第4話 節穴じゃない日
「……ふう」
私は布巾を両手に持ち、フロア中央の四人掛けテーブルを念入りに拭き上げていた。
「朝比奈さん。今日の、スーツ姿のお二人……見ました?」
カウンターの中から、店長がひょっこりと顔を出す。また始まった。私は布巾を動かす手を止めずに応じた。
「見ましたよ。奥の席で、何度も何度もやり直してた二人ですよね」
「そう、あの二人です!」
「私、最初は別れ話の修羅場かと思いましたよ。男性のほう、ものすごい悲壮な顔して頭抱えてましたし」
「ふふっ、僕はね、プロポーズだと思いました」
「はあ? またそんな都合のいいハッピーエンドに……」
「ただし」と、店長は人差し指を立てて眼鏡の奥の目を光らせた。
「――プロポーズの『練習』です」
「…………」
ぴたり。私の手が、テーブルの上で完全に止まった。ゆっくりと顔を上げ、カウンターの中の店長を見つめる。
「……え?」
「え?」
「……なんで、わかったんですか?」
「えっ!? あ、当たってた!?」
「当たってたって何ですか! 自分の推理でしょう!?」
思わず声を張り上げてしまった。まさか。あの『節穴のポンコツ関係性オタク』の店長が、一発で真相を言い当てるなんて!
「だ、だってね、朝比奈さん。証拠がたくさんあったじゃないですか」
店長は嬉しそうに、カウンターの上にいつもの砂糖壺とミルクピッチャーを並べた。だが、今日はいつもと違う。向かい合わせではなく、四人卓を模すように、斜めの位置に置いたのだ。
「まず、座り方です。四人席なのに、二人は向かい合わずに斜めに座っていました。男性の正面は、ずっと空席だったんです」
「そうですね、ちょっと不自然な座り方でしたね」
「そして、男性が取り出した小さな箱。あれ、開けて差し出す向きが、女性のほうじゃなくて、正面の空席に向かっていましたよね」
「はい」
「もし目の前の女性に求婚しているなら、体ごと相手に向けるはずです。女性のほうも、箱を受け取るんじゃなくて、横から覗き込んで『もう少し高く』ってジェスチャーで指示を出していました」
店長は砂糖壺の向きをクイッと変えてみせる。
「それから、女性のスマートフォンです。カウンターからじゃ細かい数字までは見えませんでしたけど、あれ、ストップウォッチの画面でしたよね。男性が話し終えて箱をパチンと閉めるたびに、女性が画面をタップして時間を止めていたんです」
「……よく見てますね」
「そして時間を止めたあと、女性が指を三本立てて、男性が頭を抱えていた。長すぎるから三分以内に収めなさいってダメ出しされていたのか、あるいは三分オーバーだったのか……そこまではわかりませんけどね」
「…………」
「同じ動作を何度も繰り返して、最後は二人で顔を見合わせてホッとしたように笑っていた。……だから、振られていたんじゃなくて、本番のためのリハーサルを手伝ってもらっていたんだと思ったんです」
一息に語り終えた店長は、「……あ、あれ? 違いました?」と急に不安そうに眉を下げた。私は大きく息を吸い込み、それから小さく肩を落とした。
「……合ってます。完璧に合ってますよ」
「本当ですか!?」
「はい。お会計のときに、女性のほうから教えてもらいました。『同僚なんですけど、彼、大事な話になると長話になる癖があって。今週末、彼女にプロポーズするらしくて、聞き役を頼まれたんです。お騒がせしました』って」
「やったあ! 僕の推理、正解だった!」
店長は両手を上げてガッツポーズをした。子どものように無邪気に喜ぶ姿に、こっちまで口元が緩んでしまう。
「……今日だけは、名探偵でしたね」
「今日だけ!?」
「今のところは、です。……でも、よかったですね。本番、うまくいくといいですけど」
「ええ、きっと大丈夫ですよ。あんなに一生懸命練習したんですから」
店長は満足そうに頷き、ふと思い立ったように冷蔵庫を開けた。
「よし、記念にデザートを食べましょう!」
「誰の記念ですか」
「朝比奈さんに褒められた記念です!」
「……っ、調子に乗らないでください」
耳がカッと熱くなるのを隠すように、私はそっぽを向いた。
「売り物のケーキは駄目ですからね」
「わかってますよ。……試作の焼きプリンなら、二つあります」
「……最初からそう言ってください。食べます」
カラメルソースのほろ苦い香りが漂う、小さなカスタードプリン。スプーンですくって口に運ぶと、濃厚な卵の甘みが広がった。
「ん……美味しい」
「よかった。固めのクラシックプリン、うまくできました」
店長も嬉しそうにプリンを口に運んでいる。私はスプーンを見つめながら、ふと昼間の光景を思い返した。
「……やっぱり、本番って練習通りにはいかないものなんですかね」
「どうでしょうね。本番には、相手がいますから。相手の表情や言葉で、頭が真っ白になっちゃうこともあると思いますよ」
「もし……途中で言葉に詰まっちゃったら、どうすればいいんでしょう」
「待てるといいですね」
店長は優しく微笑んだ。
「言う側も勇気がいるけれど、聞く側もちゃんと待ってあげる。焦らせずに、相手の言葉が出てくるのを待ってあげられる関係って、すごく素敵じゃないですか」
「……っ」
胸が、トクンと跳ねた。待ってくれる。この人は、いつだってそうだ。私が言葉に詰まっても、急かさずに待ってくれる。
(……待って、くれるなら)
カチリ、と小さな覚悟が胸の中で音を立てた。私はスプーンをソーサーに置き、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「……店長」
「はい?」
「じゃあ……私も、練習していいですか?」
「えっ? 朝比奈さんもプロポーズするんですか!?」
「違いますっ! なんでそう極端なんですか!」
思わず叫んでから、私はカアッと赤くなった顔を伏せた。
「……呼び方、です」
「呼び方?」
「いつも『店長』って呼んでるじゃないですか。……そうじゃない呼び方の、練習です。一回だけ」
「ああ、なるほど!」
店長はあっさりと納得して、姿勢を正した。
「いいですよ。どうぞ、僕でよければいくらでも練習相手になります」
真っ直ぐに私を見つめてくる、澄んだ瞳。
(うっ……いざとなると、めちゃくちゃ恥ずかしい……!)
心臓が早鐘を打っている。喉がカラカラに渇いて、声が出そうにない。でも、店長はさっき言った通り、急かさずにただ静かに待ってくれている。逃げちゃ駄目だ。私は息を吸い込み、唇を震わせた。
「……み」
「……」
「……湊、さん」
言えた。たった3文字。なのに、全身の血液が沸騰したんじゃないかと思うくらい熱い。店長は目を丸くして、一拍遅れて――
「……はい」
と、柔らかく返事をした。
(へ、返事した……っ!)
当たり前のことなのに、その声の優しさに耐えきれなくなって、私は思わず両手で顔を覆いそうになった。
「なんだか……照れますね」
店長が自分の首筋をさすりながら、少し赤くなって笑った。
「普段、役職でしか呼ばれないから、自分の名前を呼ばれるとドキッとします」
「……っ、店長も照れるんですか」
「照れますよ、そりゃあ」
店長はふわりと笑ってから、不思議そうに首を傾げた。
「でも朝比奈さん、名前で呼びたい人がいるんですか? 大学の先輩とか?」
「…………は?」
私の思考がフリーズした。
「……だ、大学の先輩?」
「ええ。その人と親しくなりたくて、名前で呼ぶ練習をしたかったんでしょう? 僕で練習になるなら、何度でも付き合いますよ!」
満面の笑み。親切百パーセントの善意の瞳。
「…………」
私はゆっくりと両手で顔を覆った。
……だめだ。この人、他人のプロポーズは見抜けるのに、自分に向けられた矢印だけは宇宙の果てまで見失ってる!
「……店長、今日の名探偵、もう閉店ですか?」
「えっ? 何か僕、間違ったこと言いました!?」
「盛大に間違えてます!」
「えええっ!? どこがですか!?」
「もういいです! 私も練習って言っちゃったから同罪です!」
自棄糞になってプリンをガバッと口に放り込む。甘くて冷たいはずのプリンが、熱くなった口の中で溶けていく。店長はおろおろとしながら、申し訳なさそうに言った。
「ご、ごめんなさい……でもね、朝比奈さん」
「……なんですか」
「その……呼び方、そのまま呼んでくれてもいいですよ?」
「……え?」
スプーンを咥えたまま固まる私に、店長は照れくさそうに視線を泳がせながら言った。
「嫌じゃ、なかったので。……むしろ、ちょっと嬉しかったですし」
「…………っっっ!!」
ボッと音がしそうなくらい、耳まで真っ赤になった。
(な、なんなのもう……! 無自覚にそういう爆弾落とすのやめてよ……!!)
「……き、勤務中は、店長です!」
「あ、はい。そうですね!」
背筋をピンと伸ばす店長。
ごちそうさまでした、と空いたお皿をカウンターへ戻す。
「ごちそうさまでした、店長」
「お粗末さまでした」
いつもの呼び方に戻ると、お互いに小さく吹き出してしまった。店長が洗い場へ行き、水音が響き始める。私はカウンターの上に残された、砂糖壺とミルクピッチャーに目をやった。斜めに置かれたままの、練習相手の二人。私はそっと手を伸ばし、ミルクピッチャーを砂糖壺の真向かい――正面の位置へと動かした。
(……空席に向かう練習なら見抜けるくせに)
洗い物をしている店長の背中を見つめながら、私は小さく唇を尖らせた。
(……こっちは最初から、あなたの正面にいるのに、ばか)
カウンターの上の二つの器は、今度こそぴったりと向き合って並んでいた。




