13 憶えている者
爆音の余韻が耳の奥で歪む中、少年は崩れた瓦礫に手をついた。
指先に力が入らない。それでも、無理やり体を引き上げる。
「……まだ、だ」
掠れた声が喉の奥で途切れる。
意識を広げる。いつものように、頭の奥に「地図」を描こうとする。
――だが、広がらない。
輪郭が崩れ、像が滲み、道はどこにも繋がらない。兵の位置も、逃げ道も、未来の断片すら――何ひとつ掴めなかった。
初めてだった。何も“見えない”。
「……なんでだよ」
足を一歩、前に出す。石畳に膝がぶつかり、そのまま崩れ落ちる。
それでも、止まらない。止まれない。
少女の姿を探すように、焦点の合わない視界を無理やり持ち上げる。
――いない。ここには、もういない。
理解はしている。託した。安全な場所にいる。だから――
それでも、体は勝手に動こうとした。指が石を掴み、砕けた破片が掌に食い込み、血が滲む。
もう一度、立とうとする。
だが、力は戻らない。体の奥から、何かが静かに抜け落ちていく。
「……っ」
息が続かない。肺が焼けるように痛み、視界が暗く沈む。
それでも、ほんのわずかに体を前へ引きずる。あと一歩。
心臓が早鐘を打つ。鼓動が耳を突き上げ、血流が身体中の神経を無理やり繋ぎ止める。
会いたい。もう一度、あの笑顔の隣に立ちたい。
少女の未来をこの目で確かめるまでは、死ねない。
指先が石畳を掻き、爪が剥がれ、泥が指の間にめり込む。その激痛さえも、生きている証として必死にすがりついた。
あと少し、あと数センチ這いずれば、彼女を守ったという手応えが、彼女を託したという事実が、より確かなものになる気がした。
だが――。
その動きは、途中で止まった。
指先から力が抜け、石畳に静かに落ちる。
どれほど強く願っても、どれほど意識を繋ぎ止めても、肉体という名の器は、もはや少年の意志に応えることを拒絶した。
そこでようやく、少年は理解する。
――もう、無理。
ああ、そうか。
抗いようのないこの感覚。意識が剥がれ落ち、世界が遠ざかっていくこの感覚。
なぜ父は、母の死に際を詳しく語らなかったのか。
ずっと胸に刺さっていた疑問が、ふいに解けていく。
知らせなかった理由が、ようやく分かった気がした。
あの時、父もまた、この静けさの中で同じように「終わる」ことを確信していたのだろう。
知れば、それを背負うことになる。あの最期を、ずっと抱えて生きることになる。
父は、自分の大切な息子に、そんな剥き出しの絶望を背負わせたくなかったのだ。
「……父さん。やっと、分かったよ」
父が選んだのは、沈黙という名の愛だったのだ。
自分もまた、同じ道を歩いていた。少女が泥を被らないよう、すべてを計算して背負い込み、最後には自ら消えることを選んだ。
自分は、ずっと父の背中を追いかけていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、張り詰めていた心が、ふわりと軽くなった。
体温が、静かに抜けていく。
意識が遠のく中、拡張した能力が最後の一仕事をするように、未来を映し出した。
そこに少女がいた。
少しだけ大人びた面立ち。風に揺れる柔らかな髪には、あの日の髪飾りとは違うけれど、大事な所がよく似た、小さな花の模様の髪飾りが見える。
少女はふと、何かに気づいたようにこちらを向く。
そして、誰よりも柔らかく、心からの笑みを浮かべた。
――ああ。
少年は、その笑みに応えるように、かすかに唇を緩めた。
どれだけ時間が経ち、物が変わろうとも、彼女の中にあの記憶が残っているだけで十分だ。
鮮血に塗れた汚れた視界の中で、髪飾りの小さな花の模様が陽光を受けて優しく揺れ、少女の笑顔が歪み、溶け、ノイズのように細切れに砕け散っていく――。
だが、現実はあまりに残酷だった。
身体の損壊は、すでに限界を超えていた。
爆風で砕けた肋骨が内臓を刺し、呼吸のたびに喉元からどろりとした血が溢れる。肺が焼けるような熱を帯び、動かそうとした指先は、すでに神経が断絶して言うことを聞かない。
ただ、這いずった石畳に、自分の体から流れ出した温かい液体が赤黒く広がっていくことだけが、鮮明に理解できた。
内側から何かが崩れ落ちるような、生々しい感覚。
神経が千切れる痛みも、冷え切った大地に吸い出される生命の感覚も、すべてが「終わる」という事実として少年の全身を蝕んでいく。
静寂が戻る前のわずかな瞬間、街は破片と炎に包まれ、少年の存在は確かに、しかし残酷に消えた。
その死はやがて「戦闘に巻き込まれた聖杯と共に死んだ人」として記録の中に埋もれる。
ただ夜だけが、何事もなかったかのように燃え続ける。
少女はその全てを知らない。
遠くから炎を見つめる影がひとつあった。
それは、少年に託された人物。
崩れ落ちる光景に、彼は声も涙も飲み込み、ただ強く拳を握りしめる。
「……必ず守る。お前の代わりに」
背後で瓦礫が微かに軋み、煙が夜空に溶ける。
やがて街は静寂を取り戻すだろう。
だが、その死の意味を覚えているのは、ただ一人だけだった。




