第9話 店長の考察対象
新しいカップル割を始めてから、一週間が過ぎた。
カランと札を裏返し、片付けを終えた私は、迷わずカウンターの丸椅子を引いて腰を下ろした。
あの日――店長から『仕事の相談ではなくて、一緒にコーヒーを飲みませんか』という、心臓が跳ね上がるようなメッセージをもらって以来、閉店後にここで二人で飲む時間は、私たちの自然な日課になっていた。
(……まあ、あのメッセージを見たときは、ついに告白されるんじゃないかって、柄にもなくめちゃくちゃ期待しちゃったんだけど)
いざ翌日になってみれば、店長は少し緊張した面持ちで美味しいコーヒーを淹れてくれただけで、他愛のない世間話をして終わったのだ。肩透かしを食らってちょっと拍子抜けしたけれど……それでも、以前のような業務の延長や反省会ではなく、ただ二人で過ごすためだけにカウンターを挟んでいるこの時間が、たまらなく愛おしかった。
「朝比奈さん、お疲れさま。今日はミルク、少し多めにしますか?」
「いつもの分量で大丈夫です。今日は苦い顔なんてしてませんから」
「ふふ、そうでしたね」
店長は嬉しそうに目を細め、私の前にカフェオレのカップをコトリと置いた。湯気越しに、店長がじっと私を見つめている。その視線が、コーヒーの出来栄えではなく、私の顔そのものに向けられていることに気づいて、トクンと心臓が鳴る。
「……なんですか、店長。人の顔をじろじろ見て」
「あ、いえ! その……今日の黒田さんたちの話をしようと思いまして!」
慌てて視線を逸らし、咳払いをする店長。
(……もう。話題をごまかすのが下手なんだから)
でも、その狼狽え方がなんだか可愛くて、私は頬杖をついて笑った。
「はいはい。常連の黒田さんと白石さんですね。今日の二人が、どうかしたんですか?」
「今日の二人、いつもと全然雰囲気が違ったんですよ!」
店長は待ってましたとばかりに、カウンターの上に砂糖壺とミルクピッチャーを並べた。
「窓際の席で、旅行のパンフレットと日程表のメモを広げていたんです。白石さんが日付を指差すと、黒田さんが真剣に頷いて、白石さんのカップにミルクをそっと寄せてあげていた。そして二人で照れくさそうに笑い合っていたんですよ!」
店長は砂糖壺をピッチャーにぐぐっと密着させた。
「朝比奈さん、これはついに……学生時代から仲のいい友達同士だったあの二人が、ついに二人きりの旅行に行く約束を取り付けたんですよ! 友達の殻を破って、いよいよ交際をスタートさせるための初デートです!」
「…………」
私はため息をついて、カップに口をつけた。
「店長」
「はい!」
「付き合って八年だそうですよ」
「……え?」
砂糖壺を握ったまま、店長がフリーズした。
「は、八年……!?」
「はい。付き合って八年。今日話していたのは、新婚旅行の計画です」
「し、新婚旅行……!? けっ、結婚!?」
店長は素っ頓狂な声を上げた。
「え、ええっ!? だって、僕がこの店を継ぐ前から来てくれていたのに……二人とも、付き合ってるなんて一言も言ったことなかったじゃないですか!」
「わざわざお店で『私たち付き合ってます』なんて宣言するわけないでしょう。二人は大学時代からずっと一緒で、お互いに落ち着きすぎてて周りにベタベタ見せびらかさないタイプだっただけです。……でも、お会計のときに白石さんが教えてくれたんですよ。『付き合って八年で、ついに結婚することになりました。初めて二人で来たのもここの席だったので、報告したくて』って」
「は、八年……!」
店長は愕然として小道具を見つめた。
「大ハズレです、名探偵。二人は今日急に仲良くなったんじゃありません。あのパンフレットも、表紙に小さく『ハネムーン特集』って書いてありましたよ。前にも大きな買い物袋を一つにしてたり、一人で来た日に相手の分を持ち帰ったりしてたじゃないですか。ずっと前から、二人の間には生活があったんです」
「うう……僕が勝手に『気心の知れた友達同士で、まだ付き合ってはいないんだろう』って思い込んでいただけでしたか……」
「関係性の名前なんて、外から見てるだけじゃわかりませんよ」
私がからかうと、店長は深々と頭を下げた。
「返す言葉もございません……」
二人で顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。落ち込む店長がおかしくて笑っていたけれど、ふと、レジでのやり取りが鮮明に蘇ってきた。
「……でもね、店長。白石さん、お会計のときにこんなことも言ってたんですよ」
「え? なんて言ってたんですか?」
「『私から言ってみて、本当によかったです』って」
「白石さんから……逆プロポーズ、だったんですか?」
「はい。『ずっと向こうから言ってくれないかなって待ってたんですけど、待ってるだけじゃ進まないなって思って。私から言ったら、彼、泣いて喜んでくれたんですよ』って。すごく幸せそうな顔でした」
「そうでしたか……。素敵ですね。お互いを大切に想い合っているのが伝わってきます」
「ふふ、ですね」
相槌を打ちながら、私は自分のカップに添えた指先にギュッと力を込めた。白石さんの晴れやかな笑顔が、胸の奥で何度もリフレインする。
(……待ってるだけなら、何年だって待ててしまう)
――高校三年生の秋の雨の日。
ずっと片想いしていた相手に自分から告白して、あっさりと振られた。あのときの胸の痛みと、冷たい雨に打たれながら立ち尽くした惨めさは、今でも鮮明に覚えている。
自分から好きだと伝えるのが、ずっと怖かった。
それに何より――もし店長に想いを伝えて振られてしまったら。雨の日に救ってくれたこの大好きな喫茶店にも、もういられなくなってしまう。居心地のいいカウンターも、優しい店長の笑顔も、全部失ってしまうんじゃないかという恐怖があった。
だから私は、「いつか店長から気づいて言ってくれないかな」と期待して、安全な場所からずっと待ち続けていたのだ。
けれど。
八年。私と店長は、まだ一年半だ。けれど、このまま店長の妄想に付き合ってツッコミを入れ続けていたら……何年も『頼れるバイト仲間』のまま、あっという間に時間が過ぎてしまうんじゃないだろうか。
(待ってるだけじゃ、進まない……か)
白石さんの晴れやかな笑顔が、胸の奥を強くノックする。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられると同時に、小さな覚悟が芽生えていた。
「あ、そうだ朝比奈さん。新しいカップル割の集計、出ましたよ」
店長がレジ横から帳簿を取り出した。
「学生さんの来店数は少し減りましたけど、客単価が上がって……赤字が完全にストップしました」
「……本当ですか!?」
「はい。今月は、お店の予備資金を減らさずに済みそうです。朝比奈さんのおかげです」
「私のおかげじゃありませんよ。店長のコーヒーが、値上げしても飲みたいって思われてる証拠です」
「朝比奈さんも、そう思ってくれますか?」
「……第何号のファンだと思ってるんですか。今さら聞かないでください」
私が唇を尖らせると、店長はふわりと嬉しそうに目を細めた。
「ちょっとお手洗いに行ってきますね。カップ、片付けないでくださいよ」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
◇
パタン、とトイレのドアが閉まる音がした。静まり返った店内に、僕――二葉湊は一人、取り残された。
カウンターの上に置かれた、砂糖壺とミルクピッチャー。僕はそれに手を伸ばしかけ――そのまま視線を、カウンター越しに並んだ二つのコーヒーカップへと落とした。
ブラックと、ミルク入りのカフェオレ。
(……他人のことばかり、考察してきた)
ふと、自分の胸に手を当てる。
――閉店後、この場所に残って、もっと話していたいと思ったこと。
――名前で「湊さん」と呼ばれたとき、心臓が跳ね上がって、顔がカッと熱くなったこと。
――家に帰っても、あの子が編んでくれたフォレストグリーンのコースターを、何度も何度も愛おしそうに撫でていたこと。
もしも。
もしも、これが他所の喫茶店で起きている出来事なら。他人の男女がそんなことをしていたら、僕は間違いなく、満面の笑みでこう断言したはずだ。
『――いや、これは恋ですよ!』と。
「……っ!」
雷に打たれたような衝撃が、全身を駆け抜けた。
(僕が……?)
観客席にいるつもりだった。僕はただ、カウンターの中から誰かの恋を見守って、祝福するだけの人間だと思い込んでいた。自分自身が、誰かに恋をするだなんて。
あの子の笑顔に、あの子の怒った顔に、あの子の差し出す手に、こんなにも胸を焦がしていたなんて――。
「……お待たせしました。店長、どうしたんですか?」
トイレから戻ってきた朝比奈さんが、不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。目が合った瞬間、ドクンッ!と心臓が跳ね上がり、僕は思わず視線を泳がせてしまった。
「あ、いえ……なんでも……じゃなくて……」
「……? 顔、赤いですよ? 熱でもあります?」
「な、なんでもありません! ちょっと、まだうまく言葉にできなくて……」
朝比奈さんは目を丸くし、それからふっと柔らかく微笑んだ。
「……じゃあ、待ちます」
「え?」
「店長が前に言ってくれたじゃないですか。『焦らせずに、言葉が出てくるのを待ってあげられる関係が素敵だ』って」
あの子は自分のカップを両手で持ち、静かに僕を見つめた。
「だから、待ちます。店長の言葉になるまで」
「…………っ」
胸が、熱いもので満たされていく。もう、言い換えられない。これは仕事仲間への感謝でも、妹のような親愛でもない。
僕は――この女の子が、好きなんだ。
◇
店を出て、鍵をかける。秋の夜風が、二人の間を通り抜けていく。
「……店長。駅まで、一緒に帰りませんか」
朝比奈さんが、少し俯きながら言った。
「はい。帰りましょう」
二人で並んで、駅へと続く夜道を歩き出す。
やがて、駅の手前にある僕の自宅マンションのエントランスが見えてきた。いつもなら、ここで「お疲れさまでした」と別れる場所だ。けれど僕は歩みを止めず、そのまま彼女の隣を歩き続けた。
朝比奈さんは驚いたように目を見張り、僕の顔を見上げた。
「……店長。店長のマンション、ここですよね? 通り過ぎてますよ」
「少し、遠回りします」
「危ないから駅まで送ってくれる、とかですか?」
「いいえ」
僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。もう、嘘の言い訳で逃げたりしない。
「もう少し、朝比奈さんと一緒に歩きたいからです」
「……っ!」
朝比奈さんの顔が一気に耳まで赤くなった。
「……それなら、どうぞ」
小さな声で呟き、歩くペースをほんの少し緩める彼女。二人の肩が、触れ合いそうな距離で並んで揺れる。
駅の改札の明かりが見えてきた街角で、僕は立ち止まった。
「朝比奈さん」
「……はい」
「明日……閉店後に、聞いてほしいことがあります」
喉がカラカラに渇いていたけれど、逃げずに言葉を紡いだ。すると、朝比奈さんは目を見張り、それから小さく息を吸い込んだ。
「……奇遇ですね。私も、あります」
「えっ?」
「先に、私から言ってもいいですか?」
「……はい。もちろん」
お互いに内容は言わない。けれど、二人の瞳には、これまで交わしてきたどんな冗談よりも強い決意が宿っていた。
「仕事の相談とか、割引の会議じゃないですからね」
「わかっています。僕もです」
ふっと笑い合い、そしてまた少し緊張が戻る。
改札の手前。朝比奈さんはくるりと振り返り、悪戯っぽく、けれどどこか愛おしそうに目を細めた。
「――湊さん。また、ね」
「……っ!」
練習なんかじゃない、真っ直ぐな響き。僕は胸を押さえそうになるのをこらえ、しっかりと彼女を見つめ返した。
「……ええ。また、明日」
朝比奈さんは満足そうに微笑み、ひらひらと手を振って改札の中へと消えていった。
改札から歩いてすぐの自宅マンションのエントランス前に戻ってきても、僕の胸の鼓動は激しく高鳴ったままだった。
(僕は、朝比奈さんが好きだ)
心の中で、はっきりとその言葉を唱える。あの子が明日、何を伝えようとしてくれているのか。僕が勝手に考察して決めつける必要はない。
(あの子の気持ちは、あの子の言葉で聞く)
澄んだ秋の夜空を見上げながら、僕は強く誓った。
(そのあと、明日あの店で――僕の全部の想いを、あの子に伝えよう)




