字。


 ヴィクトル様の書き込みだと、すぐにわかった。


 ——この人は、本当に民のことを考えているんだ。



 夕刻、ヴィクトル様が戻ってきた。


 食堂に向かうと、長い食卓の端と端に席が用意されていた。


「……そんなに離れて座るのですか?」


 つい、口をついて出てしまった。カミラお嬢様なら、距離など気にしないだろう。むしろ離れていた方が楽だと思うかもしれない。


 ヴィクトル様が、少し驚いた顔をした。


「……近い方がいいか」


「あ——いえ、その、お話するなら近い方がいいかと思っただけで——」


 しどろもどろになる私を見て、ヴィクトル様は無言で立ち上がり、自分の皿を持って隣の席に移った。


「これでいいか」


「……はい」


 近くで見ると、ヴィクトル様の顔には小さな傷がいくつもあった。前線で魔物と戦った跡だろう。


 でも、その目は——穏やかだった。


「あなた様は」


 言葉が口をついて出た。


「噂ほど、怖くはありませんね」


 沈黙が落ちた。


 しまった。カミラお嬢様は、こんな率直なことは言わない。もっと取り繕って、社交辞令を並べるはずだ。


 ヴィクトル様は——


「……そうか」


 そう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、とは言えないくらいのかすかな変化。でも、確かに。


「食え。冷める」


 ぶっきらぼうに言って、自分もスプーンを取った。


 温かいシチューの湯気が、二人の間に立ち上った。



 食後、部屋に戻ると、メルティが待ち構えていた。


「フローラ、大変です! ニコラスさんが、明日カミラ様——つまりフローラに、領主夫人の仕事を教えるって!」


「え?」


「帳簿の確認とか、来客対応とか……カミラ様が知ってるはずのこと、聞かれたらどうするんですか?」


 血の気が引いた。


 帳簿は見たことがある。お嬢様のお付きとして横にいたから、伯爵家の帳簿の付け方は知っている。でも、辺境伯家のやり方は違うかもしれない。


 来客対応。社交界の作法。カミラお嬢様として振る舞えるだろうか。


「……大丈夫。私はカミラお嬢様のそばでずっと見てきたもの。知らないことがあっても、辺境のやり方を教えてほしいって言えば——」


「でも」


 メルティが私の手を取った。


「ニコラスさん、なんか鋭そうですよ? フローラの手袋、じっと見てた気がします」


 左手首が、痛んだ気がした。


 手袋の下の奉公の印。伯爵家使用人の証。


 見られたら——全てが終わる。


「……気をつけるわ」


 窓の外は、もう暗い。辺境の夜空には、王都では見えないほどたくさんの星が瞬いていた。


 穏やかな領地。温かい人々。怖くない辺境伯。


 ——だからこそ、怖い。


 この場所が心地よくなればなるほど、嘘をついている自分が、どうしようもなく苦しくなる。


 ニコラスの目が、一瞬だけフローラの手袋に止まった——あの視線を、私はまだ振り払えずにいた。

辺境伯領の暮らしは、フローラの想像を裏切り続けます。

温かい人々、穏やかな日々——でも、この手袋だけは外せない。

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