5 音を失う施設
施設は、日に日に音を失っていった。
子供たちの泣き声も、かつてあった笑い声も、廊下を走る足音さえも。
今やこの場所に響くのは、重い鉄扉が閉まる硬質な音と、研究者たちのペン先が紙を削る冷たい音だけだった。
廊下に並んだ靴は、少しずつ、だが確実にその数を減らしていく。
昨日まで隣のベッドにいたはずの子供が、今日にはもういない。
その理由をあえて口にする者も、声を上げて悲しむ者も、この場所には誰も残されていなかった。
ある日の朝、二段ベッドの上にいた子が、床に力なく倒れていた。
白衣の大人たちに運ばれていったあと、小さな机に残されたのは、主を失った番号札だけだった。
隣のベッドの少女は、それを見ても無表情のままで、何事もなかったかのようにただ静かに座っている。
廊下の奥、薄暗い角で三人の孤児が小さく寄り添い、言葉を交わすこともなく、互いの肌の温もりだけでかすかな存在を確かめ合っていた。
昼の食堂では、プラスチックの箸が皿に当たる音だけが細く響き、半分以上残された冷えた食事が、そのまま機械的に片付けられていく。
食堂の端で、顔をこわばらせた子供が静かに涙を拭っていたが、誰もそこに手を差し伸べようとはしなかった。
研究者たちの革靴の音が廊下に響くたび、孤児たちはびくりと肩を震わせる。
突発的な泣き声、押し殺した嗚咽、微かなうめき声――精度を増していくその静寂の繰り返しの中で、また一人、また一人と子供たちの姿が消えていった。
◇
そんな地獄の中で、あの少女は生き残っていた。
連日の苛烈な検査にその身を晒されながらも、彼女はただ感情の抜けた無表情で、研究者たちの執拗な視線を受け流し続けている。
かつて少年の世界の静寂を揺らしたあの笑顔も、目まぐるしく変わる泣き顔も、世界への興味も、今の彼女からはすべてが綺麗に消え去っていた。
ツノ付きが生まれるメカニズムは、誰にも分かっていない。何が引き金になるのか、どんな前兆があるのかも不明なままだ。だからこそ研究者たちは、過酷な実験の果てに「中身の消えた空っぽの器」のようになった彼女を、飢えた目で凝視していた。
この個体なら、余計な願望を持たない純粋な「聖杯」になれるかもしれない。
そんな冷たい理性と甘い狂気の混ざった仮説が、この施設の日常になっていた。
少年は相変わらず、外の世界へ任務に駆り出されていた。
目を閉じ、ぼんやりとした気配を辿り、ただ標的の方角を指差す。
その指の先で流れるのは、見知らぬツノ付きたちの泣き声と、どす黒い血の匂いだけだった。
繰り返されるその作業に、もはや感情を動かす余地などなかった。
周囲の大人たちから浴びせられる目に見えない悪意の質量を独りで測り続け、喉のひりつきと手の冷たさに耐えながら施設へ帰ると、廊下の隅で震える誰かの背中が目に入る。
だが、少年の胸に宿るざわつきは、計算式が弾き出す諦念によって、すぐに消えていった。
けれど――少女の姿が視界をよぎるときだけ、少年の合理的な思考にわずかな綻びが生まれた。
自分がツノ付きになり、父が「失敗」に絶望したあの日を境に、施設での実験は明らかに速度を上げ、苛烈さを増していた。
その事実を頭の中で冷淡に並べるたび、少年は自らの指先と目の前の光景が薄く地続きであるような、ごくかすかな居心地の悪さを覚える。
すれ違う通路の影や、実験室のガラス越しに彼女の無機質な横顔を見るたび、少年のポケットの中の手は、無意識のうちに亡き母のペンダントを小さく握りしめている。
なぜそうしてしまうのか、今の少年にはその理由を言語化することができない。
ただ、他の子供たちを見るときには生じない、一瞬の視線の滞りだけが、彼の内に静かに残っていた。
かつて少女は確かに、鮮やかな色を持っていた。
だが、施設の奥へと引きずり込まれるたびに彼女の表情は剥ぎ取られ、世界はただ、机の上に残される冷たい番号札だけになっていく。
少年は何も言えず、ただ自らの存在とどこか薄く繋がっているその横顔を、静かに見つめ続けることしかできなかった。




