3 幼き頃の思い出
昼下がりの廊下は、ひどく静かだった。
高い窓からの陽光が鉄格子を通り、床に白く四角い影を落としている。どこか遠くで実験の機械が低く唸りを上げ、風が吹くたびに鉄格子のネジがかすかな金属音を立てていた。
その光のなかに、少女は膝を抱えて座り込んでいた。足音に気づいたのか、ひょいとこちらを見上げる。
「ねえ、君のお父さんとお母さんってどんな人?」
その声は澄んでいて、廊下の無機質な静けさに、小さな鈴を転がすように響いた。
少年は少しだけ足を止め、無表情のまま、ぽつり、ぽつりと答える。
「……母は, 優しい人だった」
「孤児院の子どもたちに絵本を読んで。声がきれいで……みんな眠ってしまった」
「庭で花を育てて、食堂に飾っていた」
言葉が途切れた。
話しているうちに、鼻の奥に花の香りがよみがえるような気がした。春の日の土の湿り気と混じった、甘くて薄い香り。前はその記憶をたぐるだけで胸の奥が温かくなった気がしたが、今はもう、どこか遠く、淡い。
少女は膝に顎を乗せ、首を傾げる。
「ふうん……じゃあ、お父さんは?」
少年は一瞬だけ目を伏せ、やがて低い声で、そっけなく呟いた。
「……父は、嫌いだ」
だが、口をついた言葉は止まらなかった。
「大人気なくて。子どもたちと遊ぶときは、本気で走って、本気で隠れて、誰も勝てなかった」
耳の奥に、かつての荒い息遣いや、靴音の弾む響きがかすかに蘇る。
「たまに鬼ごっこの時に、父はわざと捕まって、みんなを笑わせた」
笑い声が記憶の底で小さく広がり、そして、すぐに消える。
「でも、母がいなくなってから、急に変わった。あんなに笑っていたのに、今は冷たい顔しかしない」
少年の口調は冷ややかだった。けれど、紡がれる記憶の一つひとつは、鮮やかな「昔の父親」の姿ばかりだった。
少女は黙って聞いていたが、やがて口元に小さな笑みを浮かべる。
「ねえ、それって……君、お父さんのこと好きなんだね」
その瞳が窓の光を映して、淡い琥珀のように揺れていた。
少年は答えなかった。
ただ、その目がわずかに泳ぐ。
「きっと、お父さんも君のこと好きだと思うよ」
少女は立ち上がり、鉄格子に近づいた。そこから見える外の空を、眩しそうに目を細めながら見つめる。
「だって……そうじゃなきゃ、あんな瞳で君を見たりしないよ」
光が床に揺れ、二人の影を静かに重ね合わせる。
あんな瞳で、見たりしない。
少女の言葉が、少年の耳の奥に微かな熱を持って残響する。変わってしまった父親の冷たい横顔が脳裏をよぎり、その背中に、もう一度だけ振り向いてほしいという奇妙な欲求がかすかに持ち上がった。どうすればいい。父の役に立ち、父を助ければ、あの笑い声は戻るのだろうか。
少年の胸の奥に、ごく小さな、名もなき願望の種が生まれていた。その不思議な波紋の正体を、今の彼はまだ、何も知らない。




