2 仮初めの孤児院
少年は、かつて孤児院と呼ばれていた檻の中にいた。
廊下の床は擦り切れた板張りで、歩くたびにところどころ軋む音を立てる。
壁にはかつてここにいた子供たちが背を比べた跡や、乱暴に引かれた定規の線が白く残っていた。
しかし、そのノスタルジーを塗りつぶすように、現在は無機質な鉄扉が等間隔に並び、通路を異様な雰囲気で支配している。
鉄格子のはまった窓から差し込む月明かりには、淡く埃が舞っていた。
夜風が格子を抜けて室内に滑り込み、机の上の紙の端をパタパタと揺らす。
日中、遠くからかすかに響く子供たちの声や、錆びついた遊具が軋む音。
それらはすべて、ここが一般的な孤児院だった頃の抜け殻だ。
今や他の子供たちはみな、少年と同じく「実験体」として番号で管理されていた。
ただ、責任者である父の息子という理由だけで、彼だけは特別な立場に置かれている。
能力者では無い少年の額には、まだ角は生えていなかった。
そのため、この施設の基準における「成功」か「失敗」かの判断は保留されている。
白衣を着た研究者たちは少年に干渉せず、ただいつ異能が発現するかを監視する「記録対象」として、冷淡な視線を向けるだけだった。
周囲の子供たちは、異物の存在として自然と少年から距離を置く。
同じ部屋にいても決して目を合わせず、言葉も交わさない。
少年もまた、それを気にする性質ではなかった。
少年はポケットの中で、亡き母の遺品である小さなペンダントを、ただじっと握りしめていた。
毎日繰り返される実験や、研究者たちの冷たい視線の中にいると、手のひらの中にある金属の冷たさだけが、妙に安心できる拠り所だった。
母の顔を思い出そうとしても、日を追うごとにその輪郭はどこかぼやけて、小さくなっていくような気がする。
少年はただ淡々と、床の冷たさ、椅子の木肌の固さ、自らの呼吸のリズム――世界の断片を一つずつ正確にカウントすることで、静かに時間をやり過ごしていた。
ただ一人、あの少女だけは違った。
彼女は、研究者たちがどれほど厳しい視線を注いでいようとお構いなしに、小さな手で少年の机に触れ、軽やかに声をかけてきた。
鈴を転がすような笑い声が、少年の世界の静寂をわずかに、だが確かに揺らす。
少年は無意識のうちに、ペンダントを握る手を少しだけ緩め、その姿を目線で追っていた。
少女の髪は、窓からの光を受けると柔らかく輪郭を溶かして揺れた。その瞳は世界を映して鮮やかに動く。
笑うと頬に小さなえくぼが浮かび、目尻が細く下がる。
表情の移り変わりは見ていて目まぐるしく、泣くように眉を寄せたかと思えば、次の瞬間には弾けたような明るい声をあげる。
少女だけは、少年を特別扱いしなかった。拒絶でも同情でもなく、ただそこにいる「人間」として。その無防備さが、少年には奇妙なほど眩しかった。計算でも損得でもない、その接し方の意味を、少年はうまく言語化できなかった。
拒絶もなければ、特別な反応もない。ただそこにいる一人の人間として、ごく自然に絡んでくる。
なんだ、コイツは。
疑問は一瞬で浮かび、一瞬で沈んだ。
だが、完全には消えなかった。
澱のように思考の底に留まり続ける何かが、少年には初めてだった。
感情ではない。
ノイズでもない。
それが何なのか、今の彼には言葉がなかった。
それだけのやり取りに、少年はほんの僅かな引っかかりを覚えていた。




