お嬢様の代わりに、参ります
私の名前は、フローラ。
伯爵家に仕える侍女の娘として生まれ、物心ついた頃からカミラお嬢様のお世話をしてきた。
お嬢様の髪を梳かし、ドレスの裾を整え、お茶の淹れ方を覚え、来客への応対を横で見て学んだ。
伯爵令嬢としての振る舞いは、もしかしたらお嬢様ご自身より、私の方が詳しいかもしれない。
——そんなことを考えてしまう自分が、少し嫌だった。
婚礼前夜。
お嬢様の部屋は、もぬけの殻だった。
「カミラ様が——いらっしゃいません!」
メルティが蒼白な顔で駆け込んできたとき、私の心臓は一拍、止まった気がした。
窓が開いている。夜風がカーテンを揺らしている。ベッドの上には、脱ぎ捨てられたドレス。
——逃げたのだ。
明日の婚礼を。辺境伯ヴィクトルとの縁談を。お嬢様は、全部放り出して逃げた。
「フローラ。来い」
伯爵様——カミラお嬢様の父君、ハインリヒ様の声は、いつもより低かった。
書斎に通された。重い扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「お前が行け」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「カミラの代わりに、お前が辺境伯に嫁げ」
「……は」
「髪の色は似ている。体格も近い。お前はカミラの所作を全て知っている。辺境伯はカミラの顔を知らん。やれるだろう」
伯爵様の目には、交渉の余地がなかった。
私は侍女だ。伯爵令嬢ではない。身分が違う。そんなこと、すぐにバレる。
「できません。私は——」
「お前の母親のことは、わかっているな」
息が詰まった。
母は伯爵家の侍女長だ。体を壊してからは、伯爵家の離れで静かに暮らしている。伯爵家の庇護がなければ、母はどこにも行けない。
「三ヶ月だ。三ヶ月、カミラとして辺境伯の元で過ごせ。その間にカミラを連れ戻す。辺境伯の信頼を得て、利権の話を進めろ。うまくやれば、お前の母の面倒は一生見てやる」
「もし——断れば?」
「お前の母は、明日にはこの屋敷にはいない」
選択肢など、なかった。
翌朝。
私は、カミラお嬢様のドレスを身に纏っていた。
鏡に映る自分は、確かにカミラお嬢様に似ている。でも、違う。肌は少しだけ日に焼けている。手は——
左手首を見た。
奉公の印。伯爵家使用人の証として焼かれた、消えない印。
長手袋をそっと引き上げた。指先まで覆う白い絹の手袋で、印を隠す。
「大丈夫ですか、フローラ」
メルティが心配そうに私を見ている。幼馴染で、唯一の味方。彼女だけが、この秘密を知っている。
「……大丈夫。行くわ」
声が震えていないことを、祈った。
馬車で三日。
辺境伯領は、思ったよりも穏やかな土地だった。
街道沿いには麦畑が広がり、遠くに山が見える。王都の喧騒とは全く違う、静かで優しい景色。
——でも、辺境伯ヴィクトルは違う。
「冷酷な鬼伯爵」。社交界ではそう囁かれていた。前線で魔物を狩り、容赦なく敵を討つ男。笑わない。人を寄せ付けない。そんな噂ばかりだった。
馬車が止まる。
心臓が喉まで上がってくる。
扉が開いた。
辺境伯の屋敷の前に、一人の男が立っていた。
——大きい。
それが最初の印象だった。背が高く、肩幅が広い。黒髪を後ろに流し、鋭い目をしている。
ヴィクトル・フォン・レーヴェンハルト辺境伯。
噂通り、怖い顔をしている——と、思った。
「……長旅で疲れただろう。今日はゆっくり休め」
差し出された手は、大きかった。
武骨で、剣だこがある。けれど、その手が私を馬車から降ろすときの力加減は、驚くほど丁寧だった。
「あ——ありがとう、ございます」
声が裏返った。カミラお嬢様なら、もっと堂々と受け答えをしただろう。
ヴィクトル様は、少しだけ眉を上げた。でも何も言わず、屋敷の方へ歩き出した。
「部屋を用意してある。湯も沸いている。何か必要なものがあれば、使用人に言え」
背中を向けたまま、ぶっきらぼうに言う。
でも——屋敷の入り口には、花が飾られていた。小さな野花を、不揃いに束ねたもの。お世辞にも上手とは言えない飾り方だったけれど。
「旦那様。あの花は——?」
メルティが小声で聞いた。
先を歩いていたヴィクトル様の耳が、わずかに赤くなったように見えた。
「……あれは使用人が勝手にやった」
嘘だ、と思った。
あの不器用な束ね方は、人に頼んだものじゃない。
用意された部屋は、広くて清潔だった。
窓からは夕日に染まる麦畑が見えて、どこか懐かしい匂いがした。
ベッドの上には毛布が重ねてある。三月とはいえ、辺境の夜は冷える——その配慮だろう。
「フローラ……」
メルティが隣に座って、私の手を握った。
「怖い?」
「……怖いわ」
正直に答えた。
怖い。バレたら、どうなるのかわからない。辺境伯を騙しているのだ。伯爵令嬢を騙っているのだ。
左手首の奉公の印が、手袋の下で疼く気がした。
でも——
「ここなら、生きられるかもしれない」
そう思ってしまった自分がいた。
あの花。あの毛布。あの、不器用な優しさ。
冷酷な鬼伯爵なんかじゃない。この人は——
「……三ヶ月だけ」
自分に言い聞かせるように、呟いた。三ヶ月。それだけ耐えれば、母は助かる。カミラお嬢様が見つかれば、全て終わる。
窓の外では、夕日が沈んでいく。
辺境の風が、カーテンを揺らした。
翌朝、食堂に降りると、ヴィクトル様はもう席についていた。
「——おはよう」
短い挨拶。でも、私の椅子が引かれている。温かいスープが用意されている。
ヴィクトル様の手が、パンの籠をこちらに寄せた。
その手が——差し出された。
温かかった。
お読みいただきありがとうございます!
侍女フローラ、偽りの花嫁として辺境伯の元へ嫁ぎました。
噂の「鬼伯爵」は——予想と全然違いました。
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第1章12話を一挙公開中です。




