8 聖杯の名の由来
施設で語られる「聖杯」という名は、最初から存在していたわけではない。
それはごく最近、突如として世界に現れた「ツノ付き」という異端に対する、人類側の恐怖と貪欲から生まれた呼称だった。
世界各地で、突発的に「ツノ付き」と呼ばれる異能を持つ子供たちが生まれ始めたのは、ほんの少し前のことだ。
その能力はあまりに多様で、破壊的で、そして未知だった。
少年の父が追い求めたのも、この新しい異端の力だった。
ある時、死の淵にあった子供が、能力の発現と同時に傷を癒やして蘇ったという噂を耳にした父は、狂信的なまでにその現象に執着した。
「息子がツノ付きになれば、この新しい力で、妻を蘇らせられるかもしれない」
その確信だけが、父の人生のすべてだった。
しかし、父は知っていた。
その夢を果たすには、途方もない資金と設備が必要だということを。
父は自ら政府の門を叩き、研究の可能性を説いた。
ツノ付きを新たに作り出すための「器」が作れるという理論を提示し、巨大な利権を創り出したのだ。
父にとって、研究の犠牲になる他の孤児たちは、夢を叶えるための「経費」に過ぎなかった。
資金さえあれば、いつか必ず妻は戻る。そう自分に言い聞かせ、父は迷いなく子供たちを器へと加工していった。
政府はそんな父の執念を、狡猾に利用した。
彼らにとって、制御可能な「ツノ付き」を量産できる可能性は、何よりも魅力的な兵器開発の切り札だったからだ。
政府と父が定義した「聖杯」とは、単なる異能の統合体ではない。
それは「まだ何の能力も宿していない、究極の空白」を指す言葉だった。
ツノ付きの能力は、本人の意志や精神状態に強く依存する。
だからこそ、大人たちは少女の「心」を徹底的にすり潰し、どんな能力でも書き込み可能な「真っ白な器」に仕立て上げようとしていた。
父は夜、少女の前に座り、静かな声で問い続けた。
「何が欲しい」
「何が怖い」
「何を願う」
——答えが返るたび、それは記録された。
そして翌日、その「答え」は丁寧に、しかし確実に少女の中から削り取られていった。
空にすれば、何でも書き込める。
それが彼らの信じる「聖杯」の作り方だった。
それが、彼らが夢見た「聖杯」の正体。
少女は、長く過酷な実験に晒され続けた。
かつては痛みに泣き、誰かの名を呼び、ささやかな日常を求めていた声も、回を重ねるごとに小さく細くなっていった。
やがて表情は薄れ、笑うという行為すら彼女の中から抜け落ちていった。
絵を描くことも、歌を口ずさむことも、もはや彼女には意味をなさないノイズでしかない。
研究者が事務的な問いかけをすれば、彼女は即座に正確な回答を返す。
命令を完璧に復唱し、記録装置のように淡々と数値を残す。
彼女は「人」から、いつ能力が宿ってもおかしくない「白紙の器」へと変えられていった。
その空白が大きければ大きいほど、大人の歪んだ願望を注ぎ込み、強制的にツノ付きへと変質させることができるからだ。
少年は、その姿を見るたびに胃の奥が冷たくなるのを感じていた。
研究者たちが彼女を「聖杯」と呼び、熱っぽい目でその「空白」を覗き込むたび、少年の中に積もる割り切れない質量が増していく。
父の狂気と、政府の打算。
その両方の引き金となってしまったのは、自分だ。
自分がツノ付きとして生まれかわったことで、この少女は人間としての彩りを奪われ、他人の願望を強制的に書き込まれるだけの「真っ白な器」にされた。
少年はもう、失ったものを取り戻せるとは信じていない。
かつての眩しい彼女が戻ることはないし、父の夢が叶うこともない。
それでも少年は、少女の手を離すことができなかった。
せめて、他人の色で塗りつぶされ、その身が擦り切れて消えるのだけは防がなければならない。
その歪な執着だけが、今日も少年を動かし、二人を闇の路地裏へと突き動かしている。




