第6話 豆と女の人
カラン、とドアベルを鳴らしてフロアに戻った私は、カウンターの前でピタリと足を止めた。
「――湊君。ここの数量、先月と逆になってるよ」
「あ、本当だ! すみません! 久瀬さん、すぐ書き直します!」
カウンターの奥で、店長と並んで納品書を覗き込んでいる大人の女性。珈琲豆の専門卸業者を営んでいる久瀬さんだ。三十代前半の落ち着いた美樹さん――もとい、久瀬さんは、仕立てのいいジャケットを着こなして、いかにも『仕事のできる大人の女性』というオーラを纏っている。
……そして今、サラリと店長のことを「湊君」と呼んだ。
(湊君……)
胸の奥で、小さな黒い火花がパチリと爆ぜた。私のバッグの中には、今日のために持ってきた小さな紙袋が入っている。
「おや、朝比奈さん。お疲れさま」
久瀬さんが私に気づいて、優しく微笑みかけてくれた。
「いつも豆の受け取り、ありがとうね。今日はゆっくり挨拶できてよかった」
「あ、いえ……お疲れさまです、久瀬さん」
「じゃあ湊君、また来週、例の数字の相談ね。値引き前と後の両方、試算出しておくから」
「はい、よろしくお願いします!」
久瀬さんは颯爽とバッグを肩にかけ、軽やかに店を出ていった。ドアベルの余韻が消える。店長はほっと息をつき、カウンター越しに私を見て柔らかく笑った。
「お待たせしました、朝比奈さん。片付け終わりましたか?」
「……別に、待ってません」
私はそっぽを向いて丸椅子を引いた。
「……帰る前に、コーヒー飲むつもりではありましたけど」
先週の約束をちゃんと覚えている自分に腹が立つ。店長は嬉しそうに二つのカップを用意しながら、ドリッパーに湯を注ぎ始めた。
「久瀬さんとは、長いんですか?」
「ええ。僕が父からこの店を引き継いだときからです。あの頃は僕、発注ミスばかりで……久瀬さんには姉のように面倒を見てもらっていたんですよ」
「今は?」
「今も、さっきみたいに間違えます」
「そっちじゃなくて……いえ、そっちも大問題ですけど」
店長は「うっ」と頭を掻き、訂正した納品書をそっと裏返した。
「……店長って、仲のいい男女を見るとすぐ『恋だ』って騒ぐくせに、自分のことになると全然そういう風に見ないんですね」
「え? 僕と久瀬さんですか? いやあ、滅相もないですよ! 久瀬さんは仕事の大恩人ですし、僕にとっては頼れるお姉さんみたいな人ですから」
「…………」
(その枠に、私も入れられてるんだろうな……)
ため息がこぼれそうになる。鈍感にも程がある。
「あ、そういえば朝比奈さん!」
店長はコーヒーを淹れながら、急に声を弾ませた。
「今日の夕方、窓際席にいたお二人……見ました?」
「……人の色恋沙汰には、光の速さで戻りますね」
「だって、すごく気になったんですよ!」
店長はカップを置き、待ってましたとばかりに砂糖壺とミルクピッチャーを並べた。
「六十歳くらいの初老の紳士と、二十代後半の女性です。女性が小さな紙袋をプレゼントして、男性が嬉しそうに両手で受け取っていた。そして女性の大きな買い物袋からは、毛糸玉と編み棒が覗いていたんです!」
「……ええ、見ましたよ」
「さらに男性が袋から取り出したのは、手編みの毛糸の靴下でした。落ち着いたグリーンの、暖かそうな靴下です。……朝比奈さん、これはどう見ても、歳の差を越えた純愛カップルですよ!」
店長はピッチャーを砂糖壺にスッと寄り添わせ、うっとりと目を細めた。
「年の差があるからこそ、言葉で想いを伝えるのは照れくさい。だからこそ、心を込めて編んだ手作りの贈り物で、想いを伝えたんです。手作りの靴下なんて、特別な相手にしか渡せませんからね!」
「…………」
私は冷めた視線を店長に向けた。
「……店長」
「はい!」
「その靴下の横に、もう一足、並べて置いてあったの見えませんでした?」
「えっ?」
「すっごく小さな、手のひらサイズの靴下です。同じグリーンの毛糸で編まれた、赤ちゃん用の」
「あ……赤ちゃん用?」
店長の目が点になる。
「女性が席を移動して、二人でスマホ覗き込んでましたよね。画面に写ってたの、生後数ヶ月くらいの赤ちゃんでしたよ」
「えっ……じゃあ、あの二人は……?」
「お会計のとき、女性が嬉しそうに教えてくれました。『夫のお父さんに、孫とおそろいの靴下を編んだんです』って」
「お、お義父さん……!?」
「はい。『まだ結婚したばかりでお義父さんって呼ぶの緊張するから、プレゼントを口実に誘ったんです』って。これから家族になっていくところだったんですよ」
「……」
店長は砂糖壺とピッチャーを見下ろし、それから小さく肩を落とした。
「……また、全然違う物語を妄想してました……」
「大ハズレです。でも――」
「でも?」
「お義父さん、すごく嬉しそうでしたよ。『自分のために時間をかけて編んでくれたんだな』って、何度も靴下を撫でてました」
「……そうですね」
店長は優しく微笑んだ。
「手作りのものって、その人のために使った『時間』そのものが詰まってますからね。受け取った人は、誰だって絶対に嬉しいですよ」
「……っ」
その言葉に、私の心臓がトクンと跳ねた。誰だって、絶対に嬉しい。
(……今しかない)
私は膝の上でバッグを開け、奥に隠していた小さな紙袋を取り出した。
トン、とカウンターの上に置く。
「……店長。これ」
「え? 僕に?」
目を丸くする店長の前で、私は紙袋から中身を取り出した。深いフォレストグリーンの、手編みのコースター。編み物は得意じゃないから、何日も夜更かしして編み直して……よく見ると、縁の一箇所だけ、編み目が少し不揃いになっている。
「この前、家でもドリップしてコーヒー飲むって言ってたので……」
「朝比奈さんが……編んでくれたんですか!?」
「……余った糸があったから、ついでに――」
言いかけて、さっきの義理の親子の笑顔が脳裏をよぎった。
(……ううん。嘘はつかない)
私は言葉を飲み込み、赤くなる顔を隠さずに、真っ直ぐ店長を見つめた。
「……ついでじゃありません。私からです。……使ってください」
「朝比奈さん……」
店長は息を呑み、まるで壊れ物を扱うように、両手でそっとコースターを受け取った。
「ありがとうございます……! すごく綺麗に編めてますね。厚みもしっかりあって……うん、お店のカップにもぴったり合いそうだ」
そう言って、自分のコーヒーカップの下に敷こうとする店長。
「店長」
「はい?」
「持って帰ってください」
「え?」
「お店の備品を増やしたいなら、ちゃんと経費で発注してください。……それは、店長の家で使うやつです!」
「あ……」
店長はハッとしたように目を瞬かせ、それから破顔した。
「そうですね! ありがとうございます。絶対に持って帰って、家で大事に使います」
店長は不揃いになった縁の編み目を、愛おしそうに親指でそっとなぞった。
「……そこ、見ないでください。ちょっと失敗したんですから」
「いいえ、すごくいいです。朝比奈さんが僕のために作ってくれたんだって、手作りの温もりが伝わってきますから」
「…………っ」
心臓が破裂しそうなくらい跳ねる。店長はコースターを丁寧に元の袋に戻すと、自分のビジネスバッグの奥へ、大事そうにしまい込んだ。お店の引き出しじゃなく、ちゃんと私物にしまってくれたのを見て、私は胸を撫で下ろした。
「……家でコーヒーを淹れるたびに、朝比奈さんのことを思い出しそうですね」
「……っ、靴下の話を思い出すんじゃないんですか」
「朝比奈さんからこれをもらった話を、ですよ」
「…………」
(なんなのもう……そういうところだけ急に天然のタラシ発揮するの、本当にずるい……!)
私は赤くなった顔をカップで隠し、冷めかけたカフェオレを一気に流し込んだ。
「あ、そうだ朝比奈さん」
店長は納品書を帳簿に挟みながら、真剣な顔つきになった。
「さっき久瀬さんと話していたことなんですが……近いうちに、店の収支について相談させてください」
「……カップル割のことですね」
「はい。最近は物価高で色んな値段が上がっていってますから……来週までに、お店をどうやって続けていくか、ちゃんと決めたいんです」
「……わかりました」
私は頷いた。
「明日の仕込みが終わったら、私も一緒に帳簿見ます。数字の計算、手伝いますから」
「えっ、いいんですか? 朝比奈さんには関係のない経営の話なのに……」
「関係なくないです。私、ここのバイトなんですから」
私は店長をキッと見据えた。
「久瀬さん、すごく頼りになりますけど……私だって、そこそこ頼りになりますからね!」
「……ぷっ、あはは!」
「な、何笑ってるんですか!」
「いえ、すみません。……『そこそこ』なんかじゃないですよ」
店長はカウンターに両肘をつき、心からの温かい笑顔を私に向けた。
「朝比奈さんがいてくれるから、僕はこの店を続けたいんです。明日も、一緒に考えてくれますか?」
「……っ」
また、不意打ち。私は唇をぎゅっと結び、視線を逸らしながら小さく頷いた。
「……シフト、入ってますから。一緒に、考えます」
帰り道。街灯の下を歩きながら、私はスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。画面に映るのは、自宅の机の上に置かれた、深緑色のコースター。
今日店長に渡したものと、まったく同じ毛糸で編んだ――私用の、もう一枚のコースターだ。
(おそろいだってこと……まだ内緒だけど)
夜風が火照った頬を心地よく冷ましていく。私はスマートフォンを胸に抱きしめ、ふふっと笑った。
(お店の外の店長の家に、私の居場所が一枚分。……うん。今日は、これだけで大勝利かな)




