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角の系譜  作者: ふりゅね
11/16

10 一瞬先の生存

逃亡の日々は苛烈さを増していた。



政府は本気で「聖杯」を奪い返しに来ていた。

包囲網は狭まり、監視は強まり、兵の数は日ごとに増えていく。




そして民衆。


「ツノ付きが見つかれば賞金が出る」――その噂が広がると、彼らの視線は恐怖と欲望で濁った。


賞金に目がくらんだ者は、影を見るだけで通報し、わずかな違和感さえ刃となって突きつける。



政府の兵と、欲望に駆られた民衆。



世界全体が二人を追い詰めていた。











ある日、夜明け前の路地裏で、ついに捕捉された。



規則正しい靴音。

無線の声。

犬の唸り。




「標的はツノ付きと器の少女だ。生け捕りが最優先」




四方から迫る気配。


銃を構えた兵士、盾を掲げた部隊、屋根の上から狙撃する影。


背後には賞金を狙う民衆の群れ。




逃げ場は、どこにもなかった。


「……走るぞ」

少年は少女の手を握った。


銃声が響き、瓦礫が砕ける。


怒号と悲鳴と犬の吠え声が交錯する。


少女は表情ひとつ動かさず、ただ彼の手に縋っていた。




その姿が、少年の心に火を灯す。




――離さない。絶対に。






意識を限界まで広げる。

頭の奥に「地図」が広がった。


兵士の位置。

狙撃手の呼吸。

瓦礫の隙間。

下水の通路。


視界に映らぬ道まで浮かび上がる。


――ある。ひとつだけ。


「つかまえろ!」


兵士が一斉に動いた瞬間、少年は少女を抱きかかえ、瓦礫の山へ飛び込んだ。


銃声。

破片。

怒号。


だが、彼が選んだのは「地図」にしか見えない細い穴だった。

瓦礫をすり抜け、狭い下水へ滑り込む。


兵士たちが追うが、穴は狭すぎた。


銃弾が瓦礫を砕く瞬間、少年の頭の奥で「別の光景」が閃く。


少女の背に弾丸が突き刺さる映像――。




「違う、こっちだ!」




意識をねじ曲げ、ほんの一歩早く少女を引き寄せた瞬間、弾丸は空を裂いて通り過ぎた。




未来は一瞬だけ。

掴みそこねれば死に直結する。

その断片を頼りに、少年は狭い路地を切り抜けていく。








息を切らしながら走り抜ける。

背後ではまだ怒声が響く。

だが包囲は破った。


少女の髪飾りが、薄暗い水面にかすかに光を映した。


その小さな光を見た瞬間だけ、少年の胸に安堵が満ちた。

世界中を敵に回しても、彼女だけは守れる――そう信じるために。



瓦礫の隙間を抜けた先に、雨を避けられる小さな廃屋があった。

扉は半ば壊れ、風の音が吹き込んでくるが、ひとまず身を隠すには十分だった。


少年は少女を床に降ろし、自分の外套を脱いで彼女の肩に掛ける。

少女の頬は冷え切っていて、唇が小さく震えている。


「……少し休め」


そう言って、濡れた靴を脱がせ、足を擦る。


少女は相変わらず無表情のまま、されるがままだ。


だが、ほんの一瞬だけ――目を伏せた彼女の指先が、少年の袖を弱く掴んだ。


その仕草に、少年の胸は不思議な温もりで満たされる。

たとえ彼女が言葉を返さなくても。

笑わなくなったとしても。

そこに彼女がいるというだけで、彼には十分だった。


雨音が屋根を叩く。

追手の気配は遠ざかり、ようやく静けさが訪れる。


少年は背負っていた小さな袋を開け、中から硬いパンを二つ取り出した。

ひとつを少女に渡し、もうひとつを自分の口に運ぶ。


「……冷たいし固いな」

そう呟きながらも、口の中で味わうよりも、彼女が小さくパンをかじる姿を見る方が何倍も満ち足りていた。



「なんで逃げるの?捕まるのに」

と少女は言った。無表情だが不思議そうに。




「…どうしてなんだろうな。


…もう遅いから寝ろ」


少年が少し答えに詰まって言葉を飲み込む……


やがて、疲れ切った少女は外套に包まれ眠りに落ちる瞬間に、ほんの少しだけ彼に身を寄せ、静かに眠りに落ちた。

額には、あの髪飾りがまだ光を宿している。


少女が眠りについたあと、少年の意識にまた「未来」が差し込む。

今度は銃弾や瓦礫ではなく――大きくなった少女の横顔。

光の差す窓辺で、人形を抱えたまま笑っている未来の断片。たくさんの人に囲まれている。

穏やかで、やわらかい、今の彼女には存在しない表情。


少年はその像に息を詰め、拳を握る。


「……絶対に」


口に出さず誓う。


未来は断片でしかない。けれど、それがあるなら、自分の命すら惜しくなかった。


少年は瓦礫の影に腰を下ろし、彼女の寝息を聞きながら目を閉じる。

自分の胸を刺す痛みも、血のにじむ傷も、もうどうでもよかった。


――生き延びさせる。

それだけを繰り返し、少年は浅い眠りへと沈んでいった。


雨音にまぎれて、まだ遠くで犬の鳴き声や靴音が響いてる。




夜明け。


包囲網を突破された部隊は、瓦礫の路地に立ち尽くしていた。


犬は吠え、兵士たちは舌打ちし、無線が飛び交う。



「……消えた?この狭さで?」


「いや、奴の“探索能力”だ。地形ごと読まれていたとしか思えん」




上官の顔は怒りと苛立ちで歪んでいる。


「見失うな。あの二人は“聖杯計画”そのものだ。

 器を奪われれば我々の研究は崩壊する。

 失態は許されん」


兵士たちはうなずき、次の作戦を確認する。


地図の上に赤い印が増え、包囲線はさらに狭められていった。


その様子を、別室の監視員が冷ややかに眺めていた。


「……問題ありません。賞金首として噂はもう十分に広まりました。

 民衆が嗅ぎつければ、奴らの居場所は必ず露見します」


欲望に駆られた人間の群れ。


それを“情報網”として利用するのが政府のやり方だった。


上官は満足げに頷いた。

「次は逃がさん。

 ツノ付きも“聖杯”も……我らの手に帰る」



昼下がりの市場。

果物の山と焼いた肉の匂いに、喧噪と笑い声が混じっている。


ここでは誰もが声を張り上げ、値段を競り合い、子どもが走り回っていた。


その雑踏に紛れるようにして、少年と少女は歩いていた。


フードを深く被り、視線を落とす。

人混みの中にいれば気づかれるはずがない。

そう思っていた――ほんの一瞬前までは。


「……今の、ツノに見えなかったか?」

小さな囁き声。

隣にいた男が、買い物籠を持った女にそう漏らす。


「まさか。……でも、もし本当なら」

「賞金が出る」


その一言が、波紋のように広がっていく。

商人、客、物乞い、酔っ払い。

誰もが一斉に二人へ視線を投げた。


「ほら、角の影だ!」

「捕まえろ、兵に知らせろ!」


さざ波が渦に変わり、群衆がざわめき立つ。

恐怖に濁った目と、欲望に爛れた目。

それらが二人に突き刺さる。




少女の手を握り走り出す。

少女はほんの一瞬、手をぎゅっと握り返す。


だが、もう遅かった。

市場の端から、規則正しい靴音が響いてくる。

無線の声。

銃を構えた兵士が列を成し、人混みを割って現れた。


「標的発見。ツノ付きと器の少女だ。捕縛を優先」


命令が飛ぶ。

銃口が一斉に向けられ、群衆は我先にと後退した。

けれどその目はまだ、二人を見逃していなかった。

もし逃げ切れなければ、また誰かが叫び、別の群衆が牙を剥く。


――どこにも安全はない。


「こっちだ!」

少年は瞬時に意識を広げ、頭の奥に浮かぶ「地図」を描き直す。



狭い路地、瓦礫の隙間、兵士の死角。


目の前の市場はもう袋小路だ。


だが、まだ抜け道はある。




銃声が響く。



果物の山が砕け、鮮やかな果汁が地面に飛び散った。

悲鳴が上がり、人々が一斉に散る。


その混乱を縫うように、少年は少女を抱きかかえ、狭い路地へと飛び込んだ。


背後から追いすがる怒号。

前方から迫る足音。

だが彼の「地図」はすべてを先読みしていた。


――右だ。今ならまだ間に合う。


肩を打ちつけ、瓦礫を飛び越え、狭い隙間をすり抜ける。

少女の髪飾りが光を反射し、闇に小さな軌跡を描いた。


わずかな誤差でも捕まる。

だが、その一瞬のきらめきが、少年の胸を突き動かした。


――絶対に、離さない。



銃弾が背後をかすめ、瓦礫に火花を散らす。


それでも二人の影は狭い裏路地を抜け、闇の中へ消えた。


ようやく足を止めた時、息は切れ、心臓は破裂しそうに脈打っている。

少女の小さな手の温もりだけが、彼の心をつなぎとめていた。


「……行けた、か?」

少年は呟いたが、その声には確信がなかった。


市場のざわめきも、兵の靴音も遠ざかっていく。


だが耳の奥に残ったのは、群衆のざわめき――「角だ」「賞金だ」という欲望の声。


あの声は、どこへ逃げても消えはしないだろう。


瓦礫の隙間でしばし身を潜め、夜の帳が下りるのを待つ。

少女は彼の外套に身を寄せ、静かに目を閉じた。

その横顔を見つめながら、少年は胸の奥に鋭い痛みを覚える。


守れた。けれど、次も守れる保証はない。

この逃亡に終わりがあるのかすら分からない。


だから――ただ今は、彼女の小さな寝息に耳を澄ます。

それが次の瞬間に消えるかもしれないと知りながら。


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