9 微睡み
夜、崩れかけた瓦礫の片隅で、少年は視界が歪むほどの強い眩暈を感じた。
見えたのは、母が台所に立ち、父が笑う「あり得たはずの日常」だ。
そこには平和な世界があり、母は殺されず、父は研究に囚われていない。
ただ、一つだけ決定的な違いがあった。そこに少女の姿は、影も形も存在しないのだ。
なぜなら、その世界線において、少年は「ツノ付き」の力を使い切り、平穏を選び取っていたからだ。
少女と出会い、共に地獄を歩んだ記憶そのものが、その世界には存在しない。
少年は母を恋い慕うあまりに「過去を改変する力」を開花させていたはずだった。
その世界線での少年は、力を使い果たし、角を隠して平穏に暮らしている。
眩暈が去る。
少年は荒い呼吸のまま、その光景を「夢」だと断じた。
――違う。これは夢だ。
――俺が彼女を想えば思うほど、能力が過敏に反応し、脳内に書き出すノイズだ。
少年は必死にそう言い聞かせた。
自分の能力が強まるたびに、まるで世界が「別の選択肢」を突きつけてくるかのように、鮮明な類似世界を見せつけてくる。
だが、それは甘美な毒でしかない。
合理的に考えれば、今の自分たちに必要なのは過去の修正ではなく、明日の生存だ。
少年は、その光景を「無価値なもの」として冷徹に切り捨てた。
隣には、瓦礫の冷たさにも気づかず、小さく寝息を立てる少女がいる。
髪飾りが月明かりをわずかに拾い、拾った人形を抱いたまま、彼女の腕がほどけかけていた。
少年は静かに手を伸ばし、人形を抱え直す。
乱れた髪を整えながら、思考は冷たく、追手との距離や食糧の残量を計算していた。
だが、自分の手がなぜ彼女の髪に触れ、なぜこんなにも丁寧に扱っているのか。その理由を計算式で導き出すことはできなかった。
「……」
少年の顔には、一切の感情が浮かんでいない。
ただ、夜の闇に紛れて、一粒の涙が頬を伝い落ちる。
「もしもの世界」などどうでもいいはずなのに、自分の意思とは裏腹に、勝手にこぼれ落ちる熱い液体。
少年はそれが何なのか理解しようともせず、ただ、冷え切った路地裏で少女の寝顔を見つめ続けていた。
すみません
投稿するの忘れてました




