第3話 灯里の恋のはじまり
サーッ、と静かな夜の路地に雨が降り続いていた。窓ガラスを無数の雨粒が斜めに滑り落ちていく。閉店作業中の店内には、湿った空気とコーヒーの香りが混ざり合っていた。
私は雑巾を手に、入口の傘立て周辺に飛び散った雨水を丁寧に拭き取っていく。傘立ての中を覗き込んでお客さんの忘れ物がないか確認するが、残っているのは店の備品である黒い大きなビニール傘が一本だけだ。
(今日はずっと本降りだったなあ……)
自分のトートバッグに目をやる。朝、家を出るときに念のため小さな花柄の折りたたみ傘を放り込んできたのだ。降水確率が高かったから持参して正解だったけれど、この雨足だと駅までの距離でも少し頼りないかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら雑巾を絞り直していると――
「朝比奈さん。今日、一人で来られた女性のお客さん、見ました?」
カウンターの奥でカップを磨いていた店長が、いつもの調子で声をかけてくる。この喫茶店はカップル割目当てのお客様が多いので一人客はどうしても目立ってしまう。
「見ましたよ。雨宿りに来られた方ですよね」
「僕ね、こう思うんです。あの女性――失恋したばかりだったんじゃないでしょうか」
「……は?」
雑巾を絞る手がピタリと止まる。
「……どうしてそう思うんですか」
「だって、入口の前で立ち止まって、入ろうかどうしようか、すごく迷っているような顔をしていたでしょう? 雨に打たれながら、どこにも行き場がないみたいな……悲痛な横顔でした」
「…………」
心臓が、トクンと嫌な音を立てた。店長は何の気なしに語っている。けれど、その言葉は――私の記憶の奥底に眠る、あの雨の日の景色を、強引に引きずり出してきた。
◇
――二年前。高校三年生、秋の雨の日。私はずぶ濡れの制服のまま、この店の前に立ち尽くしていた。
スマートフォンの画面には、親友宛ての『だめだった』という未送信のメッセージ。
ずっと片想いしていた相手に告白して、あっさりと振られた帰り道だった。冷たい雨が容赦なく体温を奪っていき、自分がどこへ帰ればいいのかもわからなくなっていた。カラン、とドアが開き、エプロン姿の店長が顔を出した。
『どうぞ。足元、滑るので気をつけてくださいね』
店長は、私の真っ赤に腫れた目にも、濡れそぼったスカートにも一切触れず、ただ濡れたタイルの上に新しい足拭きマットを敷いてくれた。カウンターのいちばん端の席に座り、私は掠れた声で言った。
『……一番、安いのでいいです』
所持金なんて小銭入れの数百円しかなかった。店長は困った顔もせず、メニューのココアを指差して優しく微笑んだ。
『甘いものは、飲めますか?』
こくりと頷くと、店長は何も詮索せず、すぐに背を向けて小鍋を火にかけた。
『まず、温まってください』
差し出されたのは、湯気を立てる熱いココアと、清潔な乾いたハンドタオル。『すぐ、帰りますから……』と俯く私に、店長は笑って言ったのだ。
『急がなくていいですよ。ちゃんと飲める温度になってからで』
何があったのか、どうして泣いているのか、一つも聞かれなかった。ただ、温かいココアの甘さと、放っておいてくれる優しさが、凍えきった心にじんわりと染み込んでいった。そしてお会計のとき。定価の小銭を出そうとした私から、店長は半分のお金しか受け取らなかった。
『一人ですけど……?』
『今日は雨の日のおまけです』
悪戯っぽく片目を閉じた店長の笑顔に、私の心臓は強く跳ねた。失恋の痛みが消えたわけじゃない。けれど、その日の帰り道、私の胸の中には――この店と、この人への、どうしようもない恋心が芽生えていたのだ。何度か喫茶店に行くうちにその恋心はちょっとずつ育っていった。
やがて大学に入学し、この店のガラスに『アルバイト募集』の張り紙を見つけたとき、私は迷わず飛び込んだ。
(……私にだけ、優しくしてくれたんだと思ってた)
あの日の特別扱いは、私だけの宝物のはずだったのに。
◇
「……朝比奈さん? 聞いてます?」
「っ、聞いてます!」
私はブンブンと首を振って思考を現在へと引き戻した。カウンターに肘をついた店長は、「悲痛な横顔だった」「失恋の傷を癒やしに来たんだ」と、なおも得意げに独自の推理を続けている。私は深いため息をつき、カウンターの前まで歩み出た。
「あのですね、店長」
「はい?」
「他人の失恋を勝手に決めつけてあれこれ詮索するの、ちょっとデリカシーなさすぎませんか? もし本当に振られたばかりだったとしたら、余計なお世話にも程がありますよ」
「うっ……す、すみません。別に面白がっているわけじゃなくて、何か力になれたらなって……」
「力になれたらって、勝手に失恋認定してココア出されても困惑するだけです。……そもそも、その女性、店に入る前に何を見てたか気づきませんでした?」
「え? 雨空を仰いでいたような……」
「手元です。雨宿りしながら、バッグから古いショップカードを出して、うちの看板と見比べてましたよ」
「えっ、うちのカード?」
「はい。ロゴが昔の書体でした。それに、席に座ったあともずっと、メニューじゃなくてカウンターの上の古い食器棚を見上げてましたよね」
「食器棚を……?」
目を丸くする店長に、私は種明かしをした。
「お会計のとき、教えてくれたんです。『二十年前にここでバイトしてたんです』って」
「ええっ!? 昔のスタッフ!?」
「はい。今の仕事を辞めた区切りに、人生で最初に働いたこの喫茶店に立ち寄りたくなったそうです。『棚の上の高いカップを取るのが苦手だったなあ』って懐かしそうに笑ってましたよ」
「そ、そうだったんだ……!」
店長はカウンターの奥を振り返り、高い棚を見上げた。
「父と母が店をやっていた頃のバイトさんか……。失恋じゃなくて、本当によかった」
ほっと胸を撫で下ろす店長。本当に、どこまでも善意で他人の幸せを祈る人だ。だからこそ――私はどうしても、聞かずにはいられなかった。
「……店長」
「はい?」
「雨の日に、一人で来たお客さんを半額にするのって……いつもやってるんですか?」
「えっ」
店長がギクッと肩を跳ねさせ、気まずそうに視線を逸らした。
「え、ええと……たまに、ですよ? ずぶ濡れの高校生とか、見るからに寒そうに震えている人を見かけると、どうしても放っておけなくて……あ、でも帳簿にはちゃんと『値引き』で自腹切ってますからね!?」
「……何人も、やってるんですね」
「うっ……ごめんなさい、甘い店長で……」
「別に、そこを怒ってるんじゃありません」
「え? 怒ってないんですか?」
「半分は怒ってます。バイトの立場として」
「ごもっともです……」
しょげる店長を見て、私は小さく息を吐いた。
(……そっか。やっぱり、私だけじゃなかったんだ)
少しだけ胸がチクッとした。でも、不思議と絶望はしていなかった。あの雨の日、私が救われた事実には変わりないし、この人が誰にでも手を差し伸べる優しい人だからこそ、私は好きになったのだから。
ふと、営業中の光景を思い出す。夕方の強い雨の中、入口で一本の大きな傘を広げたカップルがいた。
『こっち入りなよ、濡れるだろ』
『ありがとう。……ちょっと近いね』
肩を寄せ合い、ひとつの傘の下で嬉しそうに帰っていく二人。
――相合傘。
(……よし)
私はそっと自分のトートバッグに手を伸ばし、花柄の折り畳み傘をバッグの底深くに押し込んだ。
「店長。雨、全然弱くなりませんね」
「そうですね。結構な土砂降りだ」
「私、傘持ってなくて……」
しおらしく俯いてみせる。渾身の演技だ。
「ああ、じゃあ店の置き傘を使ってください。一番大きくて丈夫なやつです」
店長は傘立てから迷わず黒い特大ビニール傘を引っこ抜き、私に差し出してきた。
「……え。でも、これ一本しかありませんよね? 店長はどうするんですか?」
「僕は帳簿をつけてから帰るので、あと一時間は残りますから。その頃には小降りになってますよ」
「…………そうですか」
……ちぇっ。二人で駅まで歩く作戦、秒で撃沈。肩を落として特大傘を受け取ろうとした、その時だった。
「あれ? 朝比奈さん」
「え?」
「折り畳み傘、持ってませんでしたっけ?」
店長が私のバッグをじっと見つめていた。底に押し込んだはずの傘のストラップが、チラリと外にはみ出ていたのだ。
「あ……」
「昨日、『明日は雨予報だから傘忘れないようにしないと』って、言ってましたよね?」
「っ!?」
カアッと頬に熱が集まる。
(な、なんでそんな昨日の些細な雑談を完璧に覚えてるの!?)
こういう記憶力だけは異常に発揮するんだから!
「え、ええと……これは、ほら! すごく小さくて風に弱い傘なので! 今日みたいな大雨だと、肩がびしょ濡れになっちゃうんです!」
苦し紛れの言い訳を口早にまくしたてる。店長は納得したように「なるほど」と頷き、大傘と私の肩を交互に見比べた。
「確かに、風も強いですしね。……じゃあ、やっぱり朝比奈さんがこの大きな傘を使ってください」
「でも、店長は……」
「その代わり、朝比奈さんのその小さな折り畳み傘、僕に貸してもらえませんか?」
「えっ?」
「僕は駅のすぐ手前のマンションですから、走れば二分です。その傘で十分ですよ」
「……二人で入るって選択肢は、一ミリも浮かばないんですね」
「え? 何か言いました?」
「何でもありません!」
私は観念して、バッグの底から折り畳み傘を引っ張り出し、店長に手渡した。
「店長のほうが肩幅広いくせに……濡れても知りませんからね」
「あはは、大丈夫です。ありがとうございます」
店長は嬉しそうに受け取ると、傘を開こうとして――留め紐のボタンを外し忘れてガチャガチャと手惑い始めた。
「あ、あれ? 開かない……」
「もう! ボタン外してから押すんです!」
「あっ、そうか!」
思わず二人で笑い合ってしまった。
カラン、とドアベルを鳴らして外に出る。開いた大きな黒傘は、すっぽりと私の体を雨から守ってくれた。
「お疲れさまでした、朝比奈さん。気をつけて帰ってくださいね」
「はい。店長も……風邪引かないでくださいね」
「ええ。傘、明日お返しします」
「私も、明日返しますから」
濡れたアスファルトを踏みしめながら、雨の路地を歩き出す。ふと気になって、数歩進んだところで振り返ってみた。オレンジ色の明かりが漏れる店の窓ガラス越しに、店長の姿が見えた。
店長はカウンターの端で、私が貸した花柄の小さな折り畳み傘を、壊さないようにそっと広げていた。黄色いストラップを丁寧に指で整えながら、ふわりと優しく微笑んでいる。
「……っ」
胸の奥が、ぎゅーっと甘く締め付けられた。
(……高校生の私にだけ優しかったわけじゃない。それは、ちょっと悔しいけど)
雨音の中で、私は自分の口元が緩んでいくのを止められなかった。
(……でも。今の私のことは、ちゃんと見ててくれてる)
大きな傘の柄を両手で握りしめ、私は雨の夜道を軽やかな足取りで歩き出した。




