第8話 バイトのいない日(Side 店長)
カラン、と控えめなドアベルを鳴らしながら、入口のすりガラスの扉に手をかける。木製プレートに触れ、自分の手でくるりと裏返す。『OPEN』から『CLOSED』へ。
午後八時。いつもなら、この作業はアルバイトの朝比奈さんの役目だ。小柄な彼女が少し背伸び気味にプレートを裏返し、丸椅子を手際よく引いてテーブルを拭き始める――それが、僕たち『喫茶ふたば』の一日の終わりの合図だった。
けれど今夜、静まり返った店内に響く足音は、僕――二葉湊のものだけだった。
一人でフロアの椅子を戻し、カウンターの内側へと戻る。
カチャリ、と棚から陶器のマグカップを取り出す。無意識に二つ並べようとして――僕は、伸ばした手をピタリと止めた。
「……あ」
静まり返った店内に、僕の独り言が虚しく吸い込まれていく。壁のシフト表には、黒いペンで『朝比奈:大学ゼミ発表準備』と几帳面な字で書かれていた。そうだった。今日は、朝比奈さんが一日休む日だ。僕は苦笑しながら、手にした二つ目のカップを棚の奥へと戻した。
「今日の……」
口から出かかった言葉を飲み込む。
カウンターの上には、誰もいない。いつもならそこに座って、ジト目を向けたり、呆れたようにため息をついたり、そしてたまに顔を真っ赤にしてカップを抱え込む彼女の姿は、どこにもなかった。
レジはきっちり締まり、誤差はゼロ。洗い場にはカップ一つ残っておらず、ゴミ出しも、戸締まりの確認も、一人営業用のメモにすべてチェックがついている。業務は、何一つ滞りなく終わっていた。なのに――。
(……話しておきたいことが、たくさんあったな)
僕はひとり分の豆を量りながら、誰も座っていない丸椅子を見つめた。思い返せば、今日の営業中もそうだった。夕方、常連の黒田さんが珍しく一人でやってきた。
『マスター、いつものブレンド二つ。持ち帰りでお願いします』
黒田さんはいつも白石さんと座る窓際の特等席には目を向けず、カウンターでスマートフォンを気にしながら待っていた。
『白石の仕事が急に長引いちゃって。職場まで持って行ってやるんです。あいつ猫舌だから、着く頃にすぐ飲めるよう、少しぬるめに淹れてもらえますか?』
紙袋に二つのカップを詰め、代金をきっちり定価で支払って、黒田さんは嬉しそうに出ていった。
『また二人で来ますよ』と言い残して。
(来られないなら、会いに行く。……二人は、そういう関係だったんだな)
そのあとに来た園部君もそうだった。
一人でレポートを書き終えた彼と、『今日はお休みなんですよ』と話していた。
誰とも話さなかったわけじゃない。店長としての仕事も、ちゃんと一人でやりきった。それなのに。
「……朝比奈さんなら、どう言ったかな」
気づけば、黒田さんの話にも、園部君の言葉にも、頭に浮かぶのはいつも彼女の顔だった。
『黒田さんたち、相変わらず仲良しですね』とか『園部君、ちゃんと勉強してて偉いじゃないですか』とか、きっとあの子なら、小気味いい調子で突っ込んでくれたはずなのだ。
僕はカウンターの上の砂糖壺とミルクピッチャーに手を伸ばしかけ――ため息をついて手を引いた。聞く相手のいない脳内劇場なんて、ただの独り相撲だ。ふと思い立ち、僕はカウンターの内側を出た。客席側に回り込み、いつも彼女が座る丸椅子を引いて、腰を下ろす。
「……へえ」
客席側から見るカウンターの中は、思っていたより少し見上げるような視界だった。作業台に立つ僕の顔は、棚の陰になって見えにくい。
(あの子はいつも、ここから僕を見ていたんだな)
『今日は、店長の話をしてください。私が聞きたいので』
あの日、真っ赤な顔をしてそう言ってくれた朝比奈さんの横顔が、鮮明に脳裏をよぎる。手元の温かいコーヒーを見つめる。
(あのときも……今日も。僕のほうこそ、話したい相手は朝比奈さんなんだ)
パラパラと、窓の外で小雨が降り始めた。足拭きマットを敷き直そうと入口へ歩き、しゃがみ込んだ瞬間――不意に、古い記憶の破片が頭をよぎった。
――雨の日。濡れた高校の制服。カウンターの端っこ。両手で大事そうに抱えられた温かいココア。
『……すぐ、帰りますから』
俯いて、消え入りそうな声で呟いていた、あの女の子。
『私、最初にここへ来たとき、一人で半額でした』
いつかの朝比奈さんの言葉が、耳の奥でピタリと重なる。
「……っ!」
心臓がドクンと音を立てた。
(……あの子だったのか? あの雨の日の女の子が……朝比奈さんだったのか……?)
確認したい。けれど、今すぐ確かめる術はない。僕はポケットからスマートフォンを取り出した。朝比奈さんとのメッセージ履歴を開く。
『明日の納品時間です』『承知しました』『牛乳の発注完了しました』――画面に並ぶのは、味気ない業務連絡ばかりだ。メッセージの入力欄に文字を打ち込む。
『明日の仕込みの件で確認したいことが――』
……違う。僕はすぐに文字を消した。仕込みなんて、全部一人で終わらせた。業務上の嘘の用事を作って呼び出すなんて、一番やりたくない。深呼吸をして、僕は自分の気持ちをそのまま画面に打ち込んだ。
『ゼミの準備、お疲れさまでした。明日、閉店後に一緒にコーヒーを飲みませんか。仕事の相談ではなくて』
送信ボタンを見つめる。指先が微かに震えていた。ポチ、と画面をタップする。
(……送っちゃった)
画面を伏せ、すぐにまた表に向け、電源をつけたり消したりしてしまう。
「……はは。園部君のこと、全然笑えないな」
苦笑いが漏れる。仕事を手伝ってほしいんじゃない。ただ――明日、あの子に会いたいのだ。
◇
同じ頃。
机の上に広げた大学の講義ノートの横で、灯里のスマートフォンがブブッと震えた。
「ん……?」
シャーペンを置き、画面を覗き込む。表示された通知は『二葉店長』。
「……仕込みの質問かな?」
やっぱり一人じゃ駄目だったのかな、と苦笑しながらロックを解除した灯里は――
画面に並んだ文字を読んだ瞬間、息を呑んだ。
『明日、閉店後に一緒にコーヒーを飲みませんか。仕事の相談ではなくて』
「…………っ」
心臓が、跳ね上がった。何度も何度も、その文章を読み返す。仕事の相談ではなくて。
店長から。あの、恋愛に関しては宇宙一の節穴で、自分の好意なんてこれっぽっちも気づいてくれない店長から、初めて届いた――『二人で過ごすためだけ』の誘い。
「……っ、ふふ」
抑えきれない笑みが口元からこぼれ、同時に、じわりと視界が滲んだ。指先で目元をぬぐう。泣くつもりなんてないのに、嬉しくてたまらなかった。
「……今、言うんだ。ばか店長……」
ずっと待っていた。お店の都合でも、カップル割の会議でもなく、ただ私に会いたいと言ってくれる言葉を。灯里は急いで返信を打ち始めた。
『ちょうど暇なので、付き合ってあげてもいいですよ』
(……ううん)
すぐにバックスペースキーを連打して消す。もう、強がりはいらない。
『はい。私も、一緒に飲みたいです』
送信ボタンを押す直前、ふと思いついて一言付け足した。
『甘いミルク、残しておいてくださいね』
送信。
◇
ピロン、と心地よい通知音が店内に響いた。カウンターで待機していた僕は、飛びつくようにスマートフォンを開いた。
『はい。私も、一緒に飲みたいです。甘いミルク、残しておいてくださいね』
「……っ!」
視界がパッと明るくなった。ぎゅっと強張っていた肩の力が一気に抜け、目元が自然と緩んでいく。
『もちろんです!』と即座に返信を打ち、僕は足取りも軽く厨房の冷蔵庫へと向かった。
「よし、牛乳は……うん、たっぷり残ってる」
冷蔵庫の扉を閉め、思わず一人でガッツポーズをしてしまった。閉店後の作業はとっくに終わっている。けれど、明日のための準備をする僕の心は、羽が生えたように軽かった。
店を出て、鍵を閉める。
夜道を歩いて自宅のマンションへと戻った僕は、自分の部屋の小さなデスクに向かった。デスクの上には、丁寧に編まれたフォレストグリーンのコースター。朝比奈さんが僕のために編んでくれた、縁が少しだけ不揃いな、世界に一枚だけの宝物だ。
その上に、淹れたての温かいマグカップをそっと置く。
(明日は……今日の話をしよう)
黒田さんの話も、園部君の話も、そして……あの子の笑顔を思い浮かべながら過ごした、今日一日の話を。
夜の街の別の部屋。
机の上にある、まったく同じフォレストグリーンのコースターを見つめながら、灯里もまた、ほつれを直したエプロンを優しく鞄へとしまっていた。二人の距離が、確かに一歩、近づいていた。




