11 選択
路地裏の湿った空気が、少年の肌を刺す。
意識を市場の雑踏へと広げれば、情報の濁流が脳を突き刺した。
賞金首の噂、兵士の巡回、人々の汚れた欲望。
それらすべてを「観測」の網で弾き飛ばしながら、少年は街の深部へと意識を沈めていく。
守るべきは、背中の少女。
だが、少年の計算式は冷徹に告げている。
蓄積する疲労、摩耗する靴底、尽きかけた食糧。
このまま走り続ければ、いずれ限界が来る。
今の逃走は、いつか必ず行き止まりへ繋がる。
自分以外の「逃げ道」を、探さなければならない。
孤児を囲む女性。
その路地裏には、確かに陽だまりがあった。
だが、少年は網を引く。
彼女の優先順位の最上位は、今抱えている五人の孤児たちだ。
少女という「ツノ付き」を一人紛れ込ませれば、その均衡は脆くも崩れる。
彼女にとって、少女は守るべき子供ではなく、守りきれない「リスク」だ。
一番後回しにされ、いつか誰かの犠牲になる。
少年はただ、その背中から視線を逸らした。
元兵士。
路地の奥で火を焚く男。
身体は頑強で、追手の気配を一瞬で殺す技術も見て取れる。
だが、男の腰に下がる短剣に刻まれた「×」の傷跡。
焚き火の煙を見つめるその瞳には、子供を育てるための安らぎではなく、過去の敵への剥き出しの憎悪が焼き付いていた。
ここに預ければ、少女の瞳からは笑みが消え、代わりに鋭い警戒心が宿るだろう。
彼女を「子供」としてではなく、復讐のための「駒」として育てる男に、託せるものなど何もない。
少年は即座に網を引いた。
病に伏すツノ付きの男。
部屋に立ち入った少年の意識は、男の肺の音を聞き取る。
不規則な喘鳴。
床に散らばった薬の空き瓶。
彼のもとでなら、少女は優しい時間を得られるだろう。
だが、少年は計算する。
男の死後、少女はどうなる?
守護者を失い、見知らぬ街で一人、途方に暮れる少女の姿。
一度得た温もりを喪ったとき、彼女は以前よりも深く傷つくはずだ。
不安定な場所は、健やかな成長を阻む。
少年はただ、その部屋を素通りした。
どれも、違う。
自分一人で背負う重圧と、常に突きつけられる死の影。
少年は瓦礫に背を預け、冷え切った指先で頬を叩いた。
視界が上下に揺れる。
誰も信じられない。誰も選べない。
ならば、自分の命が尽きるその瞬間まで、彼女を離さないのが唯一の選択なのか。
その時だった。
雑踏を抜けていくひとりの人物の姿が、少年の視界に飛び込んできた。
何気ない歩み。通り過ぎるだけの他人。
だが、その背中を見た瞬間、少年は強烈な眩暈に襲われた。
視界がぐらりと歪む。まただ。
最近、極限の緊張が脳の回路を焼き切っているのか、知らない風景が勝手に重なって見える。
陽光。
窓辺。
人形。
大きくなった少女の横顔と、その傍らに佇む誰かの影。
少年は自分の拳を、硬い壁に叩きつけた。
鈍い痛み。
だが、幻影は消えない。
あまりに詳細で、現実の風景よりも鮮明な「ノイズ」。
「……違う」
少年は唇を強く噛み締め、血の味を飲み込んだ。
こんな幻に縋らなければならないほど、自分は追い詰められているのか。
誰も信じられない。誰も選べない。
ならば、自分の命が尽きるその瞬間まで、彼女を離さないのが唯一の「選択」ではないのか。
だが、その人物がふと道端の子供に果物を手渡し、小さく笑った。
その動作が、幻の中の人物と完全に重なった。
少年の足は、思考とは裏腹に勝手に動き出していた。
確信などない。妄想かもしれない。
それでも、その人影を見失うことへの、得体の知れない恐怖が少年の背中を突き飛ばす。
「……ここじゃない」
少年はそう呟きながら、幻影が重なるその背中を追った。
確信などない。
それでも少年は、夜の闇に紛れ、その不確かな影の正体へと足を踏み入れていた。




