第10話 カップル割、使えます
サーッ、と静かな夜の街を、細い秋雨が濡らしていた。
カラン、とドアベルを鳴らしながら、私は入口の木製プレートを裏返す。『OPEN』から『CLOSED』へ。いつもと同じ、閉店の合図。
けれど、今夜の私の胸の鼓動は、いつもとは比べものにならないほど速く、熱く脈打っていた。カウンターの奥では、店長――湊さんが、洗い上がった最後のカップを布巾で拭いている。
私はエプロンの背中の紐を解いて外し、カウンター裏のフックへと掛けた。深呼吸をひとつ。そして、カウンターの前へと歩み出る。
「店長」
「はい」
湊さんは布巾を置き、真っ直ぐに私を見た。
「昨日のお話……今、いいですか?」
「はい。待っていました」
「じゃあ……」
私は深く息を吸い込み、少しだけ悪戯っぽく微笑んでみせた。
「今夜は私、お客さんになってもいいですか?」
「……もちろん」
私はカウンター席を通り過ぎ、フロアの奥――あの窓際の特等席へと向かった。高校生の二人組が座り、四十年前のご夫婦が座り、いつだって誰かの恋を見守ってきた、あの窓際の席。
その丸椅子を引いて、私は腰を下ろした。
向かいの椅子は、ぽっかりと空いている。カウンターの中から、湊さんが歩み出てきた。私はメニューを開き、真っ直ぐに彼を見上げて注文を告げた。
「ホットコーヒーを、二つ。片方は、いつものミルク多めで」
「かしこまりました」
「それと……」
膝の上で握りしめた指先に、ぎゅっと力を込める。
「――カップル割、使えますか?」
卓上メニューに貼られた、新しい張り紙。
『二名様以上のご来店で、最初のドリンク一杯ずつ半額』
湊さんは驚いたように目を瞬かせ、それから私の正面の空席に目を落とした。
「……もう一名様は?」
「湊さんです」
逃げずに、名前で呼ぶ。
「お仕事が終わったら、ここに座ってください」
「……」
湊さんは自分の胸元のエプロンを見下ろし、それから柔らかく目を細めた。
「もう、終わりました」
厨房へ戻った湊さんは、二つのカップに丁寧にコーヒーを注ぎ、自分自身のエプロンを外した。カウンターの上には、あの砂糖壺とミルクピッチャーが置かれている。
けれど今夜、湊さんはそれを小道具として動かそうとはしなかった。二つの器を並べたまま、カウンターの外へと歩み出てくる。
コトリ、と窓際のテーブルに二つのカップが並んだ。
そして湊さんは、私の真向かいの椅子を引き、静かに腰を下ろした。テーブルを挟んで、二人きり。カウンターの内と外ではなく、同じ目線の高さで向き合う。
私は胸の高鳴りを誤魔化すように、ふふっと小さく笑ってみせた。
「――今日のお客さん、考察してください」
「え?」
「どうしてそのお客さんは、一人で来て、二人分のコーヒーを頼んだんでしょう?」
いつもの台詞。けれど、私の声は微かに震えていた。テーブルの上で組んだ指先が、冷たく強張っているのを、湊さんは見逃さなかった。
湊さんは優しく微笑み、静かに口を開いた。
「……手を、出してくれた夜がありましたね」
「……っ」
「洗い物で冷えた手を、カウンター越しに差し出してくれた。僕はあの日、その手に温かいおしぼりを乗せてしまいました」
「……乗せましたね。ほかほかのやつ」
「『店長と同じのを』って、苦いブラックを頼んでくれた夜もありました。相手と同じものを飲みたいっていうのは、恋の始まりだって……僕自身が他のお客さんに言っていたのに」
「……気づいてませんでしたよね、全然」
「雨の日に、本当は折りたたみ傘を持っていたのに、無いと言いましたね……」
「……相合傘のチャンスだったので」
お互いに少しだけ苦笑いが漏れる。けれど、湊さんの声は止まらない。
「名前を呼ぶ練習だって言って、『湊さん』と呼んでくれたこともありました。誰か別の人の練習なんかじゃなくて、僕自身に向けた言葉だった」
「……そうです」
「園部君を応援しようとした僕に怒って、『一緒に飲みたいから誘った』と言ってくれたこと。僕のためだけに時間をかけて、緑のコースターを編んでくれたこと」
「……はい」
「お店の存続で悩んでいたとき、『私もここにいていいですか』って僕の隣を選んでくれたこと。僕が一人で店番をした夜には、『私も一緒に飲みたいです』ってメッセージを返してくれたこと。そして昨日の帰り道……『湊さん、またね』って、笑ってくれた」
湊さんは瞳を潤ませながら、真っ直ぐに私を見つめた。
「……全部、僕に向けてくれていたんですね」
「……最初から、そうです」
私の瞳からも、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ずっと……ずっと最初から、湊さんに向けてましたよ。節穴探偵さん」
「……はい。大節穴でした」
湊さんが何かを言おうとして、口を開きかけた。けれど私は、すっと右手を立ててそれを止めた。
「湊さん」
「はい」
「一番大事なところは……私に、言わせてください」
深呼吸をする。ここで茶化したり、逃げ道を作ったりしたら駄目だ。私は膝の上で固く握りしめていた両手を解き、テーブルの上に置いた。逃げずに、真っ直ぐ、彼の瞳を見据える。
「――湊さんが、好きです」
雨音しか聞こえない店内に、私の声が凛と響いた。
「私と、付き合ってください」
「…………」
言えた。世界で一番大好きな人に、私の本当の気持ちを、全部。
静寂が二人を包み込む。湊さんは息を呑み、そして――かつて彼が言ってくれた通り、焦らせることなく、言葉の重みをしっかりと受け止めてくれた。
そして、ふわりと、世界で一番優しい笑顔を浮かべた。
「――僕も、朝比奈さんが好きです」
「……っ」
「あなたと、恋人として付き合いたいです」
「…………っ、はい……!」
視界が一気に涙で歪んだ。嬉しくて、安心しくて、胸の奥が張り裂けそうになる。
「……あとで、別の意味でしたとか、なしですからね……?」
「ありませんよ。誰かの考察なんかじゃない、僕自身の恋の話です」
湊さんは困ったように、けれど幸せそうに笑った。私がバッグからハンカチを取り出そうとすると、湊さんが慌てて立ち上がりかけた。
「す、座っててください!」
「えっ?」
「今……目の前にいてほしいんです」
「……はい」
湊さんはすぐに座り直し、涙を拭う私を、温かい目で見つめ続けてくれた。
雨の当たる窓を見つめながら、私は鼻をすすって呟いた。
「……最初に来た日も、今日みたいな雨でした」
「……え?」
「高校三年の秋。失恋してずぶ濡れで入ってきた私に、店長、温かいココアを出してくれたでしょう? 『一番安いのでいいです』って言った私に」
湊さんの瞳が大きく見開かれた。点と点が、一本の線に繋がっていく。
「あの子が……本当に、朝比奈さんだったんですね」
「はい」
「……覚えています。顔を真っ赤にして泣いていて……でも、ココアを飲んで帰るときには、ちゃんと顔を上げて笑ってくれた。……ずっと気になっていたんです。あの子が、元気にしてるかなって」
「元気どころか、一年半も隣で働いてましたよ」
「あはは……本当に、気づくのが遅くてごめんなさい」
「いいんです。……私、最初は自分にだけ優しくしてくれたんだと思ってました。でも、そうじゃなくて、誰にでも優しい人だって知って……それでも、やっぱり好きでした」
私は湊さんの目を見つめた。
「お客さんが笑顔で帰っていくのを見届ける湊さんの横顔を、ずっと見てきたから。……だから私、湊さんのことが好きになったんです」
「朝比奈さん……」
湊さんは胸を押さえ、感極まったように息を吐いた。
「僕ね……朝比奈さんがお休みだった日、仕事が終わったあとのほうが、ずっと寂しかったんです」
「……湊さん」
「話したい相手は、朝比奈さんだった。一緒に笑いたいのも、僕の間違いを叱ってくれるのも……店を出てからもまた会いたいと思う相手も、全部、朝比奈さんなんです」
「……はい。私もです」
テーブル越しに、私はそっと右手を差し出した。手のひらを上に向けて。あの日と同じ、五センチの距離。
「……おしぼりは、いりませんからね」
「ふふ。わかっていますよ」
湊さんは迷わず、温かい自分の手を重ねてきた。すらりと長い指先が、私の指と絡み合う。ぎゅっと握りしめられた手のひらから、湊さんの体温が、鼓動が、ダイレクトに伝わってくる。
「……灯里さん、って呼んでもいいですか?」
不意に落とされた名前に、私の顔が一瞬で林檎のように赤くなった。
「……呼んで、ください」
「灯里さん」
「……はい、湊さん」
呼んで、返事をして。
二人の間にあった見えない境界線が、跡形もなく溶けて消えていく。
立ち上がった湊さんが、私の手を引いた。窓際の席の間で、つないだ手はそのままで、二人の体がぐっと近づく。
「灯里さん。……もう一つだけ、聞いていいですか?」
「……なんですか?」
「キスしても、いいですか?」
「……っ」
心臓が跳ね上がる。でも、私はもう視線を逸らさなかった。
「……はい」
小さく頷き、私から半歩、距離を詰める。湊さんの空いた左手が、私の頬にそっと触れた。
重なる影。
窓の外の雨音に包まれながら、私たちは静かに唇を重ねた。
甘くて、温かくて、少しだけコーヒーの香りがする――初めてのキスだった。
◇
――それから、一ヶ月後。
昼下がりの『喫茶ふたば』は、穏やかな賑わいに包まれていた。窓際の席には、あのお花屋さんのご夫婦が仲良く座り、新しく芽吹いたアイビーの鉢植えを愛でながらコーヒーを飲んでいる。
カウンターでは、納品に来た久瀬さんが帳簿を見て満足そうに頷いていた。
「うん、湊君。今月もきっちり黒字だね。新しいカップル割、大成功じゃない」
「ありがとうございます、久瀬さん! 灯里――あ、朝比奈さんと一緒に考え直したおかげです」
危うく名前で呼びそうになって焦る店長に、私はレジの奥からジト目を送った。レジ前には常連の園部君。
「あ、朝比奈さん。いつものブレンド、豆で二百グラムお願いします」
「はい、毎度ありがとうございます!」
奥のテーブルでは、婚約した黒田さんと白石さんが、楽しそうに結婚式のパンフレットを広げて笑い合っている。誰もが笑顔で、それぞれの時間を楽しんでいる。私たちが守りたかった、大好きなこの店で。
そして――夜八時。
入口の札を『CLOSED』に裏返したあと。私たちはいつものように、窓際の特等席に向かい合って座っていた。
「はい、お待たせしました。いつものミルク多めです」
「ありがとうございます。……今日も、カップル割でお願いしますね」
「はい。二名様ですね」
もう、相手を探して見回す必要はない。湯気を立てるカップを前に、私は頬杖をついて、愛おしい私の恋人を見つめた。
「――店長。今日のお客さん、どう見えますか?」
湊さんは照れくさそうに頬を掻き、それから満面の笑顔で胸を張った。
「僕の、大好きな恋人です!」
「ふふっ」
私は吹き出し、テーブルの端でそっと彼の手を握りしめた。
「大正解です、湊さん」
カウンターの向こうでは、誰にも動かされない砂糖壺とミルクピッチャーが、仲良く寄り添うように並んでいた。




