第7話 閉店のお知らせ
閉店後の静まり返った店内に、一枚の白い紙が置かれていた。太い明朝体で印刷された、その見出し。
『閉店のお知らせ』
紙の隅には『フラワーショップ みなせ』という店名と、手描きの小さなガーベラのイラストが添えられている。その横には、今日いただいたばかりの小さなアイビーの鉢植え。
「……寂しくなりますね」
湊店長は手元の紙を見つめながら、ポツリと呟いた。私は窓際のテーブルにアイビーの鉢を置き、葉の向きを整えながら、夕方の出来事を思い出していた。
◇
夕方の仕込み中、カランとドアベルが鳴って入ってきたのは、近所で三十年続く花屋『みなせ』を営む水瀬さんご夫婦だった。
先代の頃からの長い付き合いで、店先で顔を合わせれば笑顔で挨拶を交わす、馴染みの深いご近所さんだ。
だからこそ、ご夫婦からこの『閉店のお知らせ』を手渡された瞬間、私も店長も驚きのあまり息を呑んで固まってしまったのだ。
『みなせさんが、お店を閉めるんですか……!?』
思わず声を上げた私に、ご夫婦は穏やかに微笑んで教えてくれた。昨今の資材や生花の仕入れ値の高騰、ハウスを暖める燃料費や電気代の高騰。そこへ後継者不足や体力の限界も重なり、三十年という節目を機に、店を畳むことを二人で決めたのだという。
『三十年、精一杯やりきったわよ。このアイビー、ふたばさんの日当たりのいい窓際で飾ってもらえたら嬉しいわ』
寂しそうではあったけれど、奥さんの表情はどこかすっきりと晴れやかだった。
『来月からは、日曜日に二人揃って暇になっちゃうのよ』
『何をして過ごすか、これから相談だな』
顔を見合わせて笑い合うご夫婦に、私は胸を詰まらせながら言ったのだ。『うちは日曜日も開いてますから、いつでも来てください』と。
◇
「……水瀬さんたちが、これからゆっくりコーヒーを飲みに来られる場所を守るためにも」
店長は窓際の鉢植えに視線を向け、静かに言葉を紡いだ。
「うちの店は……絶対に、続けなくちゃいけませんね」
「はい。その通りです」
私は紙を丁寧に引き出しにしまった店長を見据え、カウンターの上にバサリと一冊のノートを広げた。
「――だからこそ、他所のお店を心配している場合じゃないんですよ、店長。うちの店のことも、今日、決めましょう」
沈黙が落ちる。電卓と赤ペンを並べ、私は店長を真っ直ぐに見据えた。
私がこうして店の帳簿に口を挟むのには、理由がある。私は大学で経営学を専攻していて、日商簿記二級も持っているのだ。大学での学びを実践で活かしたくて、この店の帳簿付けや収支管理を手伝わせてもらっているのだが……数字を見れば見るほど、店長の危機感のなさに頭を抱える毎日だった。
ただのバイトの分際で、雇い主である店長にここまで強く出るのは越権行為かもしれない。けれど、コーヒーの腕と人の良さだけで、お金の計算から目を逸らし続けるこの人を放っておいたら、この店は確実に沈没してしまう。
「店長。単刀直入に聞きます。……この店、続けたいですか?」
「……続けたいです」
店長は迷わず即答した。その瞳には、嘘偽りのない強い光が宿っていた。
「父と母が遺してくれた店ですし、何より……僕にとって、かけがえのない居場所ですから」
「なら、現実を見てください」
私は収支表の折れ線グラフを指差した。
「この一年間の収支です。毎月毎月、じわじわと赤字が膨らみ続けています。このペースが続けば、お店の運転資金と予備資金は、あと一年で完全に底をつきますよ」
「い、一年……!?」
店長が息を呑んで目を見開いた。
「原因は明白です。ここ数年で珈琲豆の仕入れ値も、牛乳などの乳製品も、電気代やガス代も大幅に高騰しました。さらに、最低賃金の引き上げもあります。……昔はお父様とお母様の二人で切り盛りしていたから、外に支払う人件費はありませんでした。でも今は、私というアルバイトを一人雇って時給を払っています」
「う、うぐっ……」
「お店の支出が昔と比べて段違いに増えているのに、壁の『カップル割』は当時のまま『全品半額』を続けている。学生さんが二人で来て喜んでくれても、売上は実質一人分以下です。仕入れ原価と私の時給を引いたら、赤字を垂れ流す構造になっちゃってるんですよ!」
店長の視線が、壁の張り紙へ、そしてカウンターの隅に置かれたお父様の古い帳面へと泳いだ。
「……でも、あれをやめたら、学生さんたちが来られなくなってしまうかもしれない。何より……父が大切にしていた『二人で来た人が笑顔になる店』っていう想いを、僕が壊してしまうみたいで……」
「店長!」
私は思わず、カウンターに身を乗り出して叫んでいた。
「お父様の店である前に、ここは今、店長のお店でしょう!?」
「……っ」
「お客さんに喜んでほしい気持ちはわかります。でも、そのせいで店がなくなったら元も子もないじゃないですか!」
「それは……そうだけど……」
「私は!」
感情が溢れて、声が震えた。
「私は……半額じゃなくたって、ここに来ます!」
「……え?」
店長がハッと息を呑んで私を見つめた。
「他のお客さんのことまでは保証できません。でも、私の分だけなら言えます。定価だって何だって、私は店長の淹れるコーヒーを飲みに来ます! ……ここのコーヒーが飲めなくなるほうが、何百倍も嫌です!」
「朝比奈……さん……」
「だから……二人で守りましょうよ。この店を」
言い切って、私はカアッと顔が熱くなるのを覚えた。勢い余って、まるで告白みたいなことを口走ってしまった。けれど、店長はもう迷っていなかった。店長はお父様の古い帳面をそっと閉じ、深く息を吐き出した。
「……ありがとう、朝比奈さん。そうだね。僕が逃げてちゃ駄目だ」
店長は引き出しから、先週久瀬さんが作ってきてくれた試算表を取り出した。
「二人で来るきっかけは、残したい。でも、お店を続けられる形に見直そう」
「……はい」
「『二名様以上のご来店で、最初のドリンクを一杯だけ半額。フードや追加注文は通常料金』。……これでいきましょう。これなら、学生さんたちのきっかけも残せるし、赤字も食い止められる」
「賛成です」
私はペンを店長に差し出した。店長は新しい画用紙に向かい、太いマジックを走らせた。
『カップル割 内容変更のお知らせ』
「あ、店長。改定する日付を一番大きく書いてください」
「はい! 来月の一日から……うわっ、文字が大きすぎて枠からはみ出た!」
「もう、加減ってものを知らないんですか!」
顔を見合わせて、思わず笑い合ってしまう。重苦しかった空気が、一気に晴れやかになっていく。書き直した新しい告知を、古い張り紙の隣に並べてセロハンテープで貼る。
「よし。明日から、僕の口からも常連さんたちにちゃんと説明します」
「私も、レジでしっかりお伝えしますね」
並んで張り紙を見上げながら、私は小さく息を吸い込んだ。
「……店長」
「はい?」
「私も……これからも、ここにいていいですか?」
「えっ?」
店長は不思議そうに目を丸くし、それから破顔した。
「当たり前じゃないですか! 朝比奈さんのシフトを減らすなんて選択肢、最初から僕の頭にはありませんよ。朝比奈さんがいてくれないと、この店は回りませんから」
「……っ、そういう経営上の話だけじゃなくて……」
「え?」
「……何でもありません。ありがとうございます」
照れ隠しにそっぽを向きながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「さて、上がりの時間ですね。着替えてきます」
エプロンの背中の紐を解こうと手を伸ばすが――
「……あれ? 解けない」
さっき感情的になったとき、無意識にぎゅっと固結びにしてしまったらしい。
「どうしました?」
「紐が固まっちゃって……指が届かないです」
「あ、手伝いましょうか?」
「……お願いします」
私はカウンターに背を向けた。すっと店長の気配が背後に近づく。ふわりと香る、ビターな珈琲豆の匂い。
(ち、近い……っ!)
店長の指先が、私の背中でエプロンの紐を器用に解いていく。カサリと布が擦れる感触と、布越しに伝わってくる店長の指の温もりに、私の背筋がピーンと跳ね上がった。心臓がトクトクと暴れ出す。
「あ、朝比奈さん。ここ、糸がほつれてますね」
「えっ?」
「右の腰のあたり。布が少し擦り切れてる」
「あ……本当だ。明日、家で縫い直してきます」
解けたエプロンを受け取りながら、私は胸元にぎゅっと抱きしめた。
「……まだ、ずっと使いますから」
店長は私の顔を覗き込み、心からの笑顔を浮かべた。
「はい。これからも、よろしくお願いしますね」
「…………っ」
ただの仕事の会話のはずなのに、なんでこの人は、こんなに破壊力のある笑顔をするんだろう。
「あ、そうだ店長。私、明日はお休みですからね。前にも言いましたけど」
壁のシフト表を指差す。そこには『朝比奈:大学ゼミ発表準備』と書いてある。
「ええ、聞いてますよ。明日は一人営業用の仕込みにしてありますから、心配しないでゼミの準備、頑張ってください」
「本当に一人で大丈夫ですか? 牛乳の発注とか忘れないでくださいよ?」
「大丈夫です! ちゃんとメモしましたから!」
「ふふ、じゃあ……また明後日」
「はい。いってらっしゃい、朝比奈さん」
カラン、とドアベルを鳴らして外に出る。振り返ると、明るい店内の窓際で、店長が今日置いたばかりのアイビーに霧吹きで水をやっていた。その横には、二人で貼った新しい張り紙。
(この店を続ける未来の中に、私もちゃんと入れてもらえた)
私は夜空を見上げた。
(……いつか。バイトじゃなくて、仕事がなくてもずっと隣にいられる話を……店長とできますように)




