10 一瞬先の生存
逃亡の日々は苛烈さを増していた。
政府は本気で「聖杯」を奪い返しに来ていた。
包囲網は狭まり、監視は強まり、兵の数は日ごとに増えていく。
そして民衆。
「ツノ付きが見つかれば賞金が出る」――その噂が広がると、彼らの視線は恐怖と欲望で濁った。
賞金に目がくらんだ者は、影を見るだけで通報し、わずかな違和感さえ刃となって突きつける。
政府の兵と、欲望に駆られた民衆。
世界全体が二人を追い詰めていた。
⸻
ある日、夜明け前の路地裏で、ついに捕捉された。
規則正しい靴音。
無線の声。
犬の唸り。
「標的はツノ付きと器の少女だ。生け捕りが最優先」
四方から迫る気配。
銃を構えた兵士、盾を掲げた部隊、屋根の上から狙撃する影。
背後には賞金を狙う民衆の群れ。
逃げ場は、どこにもなかった。
「……走るぞ」
少年は少女の手を握った。
銃声が響き、瓦礫が砕ける。
怒号と悲鳴と犬の吠え声が交錯する。
少女は表情ひとつ動かさず、ただ彼の手に縋っていた。
その姿が、少年の心に火を灯す。
――離さない。絶対に。
⸻
意識を限界まで広げる。
頭の奥に「地図」が広がった。
兵士の位置。
狙撃手の呼吸。
瓦礫の隙間。
下水の通路。
視界に映らぬ道まで浮かび上がる。
――ある。ひとつだけ。
「つかまえろ!」
兵士が一斉に動いた瞬間、少年は少女を抱きかかえ、瓦礫の山へ飛び込んだ。
銃声。
破片。
怒号。
だが、彼が選んだのは「地図」にしか見えない細い穴だった。
瓦礫をすり抜け、狭い下水へ滑り込む。
兵士たちが追うが、穴は狭すぎた。
銃弾が瓦礫を砕く瞬間、少年の頭の奥で「別の光景」が閃く。
少女の背に弾丸が突き刺さる映像――。
「違う、こっちだ!」
意識をねじ曲げ、ほんの一歩早く少女を引き寄せた瞬間、弾丸は空を裂いて通り過ぎた。
未来は一瞬だけ。
掴みそこねれば死に直結する。
その断片を頼りに、少年は狭い路地を切り抜けていく。
⸻
息を切らしながら走り抜ける。
背後ではまだ怒声が響く。
だが包囲は破った。
少女の髪飾りが、薄暗い水面にかすかに光を映した。
その小さな光を見た瞬間だけ、少年の胸に安堵が満ちた。
世界中を敵に回しても、彼女だけは守れる――そう信じるために。
瓦礫の隙間を抜けた先に、雨を避けられる小さな廃屋があった。
扉は半ば壊れ、風の音が吹き込んでくるが、ひとまず身を隠すには十分だった。
少年は少女を床に降ろし、自分の外套を脱いで彼女の肩に掛ける。
少女の頬は冷え切っていて、唇が小さく震えている。
「……少し休め」
そう言って、濡れた靴を脱がせ、足を擦る。
少女は相変わらず無表情のまま、されるがままだ。
だが、ほんの一瞬だけ――目を伏せた彼女の指先が、少年の袖を弱く掴んだ。
その仕草に、少年の胸は不思議な温もりで満たされる。
たとえ彼女が言葉を返さなくても。
笑わなくなったとしても。
そこに彼女がいるというだけで、彼には十分だった。
雨音が屋根を叩く。
追手の気配は遠ざかり、ようやく静けさが訪れる。
少年は背負っていた小さな袋を開け、中から硬いパンを二つ取り出した。
ひとつを少女に渡し、もうひとつを自分の口に運ぶ。
「……冷たいし固いな」
そう呟きながらも、口の中で味わうよりも、彼女が小さくパンをかじる姿を見る方が何倍も満ち足りていた。
「なんで逃げるの?捕まるのに」
と少女は言った。無表情だが不思議そうに。
「…どうしてなんだろうな。
…もう遅いから寝ろ」
少年が少し答えに詰まって言葉を飲み込む……
やがて、疲れ切った少女は外套に包まれ眠りに落ちる瞬間に、ほんの少しだけ彼に身を寄せ、静かに眠りに落ちた。
額には、あの髪飾りがまだ光を宿している。
少女が眠りについたあと、少年の意識にまた「未来」が差し込む。
今度は銃弾や瓦礫ではなく――大きくなった少女の横顔。
光の差す窓辺で、人形を抱えたまま笑っている未来の断片。たくさんの人に囲まれている。
穏やかで、やわらかい、今の彼女には存在しない表情。
少年はその像に息を詰め、拳を握る。
「……絶対に」
口に出さず誓う。
未来は断片でしかない。けれど、それがあるなら、自分の命すら惜しくなかった。
少年は瓦礫の影に腰を下ろし、彼女の寝息を聞きながら目を閉じる。
自分の胸を刺す痛みも、血のにじむ傷も、もうどうでもよかった。
――生き延びさせる。
それだけを繰り返し、少年は浅い眠りへと沈んでいった。
雨音にまぎれて、まだ遠くで犬の鳴き声や靴音が響いてる。
夜明け。
包囲網を突破された部隊は、瓦礫の路地に立ち尽くしていた。
犬は吠え、兵士たちは舌打ちし、無線が飛び交う。
「……消えた?この狭さで?」
「いや、奴の“探索能力”だ。地形ごと読まれていたとしか思えん」
上官の顔は怒りと苛立ちで歪んでいる。
「見失うな。あの二人は“聖杯計画”そのものだ。
器を奪われれば我々の研究は崩壊する。
失態は許されん」
兵士たちはうなずき、次の作戦を確認する。
地図の上に赤い印が増え、包囲線はさらに狭められていった。
その様子を、別室の監視員が冷ややかに眺めていた。
「……問題ありません。賞金首として噂はもう十分に広まりました。
民衆が嗅ぎつければ、奴らの居場所は必ず露見します」
欲望に駆られた人間の群れ。
それを“情報網”として利用するのが政府のやり方だった。
上官は満足げに頷いた。
「次は逃がさん。
ツノ付きも“聖杯”も……我らの手に帰る」
昼下がりの市場。
果物の山と焼いた肉の匂いに、喧噪と笑い声が混じっている。
ここでは誰もが声を張り上げ、値段を競り合い、子どもが走り回っていた。
その雑踏に紛れるようにして、少年と少女は歩いていた。
フードを深く被り、視線を落とす。
人混みの中にいれば気づかれるはずがない。
そう思っていた――ほんの一瞬前までは。
「……今の、ツノに見えなかったか?」
小さな囁き声。
隣にいた男が、買い物籠を持った女にそう漏らす。
「まさか。……でも、もし本当なら」
「賞金が出る」
その一言が、波紋のように広がっていく。
商人、客、物乞い、酔っ払い。
誰もが一斉に二人へ視線を投げた。
「ほら、角の影だ!」
「捕まえろ、兵に知らせろ!」
さざ波が渦に変わり、群衆がざわめき立つ。
恐怖に濁った目と、欲望に爛れた目。
それらが二人に突き刺さる。
少女の手を握り走り出す。
少女はほんの一瞬、手をぎゅっと握り返す。
だが、もう遅かった。
市場の端から、規則正しい靴音が響いてくる。
無線の声。
銃を構えた兵士が列を成し、人混みを割って現れた。
「標的発見。ツノ付きと器の少女だ。捕縛を優先」
命令が飛ぶ。
銃口が一斉に向けられ、群衆は我先にと後退した。
けれどその目はまだ、二人を見逃していなかった。
もし逃げ切れなければ、また誰かが叫び、別の群衆が牙を剥く。
――どこにも安全はない。
「こっちだ!」
少年は瞬時に意識を広げ、頭の奥に浮かぶ「地図」を描き直す。
狭い路地、瓦礫の隙間、兵士の死角。
目の前の市場はもう袋小路だ。
だが、まだ抜け道はある。
銃声が響く。
果物の山が砕け、鮮やかな果汁が地面に飛び散った。
悲鳴が上がり、人々が一斉に散る。
その混乱を縫うように、少年は少女を抱きかかえ、狭い路地へと飛び込んだ。
背後から追いすがる怒号。
前方から迫る足音。
だが彼の「地図」はすべてを先読みしていた。
――右だ。今ならまだ間に合う。
肩を打ちつけ、瓦礫を飛び越え、狭い隙間をすり抜ける。
少女の髪飾りが光を反射し、闇に小さな軌跡を描いた。
わずかな誤差でも捕まる。
だが、その一瞬のきらめきが、少年の胸を突き動かした。
――絶対に、離さない。
銃弾が背後をかすめ、瓦礫に火花を散らす。
それでも二人の影は狭い裏路地を抜け、闇の中へ消えた。
ようやく足を止めた時、息は切れ、心臓は破裂しそうに脈打っている。
少女の小さな手の温もりだけが、彼の心をつなぎとめていた。
「……行けた、か?」
少年は呟いたが、その声には確信がなかった。
市場のざわめきも、兵の靴音も遠ざかっていく。
だが耳の奥に残ったのは、群衆のざわめき――「角だ」「賞金だ」という欲望の声。
あの声は、どこへ逃げても消えはしないだろう。
瓦礫の隙間でしばし身を潜め、夜の帳が下りるのを待つ。
少女は彼の外套に身を寄せ、静かに目を閉じた。
その横顔を見つめながら、少年は胸の奥に鋭い痛みを覚える。
守れた。けれど、次も守れる保証はない。
この逃亡に終わりがあるのかすら分からない。
だから――ただ今は、彼女の小さな寝息に耳を澄ます。
それが次の瞬間に消えるかもしれないと知りながら。




