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逆プロポーズと貧乏少年2

「うはっ……!はははっ……!」


 狭い部屋をスキップしながら行ったり来たり、そして定期的に細かい奇声を発する。


 百万ワットの輝く笑みで。


 先程から、正確には入室して十分と少し、雛由マヒルはずっとこの調子である。


 白葉寮、四号室。


 そこまで広くはないし、家具も必要最低限、長らく手がつけられていなかったのか床にも机にも薄く埃が積もっている。

 鍵を開けたらそんな部屋だった。

 お世辞にも素敵な住まいとは言いがたいが、それでもマヒルのテンションは今までに無いほど上がりに上がっていた。


「電気、つく!窓、閉まる!トイレ、流れる!床、鳴らない!ドアの建て付けも最高!」


 ついでに借金取りも来ない。


「ああ、最高!素敵、快適、僕の天国!ああ、生きてて良かった!」


 部屋の中をぴょんぴょん跳ね回ると、最後にはごろんとフローリングに転がった。

 カバー掛された蛍光灯の明るい白い天井がある。雨にも風にも動じない立派な屋根がある。ギシギシ鳴ったり抜けたりもしない床がある。


 それだけで胸が幸せいっぱいだ。


 それだけで今日一日の疲れが消えて無くなるようだ。


「……げっほ、けほけほ」


 とそこで、舞い上がった埃で噎せる。

 思い出して立ち上がると、マヒルは頭に降りかかったホコリを叩いた。


「そうだ……掃除が先でしたね」


 何が面白いのか、ニヤニヤしながらそんなことを呟く。

 少々不気味だが、そうせずにはいられないのだ。


 嗚呼、これほどまでに幸せな掃除がこの世にあるだろうか、と。


 茜色の日が傾くオーシャンビューの窓を全開にし、長らく閉め切られていたカーテンと共にその髪を風に揺らすマヒル。


 部屋に吹き込む新たな空気を胸一杯に吸い込み、溢れる気合いに火を灯した。


「よっし!」


 掃除用具を借りに、マヒルは部屋を出た。




 さて、マヒルが本気になるとどうなるか。

 首都圏最速のバイト生が本領発揮するとどうなるか。


 大抵は物凄いことをしでかす。


 そして、今回もまた凄いことをしでかした。


「ふう……」


 掃除を初めてから一時間と少し。

 雛由マヒルは、白葉寮の正面よりその外観を満足げに眺めていた。


「なかなかの出来映え……!」


 寮全体がぴかぴかである。


 マヒルが立ち入れない個人の部屋までは手がつけられなかったが、廊下や玄関や中庭や植え込み。

 共用スペースの一階、食堂から浴場の隅から隅まで。

 ついでにあのごちゃごちゃしていた地下室までも。

 寮の全てが入念に清掃、場合によっては修繕されていた。


「いやあ、少し張り切りすぎましたかね……あはは」


 最初は、本当に自分の部屋だけをやるつもりだった。

 だが、嬉しさのあまり気がつけばあっちも、こっちも、という様にしてところ構わずやっているとこうなってしまったのだ。


「オイオイ嘘だろ……こいつ。」


「ん?」


 振り返ると、そこにはコンビニの袋を手にした白葉が口を開けて立っていた。

 どうやらたった今帰ってきたらしい。


「あ、白葉さん!」

「雛由マヒル……お前、これ一人でやったのか?」

「はい、部屋を貰うと何だか嬉しくって仕方なくなっちゃって……えへ」

「えへ、て……。」


 何か言おうとしたらしく口を開いた白葉だったが、続く言葉を発見できずに自分の頭をくしゃくしゃとかき回すに止まった。


「あの……ひょっとして何かまずかったり?」

「しねえよ、しねえけど……はあ、本当に無茶苦茶だなお前」

「その程度ならよく言われます」


 何が嬉しいのやらにこにこしながら答えるマヒル。


「まあいい。鍵は勝手に取った様だし……今日は疲れただろ?この時間なら空いてる筈だから、風呂にでも入れ。

 場所は……」

「一階の入り口を右に曲がったところですよね?」

「知ってるのか?」

「さっき掃除させてもらいました」

「マジかよ。」


 驚きを通り越して呆れたため息をつくと、白葉は寝ぼけたような顔のまま一階の入り口を潜っていった。

 と、そこで思い出したかのように振り返る。


「ああ……お湯出すときは気をつけろ。油断してるといきなり冷水とか熱湯とか出るからな。」

「はい」


 後ろ手にひらりと手を振ると、管理人室の穴の空いた扉に消えていった。


「お風呂……ですか」


 公園の水道ではない。

 公民館のシャワーでもない。

 まともなお風呂だ。


「やったあー!」


 その場で跳び跳ねると、マヒルは着替えを取りに自室である四号室へ走った。

 ーー途中で自分の着替えが無いことを思い出して、ジンヤの部屋に借りに行った。





「ふう……さて」


 ジンヤからTシャツと短パンを借りて、下着は「パンツくらい調達しろ」と千円札を握らされてコンビニへ走らされた。


 着替えの調達を済ませると、いよいよ脱衣室で服を脱ぎ、おまちかねの風呂場の戸を引いた。


 そして


「やっぱりお風呂はこうでなくては!」


 歓声。

 浴場だ。

 大浴場だ。


 二三人程度なら同時に脚を伸ばせそうな大きな湯槽に、体を流すシャワーが二つある。

 先程隅から隅まで磨いたので、気持ちがいいくらいぴかぴかだ。


 かけ湯を済ませたマヒルは早速湯槽に浸る。

 少し熱めだが、それがいい。

 こんな容姿でも流れる血は日本人なのである。


「それに、こんなに広いと気持ちがいいですね……脚を伸ばせますし……」

「二人で入っても大丈夫だし……」

「そうそう、裸の付き合いってやつですよね……」

「うーん、でもわたしはもう少し狭くてもいいかな?ほら、こう……肩寄せて肌がぴとってする感じとか、なんかスケベじゃん。」

「スケベって……」


 そこで横を見た。


「うへへ……極楽極楽」

「……え?」


 アユムがいた。

 一糸纏わぬ姿の愛沢アユムが、気持ち良さそうにお湯を満喫していた。


 手に掬ったお湯を覗きながら涎を垂らしそうな顔ににんまり粘着質な笑みを称える。


「うへっ……このお湯とかもマヒルのお出汁が染みてたり……この全身をマヒル成分が充たされてゆくような感覚……うへへへっ」




「うわあああああああああああああああ!?」




「っ!?」


 管理人室で白葉が椅子から転げ落ちそうになっていた。


「……あいつ、シャワーの温度調節ミスったな……?」


「後でコツでも教えてやるか」と呟きつつ、椅子の上で惰眠に帰った。




「ほ……ほら、アユちゃん……やっぱり迷惑だったんだよお……」


 ぺたんとした体を柔らかくタオルでくるんだコマエが、湯に浸かる前から真っ赤な顔でそう言っている。


「え?そうかな……いや、こう……喜ぶと思ったんだけどな……。

 ……結構自信あったのに……」


 その横で、タオルは片手に全くノーガードな愛沢アユムが少し悔しそうに自分の胸に手を当てている。


「ななななっ!?何してるんですか二人ともっ!?」


 急いで下半身を隠したマヒルの発言は無視、アユムは惜しそうに舌打ち。


「ああ……今一瞬チラッと……!」

「あ、アユちゃんダメだってば~!」


 アユムの発言に、コマエは更に赤くなって顔を覆いつつ身をよじる。

 お陰でひっかかりの少ないなだらかボディからタオルが落ちそうである。

 ひやひやしながら湯槽のはしっこに退避するマヒル。

 しかし、アユムがそれを許す訳もなく。


「あ、こらこら逃げることないじゃんマヒル!」

「ひえええっ!?」


 目を瞑りかけているマヒルが逃げ切れる訳もなく、湯槽の隅で捕縛された。

 左腕をがっしりとホールド、二の腕を襲うアユムの柔らか触感。


「ちょっちょっと……!?なんてことをっ!?」

「ほらほら、暴れない!お風呂イベントなんてエロゲのお約束でしょ?」

「いつから僕の新生活はそんな如何わしいゲームにっ!?」


 散々暴れまくったものの、議論の末に「下の方くらいは隠しましょう」というお互いの譲歩案で可決した。



「ご……ごめんね……マヒルくん……」


 アユムではなくコマエが謝る。


「いえいえ……もういいですよ。これ以上謝られると……もう、色々ダメになりそうです。」

「えっ、嘘っ……本当?マヒルって謝られるとこう……くるの?」

「まあ、きますね。主に胃の方に。」


 結局は小田原コマエと愛沢アユムに挟まれる形で入浴するはめになったマヒル。

 なんというか、疲れをとるつもりが逆に疲れそうである。


「ていうか……アユムさんはともかくコマエさんはなぜ?」

「『ともかく』……て?なにそれ、私ってそんなに安売りしてた?」

「年末セール並の大安売りですよ。」

「え、処分価格じゃん!?」


「売れ残りじゃなーい!」と叫ぶアユムを横目に見ながら、コマエは更に小さく縮こまる。


「え……えと……それは……」


 改めてこの状況が恥ずかしくなったのか、引きかけていた朱色がまた頬を染めた。

 視線をあっちこっちにさまよわせつつ、聞き取れる寸前の小声で答えた。


「あ、アユちゃんが行くって言ったから……」

「……え?あ、え?……ああ、はい。」


 今のは回答になっていたのだろうか。

 若干のズレを感じつつも、マヒルはとりあえず頷くに止めた。


「う……うん、そういうことだから……」


 決して「アユちゃんをひとりにしたらマヒルくん(の貞操)が危ない……」とは言えない、姉貴分思いなコマエなのである。

 そもそもこんな状況になってはカバーしきれるのかという不安に満ちてはいるが。


 そんなコマエの気苦労を知ってか知らずか、アユムは能天気だ。


「コマちゃんもみんなでお風呂したかったんだよねっ?」

「え?」

「あ、アユちゃんっ!」


 にやあっと笑ったアユムに、コマエは小さく水面を叩いた。


「と、とにかく……アユちゃん、マヒルくんのこと困らせちゃダメだよ!」

「大丈夫!マヒルだって本心は大喜びなんだよ。ほら、こんなに笑顔」

「……あはは」


 苦笑いも笑顔にカウントされるようだから質が悪い。


「はあ……」


 マヒルは大きくため息をつく。

 ゆっくりお湯を楽しむのは諦めた方が良さそうだ。


「んじゃ、そろそろ背中流そっか」


 その矢先の発言に、マヒルが顔を青くしたのは言うまでもない。




「いやあ……極楽だね……!」

「ええ、本当に生きる人の世とは思えませんね……」

「ま、マヒルくん……」


 椅子を三つ並べて、背中を流し会う三人。

 コマエがマヒルの背を流し、マヒルがアユムの背中を流している。


 ちなみに、マヒルはアユムの要望でタオルではなく素手である。

 ボディーソープのあってないような膜の向こうの柔肌の感触をダイレクトに鷲掴みである。


 数分前の


「いや、そこはタオルか何かで……」

「だめだめ!私のお肌はマヒルの手以外は受け付けないから!」

「アユちゃん、マヒルくん嫌がってるし……」

「だったら私がマヒルの体全身をくまなく舐め回すように……」

「やります!やります!やりますから勘弁してください!」


 というやり取りの末の結果だ。


「あと二ヶ月で十七歳なんだよ、私?超食べ頃なんだよ?そんな乙女のお肌に触れられるなんて、もうマヒル幸福者すぎ!」

「……食べ頃って……こんな格好でそんなこと言っちゃダメですよ……。お嫁に行けなくなりますよ?」

「大丈夫、その時はマヒルが責任取ってくれるから」

「……。」


 この心労の絶えない会話はいったいなんなのだろう。

 意識が遠退くのを感じるマヒル。


「……んっ……っしょ……」


 と、逃避のため後ろの方に注意を向けてみると、そっちも大変そうである。


「き、気持ちいいかな……マヒルくん……?」


 椅子から少し腰を浮かせたコマエが、タオルをごしごし動かしながら訪ねてきた。


「ええ……はい。」


 本音を言えばそれどころではないのだが、それでも社交辞令と建前を重んじるのが雛由マヒルだ。


「う……うん、よかった」


 さっきからやけに一生懸命な雰囲気だが、これにも原因がある。

 中途半端な身長差である。

 コマエは背が低く、マヒルの肩を洗おうとすると、両手を少し上げる形になる。

 ところがそうなると、只でさえ落ちやすいタオルがピンチなので、どうしてもそれができないのだ。

 だからと言って立って洗うと、今度は高くなりすぎて上手く洗えない。


 結果、辿り着いたスタイルが地味な中腰なのである。

 曲げた状態の膝がぷるぷると震えている。


「コマちゃんその姿勢なんかえろい……!こう……お尻の角度とか……!」


「あ……アユちゃん!そんなこと言わないでよぉ……」


 加えて、前のノーガードアユムが時々振り返ってはこういった精神的揺さぶりをかけてくる。

 コマエのヒットポイントは完全にレッドゾーンである。


 と、そんなときに恐れていた事態が起こってしまった。


「ひやっ!?」


 細い悲鳴。


「え?」


 マヒルが振り返ろうとしたが、その時後ろからコマエにぎゅうっと後頭部にしがみつかれた。


「み、見ちゃだめ!!」


 ほとんど泣いているような声でそう言われた。


「うえっ!?えっ!?」

「……ん?コマちゃんどうか……あ、お……おう……」


 状況を理解できていないマヒルの前で、アユムが振り返った。

 そして、わざとか素でかやけに色っぽい反応を示す。


「コマちゃん……結構ダイタン……」


「あ、アユちゃんのばかあ!!」


「ええええ!?」


 それでだいたい理解したマヒル。

 動きそうになった頭を更にコマエが強く押さえる。

 お陰で、その肌の感触がやけに鮮明な理由が分かった。


「……まさか」

「落ちてる……。」


 タオルが、である。


「もういやあ……!」

「お、落ち着いてください!落ち着いて、まずは深呼吸!」


 裸のまま半泣きで抱きつくコマエと、過呼吸寸前のマヒル。


「はあ……落ち着くのは二人ともおんなじでしょ?もう、仕方ないなぁ……」


 やれやれとアユムが立ち上がった。

 無論、全裸で。


「ほら、コマちゃん平気平気」

「ちょっと!アユムさんが平気じゃないですよ!ていうか近い近い近い、わざとですか!?わざとですよね!!」


 結局、泣き出したらコマエをアユムがなだめ、マヒルは風呂場の隅っこに撤退した。


「ああ……」


 声を張りすぎて喉が痛い。

 そのまま吐血しそうだ。


 だがその頃には、ありがたいことにアユムの興味はコマエに移っていた。

 ボディーソープを指の間に塗し、お互いに、というよりアユムがコマエに一方的にじゃれついているのが聞こえる。


「うん、よぉしよし、こわかったこわかった。じゃあ今度はおねーちゃんと洗いっこしましょうねー」

「え……でも」

「だいじょうぶ、きちんと洗っちゃうから!」

「い、いいよ、背中だけで……」

「え~……だってコマちゃん背中ちっちゃいし洗い足りないっていうか……」

「た、足りないの意味が分かんないよぅ……」

「いいからっ、ほら!」

「うわあ、ぬるぬるしてあぶないってば~!」


 口では断りつつ言うことはきちんと聞くコマエに、アユムは期限よさげだ。

 とりあえず一難去ったマヒルは安堵のため息をつく。


「でも、コマちゃんいいなあ……お肌すべすべもちもちで赤ちゃんみたいで。」

「や、やめてよアユちゃん……くすぐったいよ」

「だってさ、コマちゃんがこんなに可愛いからいけない!」

「い、意味分からないよー!」


 お陰でしばらく時間が稼げそうだ。

 コマエには悪いがこの隙を利用させてもらおう。


 マヒルは音をたてないようにその場を離れると、抜き足差し足で風呂場を後にした。







 一時間後。


「はあ……」


 マヒルは、自室の四号室で溜め息をついた。

 かなり疲れた。


 あのあとアユムには捕まることなく浴場を出られたが、脱衣所でもまた問題が起こった。

 管理人、白葉マサヨリと遭遇したのだ。


 騒ぎを聞き付け様子を見にきたようで、「随分騒いでたな」と言われたのだが、そこで


「はー!いいお湯だった!」

「うう……もう疲れたよ……」


 例にもよってノーガードのアユムと、バスタオルを巻いたコマエが、ほくほくと湯煙を纏いながら出てきたのである。


「マヒル、逃げるなんて男らしくないよ!まあ、それでも好きなんだけ……あ。」

「ごめんねマヒルく……あ。」


 二人して、目の前にいた白葉と目があった。

 そして


「「きゃーーー!!」」


「はぁぁーーー!?」


 お互いに絶叫した。



 バスタオルを巻いたコマエはまだしも、完全に真っ裸だったアユムは偉く荒れた。


「うわー!!もう最悪最悪!!見られた!見られたー!!もうお嫁にいけない!ああーー!」


 自分の前ではあれほど言っても動じなかったのに変な人だ、とマヒルは思うのだが口にはしない。


「ふざけんな!!お前らこそ何でマヒルと一緒に出てくるんだよ、おかしいだろ!?」


 さっと目を逸らしながら白葉は怒鳴る。


「と、とにかく、まずは白葉さん出ましょう?アユムさんも服を着て……」


 狙い済ましたかのように間に挟まれたマヒルが気をすり減らしたのは言うまでもない。





 結局はあのあと、きっちりと説教を食らった。

 ここはあくまでも『寮』であるのだから、当たり前と言えば当たり前である。


 マヒルからして見れば完全に降って湧いた天災でしかないが。


「クソガキどもめ……これが学校にバレてみろ、下手すりゃ三人揃って停学モンだぞ!」


 ダメ人間呼ばわりされていてもきっちり大人であり、責任者である白葉は目をひんむいて怒った。


 ということで、白葉管理人からの厳重注意により各自自室にて明日まで謹慎になった。


 まだ少し水気の残っている髪の毛を手で鋤きながらマヒルはベッドに腰かけた。


「……。」


 叱られてしまったが、まあこれはこれでいいだろう。

 やっと静かになったのだから。


 となると、この時間を有効利用しなくてはならない。


 まだ寝るには早く、マヒルは管理人室から貰ってきた資料に目を通すことにした。

 実は、この学園のことについてはよく知らないマヒルである。

 我ながらよくもこんなやつが裏口入学に成功したもんである。

 だが、実際に学園生活が始まればそうも言っていられない。


 マヒルはパラリと冊子を捲る。


「ええと……ううん」


 まず、講座や時間割り、学年ごとのカリキュラムを見て分かったことがある。


 魔法学園といっても、講座や授業が全て魔法というわけではなく、きちんと国数理社各々の講座も必修科目に含まれていた。


 だがもちろん、必要単位の六割以上は『魔法学』だ。

 ざっと見るだけでも『古典魔法』『現代魔法』『魔動機工学』などと見慣れない科目が並んでいる。


 続きを読み続けるうちに、この学園の特色も分かった。


 時間割りが学年やクラスによって予め指定されているのではなく、その日その日によって開かれる講座を確認した上で生徒各自が時間割りを決めるという仕組みになっていた。

 普通の高校とは全く別物といった認識を持ったほうが良さそうだ。


 ちなみに四年制になっていて、学年ごとに必要な単位は違うが、必要単位を全て取り次第、次学年期の単位の先取りが可能らしい。


 アユムが「必要な単位は全部とってある」と言った意味がやっとわかった。


 卒業するにはきちんと四年生のみ受けられる卒業試験を受ける必要があるらしいが、この仕組みを使えば一足遅れたマヒルでも気合いでどうにかできそうだ。


「あと、問題なのは……」


『ランキング制度』


 これだ。


 学業成績とは別に設けられたこのシステムだ。


 実戦においての実力やセンスが結果に直結する、学業成績とほぼ同等かそれ以上に注目される審査基準だ。


 普段の模擬戦闘訓練や、その他行事の際のイベント等で決められるらしい。


 このランキングは、単純な勝敗ではなく戦闘中の行動が細かくチェックされた上で判定が下されるらしく、八百長程度では変動は起きないらしい。

 逆に、負けてもそれ相応の実力が認められれば上位へ上がることは可能だ。

 要は「勝敗ではなく、全力を尽くして戦え」ということらしい。


「15位以内……か。」


 ただでさえレベルの高いと言われるこの学園の合計860人を相手取って、その数字を出さなければいけない。

 正直不安だ。


 油断していた部分の大きいジンヤならはったり程度であしらえたが、それで15位となると不可能だろう。


「まずは馴れですかね……」


 資料をパタリと置き、マヒルはベッドに頭を落とした。


 高くも低くもない天井で、付け替えたばかりの蛍光灯が明るく光っている。

 それもあってか、窓の外はガラスを黒く塗ってしまったかのように真っ暗に見えた。


 覗きこむと、厭にくっきりと反転した写し鏡の部屋から、同じく不安そうな自分の顔が見つめ返してくる。


「上手くいくのかな……」


 薄く黒みがかった反対の部屋から、そんな呟きが聞こえてきた。


「……」


 マヒルは暫く黙ると、自分の両方の頬をペシリと叩いた。


「何言ってるんですか、全く……」


 窓枠に手を伸ばすと、括られていたカーテンをほどいてシャっと閉めた。


「どうにか上手くいかせるんですよ、僕が……!」


 自分を叱りつけた。


 泣き言も言い訳も、弱気な態度も、全て不要だ。

 必要なのはこの難関を無理矢理にでもこじ開ける、有無を言わせぬ根性だ。


 今までもそうしてきたように、今回もそうする。


「なんとしてでも、卒業して見せる!」


 気合いを入れ直し、再びベッドに身を投げた。

 気が付けば時刻は午後十時。

 明日のためにも眠らなければならない。


 マヒルはゆっくりと目を閉じた。


 体力を回復して、明日もオーバーワーク。

 そう腹を括りながら。

















「マヒル……」

「……ん……うん?」


 霞んだ意識の中で、誰かに呼ばれた気がした。

 いったい誰だろう。

 そうは思ったが、今は寝ることのほうが重要だ。

 無視しようとまた眠りに戻ろうとしたが、またしても声。


「ねえ……マヒル?」


 こんな時間にいったい誰だ。

 すぐそばからするその声に、マヒルは眉を動かした。


 そもそもここはマヒルの部屋であり、誰かが入ってくるなどとは想像しにくい。


 だとすると


「え?」


 やっと目を開ける気になった。


 しっかりと目を覚ますと、そこには顔があった。


「……あ……その、起きた?」

「……ええ、まあ。」


 電気を消した部屋のなかで、ベッドに腰かけたアユムがマヒルの顔を見下ろしていた。


 といっても酷く暗いので、どんな表情をしているのかまでは分からない。

 ただ分かることは、昼間よりも少ししおらしい声だったということだ。


「いきなりごめんね……シラハにはああ言われたけど、やっぱり、今日のうちに言いたいことがあって……。疲れてるのは知ってるけど……少しだけ聞いてほしいな」

「……いえ、平気です」


 マヒルは体を起こすと、電気をつけようとリモコンに手を伸ばした。


「……あ」


 その手にアユムの手が触れた。


「……電気……つけなくていいよ。……すぐ、いくからさ……」


 マヒルが手を下ろすと、表情の見えないアユムもゆっくりと手を下ろした。


 30秒ほどの静寂が、暗い部屋の中に訪れた。


 都会には無かった無音の中で、お互いの呼吸だけが聞こえる。

 いきなり起こされたというのに、何故か気分は悪くなかった。

 むしろ、心地よささえ感じていた気がする。


「ねえ、マヒル」


 その時、やっとアユムが口を開いた。


「あのビルでのこと……覚えてるかな?」


 今までのアユムからは想像もできない、おずおずとした口調だった。


「……私は、あのあとすぐに気を失っちゃったけど」


 マヒルは何も言えないまま、まばたきだけを繰り返す。

 確かに色々なことがあったが、そのうちの何を、アユムが指しているのかが分からない。


 アユムはその沈黙を『忘れた』と捉えたのか、一つ息をついた。

 少し、切なそうな息だった。


「じゃあさ……」


 ひたり、と

 並んだ肩にアユムの重みが乗った。


「……」


 マヒルがそちらを向いた、その一瞬だった。


 唇に温かい物を感じた。


 ほんの一瞬。


 その一瞬、マヒルにはアユムの赤く染まった頬が見えたような気がした。


 あの時とはまるで違う、ほんの一瞬の口づけ。


 肩から、重みと体温が離れた。

 アユムは、恥じらうような、不安そうな、そんなものが混じりあった声で言う。


「……これで、思い出してくれたら嬉しいな……」


 マヒルは驚きながらも、すぐにその記憶を甦らせた。


『雛由マヒルくん!マヒル!私、キミのこと好き、大好き!世界で一番キミのこと愛してる自信がある!だから……』


 あの必死な声が、ほんの一瞬前に聞いたことのように再生される。


 マヒルはやっと言葉を発する。


「あのことなら……気にしてませんよ?」

「え?」


 見えているかは分からないが、いつも通りの笑みを意識した。


「あんな大変な状態でしたから、きっと混乱してたんですよ。

 だから、別に気にしなくても……」


「違う!」


 いきなり声を大きくしたアユムに、マヒルは目を見開いた。

 アユムに顔を向けると、目が馴れてきたのかやっとその表情が伺えた。


 熱病でも患っているのかと思われるほど真っ赤で、涙を溜め込んだ目は充血していた。


「ごめん……でも、違う……そんなんじゃないよ……」


 その表情を隠すように顔を背けると、アユムは続ける。


「あれは本当のことで、今も気持ちは変わらないし……寧ろ、こうやって一緒いると、やっぱりって思うんだ……」

「……え」


 アユムが膝の上で握っていた手が、細かく震えていた。


「私、マヒルのこと好きなんだよ。どうしようもないくらい。

 優しくて、気配り上手で、何でも器用にこなせて、嘘みたいに運が悪いのに全然めげないし、ちょっと抜けてるところがあっても、それでもとにかく真面目で……とにかく、マヒルの全部が好き。」


 一息で言い切ると、アユムは呼吸を落ち着けるように胸を押さえた。

 マヒルはその様子に目を丸くすることしかできない。


「……で、でも」

「言いたいことはよくわかるよ。いくらなんでもいきなりすぎてさ……でも……」


 両手で顔を覆うと、何処か辛そうに溢した。


「なんか……今、言わなきゃ駄目だって気がする……このまま曖昧に終わっちゃうのもどうかと思うしさ……」


 言い終えると、アユムは大きく息を吐いた。

 そして、もう一度座り直す。

 その目がしっかりとマヒルを見つめた。


「ねえ、こんな言い方した後に言うのは……凄く卑怯なんだってことは分かってる……。でも、どうしても今聞いてほしい」


 マヒルは黙ったまま、それを聞く。


「今すぐに、とは言わないから……卒業したらでも、仕事が見つかってからでも……借金を返してからでもいいから……私と」


 アユムはもう一度息を吸い直すと、今度こそはっきりと言った。


「私と一緒になって、マヒル」




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