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店長、そのカップル考察やめませんか? ~他人の恋より、私の好意に気づいてください~  作者: 汐見 ゆゑ


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8/10

第8話 バイトのいない日(Side 店長)

 カラン、と控えめなドアベルを鳴らしながら、入口のすりガラスの扉に手をかける。木製プレートに触れ、自分の手でくるりと裏返す。『OPEN』から『CLOSED』へ。

 

 午後八時。いつもなら、この作業はアルバイトの朝比奈さんの役目だ。小柄な彼女が少し背伸び気味にプレートを裏返し、丸椅子を手際よく引いてテーブルを拭き始める――それが、僕たち『喫茶ふたば』の一日の終わりの合図だった。

 

 けれど今夜、静まり返った店内に響く足音は、僕――二葉湊のものだけだった。

 

 一人でフロアの椅子を戻し、カウンターの内側へと戻る。

 

 カチャリ、と棚から陶器のマグカップを取り出す。無意識に二つ並べようとして――僕は、伸ばした手をピタリと止めた。

 

「……あ」


 静まり返った店内に、僕の独り言が虚しく吸い込まれていく。壁のシフト表には、黒いペンで『朝比奈:大学ゼミ発表準備』と几帳面な字で書かれていた。そうだった。今日は、朝比奈さんが一日休む日だ。僕は苦笑しながら、手にした二つ目のカップを棚の奥へと戻した。

 

「今日の……」


 口から出かかった言葉を飲み込む。

 

 カウンターの上には、誰もいない。いつもならそこに座って、ジト目を向けたり、呆れたようにため息をついたり、そしてたまに顔を真っ赤にしてカップを抱え込む彼女の姿は、どこにもなかった。

 

 レジはきっちり締まり、誤差はゼロ。洗い場にはカップ一つ残っておらず、ゴミ出しも、戸締まりの確認も、一人営業用のメモにすべてチェックがついている。業務は、何一つ滞りなく終わっていた。なのに――。

 

(……話しておきたいことが、たくさんあったな)


 僕はひとり分の豆を量りながら、誰も座っていない丸椅子を見つめた。思い返せば、今日の営業中もそうだった。夕方、常連の黒田さんが珍しく一人でやってきた。

 

『マスター、いつものブレンド二つ。持ち帰りでお願いします』


 黒田さんはいつも白石さんと座る窓際の特等席には目を向けず、カウンターでスマートフォンを気にしながら待っていた。

 

『白石の仕事が急に長引いちゃって。職場まで持って行ってやるんです。あいつ猫舌だから、着く頃にすぐ飲めるよう、少しぬるめに淹れてもらえますか?』


 紙袋に二つのカップを詰め、代金をきっちり定価で支払って、黒田さんは嬉しそうに出ていった。

 

『また二人で来ますよ』と言い残して。


(来られないなら、会いに行く。……二人は、そういう関係だったんだな)

 そのあとに来た園部君もそうだった。

 一人でレポートを書き終えた彼と、『今日はお休みなんですよ』と話していた。

 

 誰とも話さなかったわけじゃない。店長としての仕事も、ちゃんと一人でやりきった。それなのに。

 

「……朝比奈さんなら、どう言ったかな」


 気づけば、黒田さんの話にも、園部君の言葉にも、頭に浮かぶのはいつも彼女の顔だった。

『黒田さんたち、相変わらず仲良しですね』とか『園部君、ちゃんと勉強してて偉いじゃないですか』とか、きっとあの子なら、小気味いい調子で突っ込んでくれたはずなのだ。


 僕はカウンターの上の砂糖壺とミルクピッチャーに手を伸ばしかけ――ため息をついて手を引いた。聞く相手のいない脳内劇場なんて、ただの独り相撲だ。ふと思い立ち、僕はカウンターの内側を出た。客席側に回り込み、いつも彼女が座る丸椅子を引いて、腰を下ろす。

 

「……へえ」


 客席側から見るカウンターの中は、思っていたより少し見上げるような視界だった。作業台に立つ僕の顔は、棚の陰になって見えにくい。

(あの子はいつも、ここから僕を見ていたんだな)


『今日は、店長の話をしてください。私が聞きたいので』


 あの日、真っ赤な顔をしてそう言ってくれた朝比奈さんの横顔が、鮮明に脳裏をよぎる。手元の温かいコーヒーを見つめる。

 

(あのときも……今日も。僕のほうこそ、話したい相手は朝比奈さんなんだ)


 パラパラと、窓の外で小雨が降り始めた。足拭きマットを敷き直そうと入口へ歩き、しゃがみ込んだ瞬間――不意に、古い記憶の破片が頭をよぎった。

 

 ――雨の日。濡れた高校の制服。カウンターの端っこ。両手で大事そうに抱えられた温かいココア。

 

『……すぐ、帰りますから』


 俯いて、消え入りそうな声で呟いていた、あの女の子。

 

『私、最初にここへ来たとき、一人で半額でした』


 いつかの朝比奈さんの言葉が、耳の奥でピタリと重なる。

 

「……っ!」


 心臓がドクンと音を立てた。

(……あの子だったのか? あの雨の日の女の子が……朝比奈さんだったのか……?)

 確認したい。けれど、今すぐ確かめる術はない。僕はポケットからスマートフォンを取り出した。朝比奈さんとのメッセージ履歴を開く。

 

『明日の納品時間です』『承知しました』『牛乳の発注完了しました』――画面に並ぶのは、味気ない業務連絡ばかりだ。メッセージの入力欄に文字を打ち込む。

 

『明日の仕込みの件で確認したいことが――』


 ……違う。僕はすぐに文字を消した。仕込みなんて、全部一人で終わらせた。業務上の嘘の用事を作って呼び出すなんて、一番やりたくない。深呼吸をして、僕は自分の気持ちをそのまま画面に打ち込んだ。

 

『ゼミの準備、お疲れさまでした。明日、閉店後に一緒にコーヒーを飲みませんか。仕事の相談ではなくて』


 送信ボタンを見つめる。指先が微かに震えていた。ポチ、と画面をタップする。

(……送っちゃった)

 画面を伏せ、すぐにまた表に向け、電源をつけたり消したりしてしまう。

 

「……はは。園部君のこと、全然笑えないな」


 苦笑いが漏れる。仕事を手伝ってほしいんじゃない。ただ――明日、あの子に会いたいのだ。


◇


 同じ頃。

 

 机の上に広げた大学の講義ノートの横で、灯里のスマートフォンがブブッと震えた。

 

「ん……?」


 シャーペンを置き、画面を覗き込む。表示された通知は『二葉店長』。

 

「……仕込みの質問かな?」


 やっぱり一人じゃ駄目だったのかな、と苦笑しながらロックを解除した灯里は――

 画面に並んだ文字を読んだ瞬間、息を呑んだ。

 

『明日、閉店後に一緒にコーヒーを飲みませんか。仕事の相談ではなくて』

「…………っ」


 心臓が、跳ね上がった。何度も何度も、その文章を読み返す。仕事の相談ではなくて。

 店長から。あの、恋愛に関しては宇宙一の節穴で、自分の好意なんてこれっぽっちも気づいてくれない店長から、初めて届いた――『二人で過ごすためだけ』の誘い。

 

「……っ、ふふ」


 抑えきれない笑みが口元からこぼれ、同時に、じわりと視界が滲んだ。指先で目元をぬぐう。泣くつもりなんてないのに、嬉しくてたまらなかった。

 

「……今、言うんだ。ばか店長……」


 ずっと待っていた。お店の都合でも、カップル割の会議でもなく、ただ私に会いたいと言ってくれる言葉を。灯里は急いで返信を打ち始めた。

 

『ちょうど暇なので、付き合ってあげてもいいですよ』


(……ううん)

 すぐにバックスペースキーを連打して消す。もう、強がりはいらない。

 

『はい。私も、一緒に飲みたいです』


 送信ボタンを押す直前、ふと思いついて一言付け足した。

 

『甘いミルク、残しておいてくださいね』


 送信。


◇


 ピロン、と心地よい通知音が店内に響いた。カウンターで待機していた僕は、飛びつくようにスマートフォンを開いた。

 

『はい。私も、一緒に飲みたいです。甘いミルク、残しておいてくださいね』

「……っ!」


 視界がパッと明るくなった。ぎゅっと強張っていた肩の力が一気に抜け、目元が自然と緩んでいく。

 

『もちろんです!』と即座に返信を打ち、僕は足取りも軽く厨房の冷蔵庫へと向かった。

「よし、牛乳は……うん、たっぷり残ってる」


 冷蔵庫の扉を閉め、思わず一人でガッツポーズをしてしまった。閉店後の作業はとっくに終わっている。けれど、明日のための準備をする僕の心は、羽が生えたように軽かった。


 店を出て、鍵を閉める。

 

 夜道を歩いて自宅のマンションへと戻った僕は、自分の部屋の小さなデスクに向かった。デスクの上には、丁寧に編まれたフォレストグリーンのコースター。朝比奈さんが僕のために編んでくれた、縁が少しだけ不揃いな、世界に一枚だけの宝物だ。

 

 その上に、淹れたての温かいマグカップをそっと置く。

(明日は……今日の話をしよう)

 黒田さんの話も、園部君の話も、そして……あの子の笑顔を思い浮かべながら過ごした、今日一日の話を。


 夜の街の別の部屋。

 

 机の上にある、まったく同じフォレストグリーンのコースターを見つめながら、灯里もまた、ほつれを直したエプロンを優しく鞄へとしまっていた。二人の距離が、確かに一歩、近づいていた。

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