第2話 半額の理由
「――はい、今日のレジ締め終了です。合わない分は一円もありません」
カチャリとキャッシュドロワーを閉めて、私はカウンター奥の店長に日計表を差し出した。
「お疲れさまです、朝比奈さん。……うん、今日もたくさんのお客さんが来てくれましたね。二人連れが特に多かったなあ」
「そうですね。売上は、きっちり一人分ずつでしたけど」
「うっ」
私の即座のツッコミに、店長が胸を押さえて小さく呻いた。カウンターの壁には、手書きの温かみのあるポップが貼られている。
『カップル割 二名様以上のご来店で、全品半額(※お友達・ご家族もどうぞ!)』
「あのですね、店長。このネーミングでこの条件、近所の高校生と大学生に都合が良すぎます。みんな『半額喫茶』感覚で雪崩れ込んできてるんですよ」
「で、でもほら! 誰かと一緒に来て、美味しいコーヒーを飲んで、笑顔で帰ってくれるなら、お店としても本望というか……」
「店長! どうするんですか! このままじゃお店、つぶれちゃいますよ!」
「うぐっ……す、数字の精査は、ちゃんとやりますから……!」
目を白黒させて仕入れ伝票から視線をそらす店長。本当に、コーヒーを淹れる腕以外はポンコツなんだから。最近は物価高の影響もあってちょっとずつ利益が減っているらしい。
(……はあ。まさか自分の人生で、ネットミームみたいなテンプレ台詞を叫ぶ日が来るなんて思わなかった)
呆れ混じりに心の中でため息をつく。だが、店長は気を取り直したように二つのコーヒーカップを並べ、ふふんと鼻を鳴らした。
「でもね、朝比奈さん。今日の夕方、最後に来られたお二人……あの素敵な『始まり』に立ち会えたなら、僕は店長冥利に尽きると思うんです」
「始まり?」
私が眉をひそめると、店長は得意げに胸を張った。
「ええ! あの上品な白髪の男性と、小柄なご婦人です。あの二人は――間違いなく、今日が初めてのデートでした!」
「……はあ?」
私は思わず、拭いていたカウンタークロスを取り落としそうになった。
「初めてのデートって……どう見てもお年を召されたご夫婦でしたよ!?」
「いいえ! 恋に年齢は関係ありません!」
力説しながら、店長は今日も今日とて、陶器の砂糖壺とステンレスのミルクピッチャーをカチャリと向かい合わせた。
「僕の推理を聞いてください。まず男性が席に着くとき、女性の椅子をそっと引いてあげていました。とても紳士的で、少しぎこちないくらいに丁寧でした」
「それは単にお行儀がいいだけで――」
「注文の瞬間です!」
店長は私の言葉を遮り、ビシッと人差し指を立てた。
「僕の推理を聞いてください! 男性がメニューの上のほう――あれは位置的に間違いなく『特選ブレンド』のあたりを指差したんです。すると女性は、紅茶やアレンジコーヒーの欄に視線を走らせて迷っていたのに、小さく頷いて『私も同じブレンドで』と頼まれたんですよ!」
「……遠くからよくそこまで見てますね。ていうか半分推測じゃないですか」
「さらにです! 運ばれてきたブラックコーヒーを、女性は一口飲んで、ほんの少しだけ眉を寄せました。苦かったんです。それに気づいた男性が慌てて砂糖壺を差し出したんですが、女性は恥ずかしそうに笑って、小さく手を振って辞退した……!」
店長は砂糖壺をピッチャーにじりじりと近づけながら、うっとりと目を細めた。
「まだお互いの好みを深く言い合えない、初々しい距離感。けれど相手と同じものを飲んで、同じ味を共有したいといういじらしい乙女心……! どうですか朝比奈さん、いくつになっても、人はこうして新しい恋を始められるんです!」
「…………」
熱弁を振るう店長を、私は冷めた目で見つめ返した。
「……語り終わりました?」
「えっ? は、はい」
「じゃあ、反論していいですか」
「えっ!? 反論の余地あります!?」
目を丸くする店長に、私は深いため息をプレゼントしてあげた。
「店長。そのあとのテーブル、ちゃんと見てました?」
「そのあと?」
「女性が二口目を飲む前に、男性、迷わずミルクピッチャーを彼女の手元に置きましたよね。蓋を開けて、角砂糖を二つ、トングでつまんでソーサーに添えてあげてました」
「あ……そういえば」
「女性もびっくりするどころか、嬉しそうに肩を揺らして笑ってましたよ。今日初めてデートした相手の好みの砂糖の数、エスパーでもなきゃわかりません」
「う……言われてみれば……」
砂糖壺を動かしていた店長の手がピタリと止まる。私は追い打ちをかけるように、レジ横の伝票クリップを指で弾いた。
「それと、写真です」
「写真?」
「女性が座る前、バッグから古いモノクロ写真を取り出して、窓枠と見比べてました。その写真、若い男女が今のふたばの窓際席で並んで笑ってる写真だったんです」
「えっ、昔の誰かの写真を……?」
「本人たちですよ! 女性の胸元、見てませんでした? 銀色のお花のブローチ、写真の女の子とまったく同じものをつけてましたよ」
「ほ、本人たち……!?」
店長がガタッと音を立てて身を乗り出した。
「お会計のとき、ご主人が嬉しそうに教えてくれたんです。『四十年前、ここでカップル割を使ったのが私たちなんですよ』って」
「四十年前……!?」
「はい。『今日は結婚記念日でね。初デートをもう一度再現しようって妻が言い出したんだけど、妻はあの頃、背伸びしてブラックを我慢して飲んでたのを思い出しちゃって。やっぱり苦いのは駄目だったよ』って、二人で顔を見合わせて笑ってらっしゃいました」
「…………」
店長は開いた口が塞がらない様子で、カウンターの上の砂糖壺とピッチャーを見つめた。
「……初デートどころか、金婚式一歩手前の、大ベテランのご夫婦でしたか……」
「そうですよ。推理は大ハズレです、名探偵」
私がからかうように笑うと、店長は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「うう……また盛大に外してしまった。恥ずかしい……」
「まあでも、微笑ましい間違いでしたよ」
「でも」と、店長は顔を上げ、柔らかく目を細めた。
「四十年前の初デートで苦いのを我慢した思い出も、今では砂糖を二つ入れてくれる旦那さんが隣にいる。……四十年間、ずっとその人の好みを覚えてくれている人と一緒にいられるなんて、すごく素敵なことですね」
「……っ」
不意を突かれた。的外れな妄想ばかりするくせに、この人はどうして、他人の愛情のいちばん尊い芯の部分を、こんなにも綺麗にすくい上げてしまうんだろう。胸がきゅっと締め付けられて、私は思わず目をそらした。
ジリリリリ、と静かな店内に甲高いベルの音が鳴り響いた。
カウンターの隅に置かれた、ずっしりとした黒電話。昭和の遺物のようなレトロな代物だが、純喫茶の雰囲気を大切にしたいという店長の趣味で、今も現役で使われている。
受話器を取った店長が「あ、はい、喫茶ふたばです……あ、母さん?」と応対する。
黒電話の受話器からは、大音量で女性の声が漏れ聞こえてきた。店長のお母さんだ。声がやたらと大きくて通りが良いため、カウンター越しに立っている私にも会話の内容が筒抜けだった。
『湊? 頼まれてたお父さんの古いレシピ、実家の棚から見つかったから送っといたわよ!』
「ありがとう母さん。あ、そうだ。今日ね、四十年前にお父さんの店でカップル割を使ったっていうご夫婦が来てくれたよ」
『あらまあ! すごいわねえ! ……ふふ、あれね、元々はお父さんが私をデートに誘うための口実だったのにねえ』
「……え?」
店長の手が止まり、私も思わず耳を澄ませた。
「口実って……どういうこと?」
『お父さんがまだバイトで修行してた時期があったんだけど。その時のマスターに頼み込んで、壁に『カップル割・二人で来たら全品半額』って特別に張り紙を貼ってもらったのよ。タダでおごるって言うと私が遠慮して断るからって、『うちの店、二人で来たら半額になるから一緒に行かない?』って誘ってきたの』
「……ええっ!? バイト先のマスターを巻き込んでそんなことしたの!?」
『そうよ。マスターも面白がって協力してくれたらしいわ。お父さん、すっごく嬉しそうに私にコーヒーを淹れてくれてねえ。だから、『誰かを誘うきっかけになるならいいだろ』って、そのまま名物にしちゃったのよ』
「……じゃあ、父さんの恋の口実が、そのままうちの店の制度になっちゃったってこと……?」
『そういうこと! ロマンチストなのはいいけど、あんたはちゃんと計算して店やりなさいよ? じゃあね!』
ガチャン、と受話器が置かれる音が響き、通話が切れた。沈黙が店内に落ちる。私はじっと店長を見つめ、店長はおそるおそる壁の『カップル割』の張り紙を見上げた。
「……店長」
「は、はい」
「この制度の根っこ、お父様の下心だったんですね」
「下心って言わないで! 純愛の口実って言って!?」
「どっちにしても、赤字の元凶が単なる口説き文句だったなんて……」
しょんぼりと肩を落とす店長。でも、と店長はぽつりと呟いた。
「四十年経っても、誰かを誘う口実として残ってるなら……やっぱり、悪いことばかりじゃない気もしますけどね」
「……まあ、そこは否定しませんけど」
父親譲りの不器用なロマンチストめ、と心の中で悪態をつく。
「さて、と」
店長は気持ちを切り替えるようにパンと手を叩き、棚から珈琲豆のガラスキャニスターを取り出した。
「閉店後のコーヒーを淹れましょう。朝比奈さんは、いつものミルク多めですよね」
「――今日は、店長と同じので」
「え?」
ドリッパーにペーパーフィルターをセットしかけた店長が、驚いたように顔を上げた。
「今日のは深煎りのマンデリンですよ。かなり苦味とコクが強いですけど、大丈夫ですか?」
「飲めます。……ブラックで」
私はそっぽを向いて、カウンターの天板を指先でトントンと叩いた。
「わかりました。じゃあ、二杯分落としますね」
店長が丁寧にお湯を注ぎ始める。ポタポタと落ちる琥珀色の雫と、店内に満ちていく香ばしい苦味の香り。
(……同じものを頼むと、恋の始まり)
さっき自分で言ったくせに。目の前で真剣にドリップしている店長を見つめながら、私の心臓はトクトクと音を立てていた。
「はい、どうぞ」
目の前に置かれた、湯気を立てる黒い液体。私は覚悟を決めてカップを持ち上げ、唇をつけた。
「――っ」
にがっ! 思わず喉がキュッとなって、眉間にしわが寄りそうになるのを必死で耐える。
「……ふふ、やっぱり苦いでしょう」
店長がおかしそうに目を細め、カウンター越しに小さなミルクピッチャーをスッと私の手元へ差し出した。
「無理しなくていいですよ。朝比奈さんは、甘いミルクを入れて美味しそうに飲んでる顔のほうが、ずっと素敵ですから」
「っ!?」
カアアッ、と顔が一瞬で沸騰した。
(な、なにサラッと殺傷力の高いこと言ってんのこの人……!?)
「そ、そんな顔、見てたんですか……」
「え? 見てますよ。いつも美味しそうに飲んでくれるから、淹れ甲斐があるなって」
「……っ」
カップを口元に押し当てて、赤くなった顔を隠す。すると店長は、ふと思い当たったようにポンと手を打った。
「あ、もしかして、新しい豆の試飲に付き合ってくれたんですか? スタッフとして味の比較をしてくれようとしたんですね。ありがとうございます、朝比奈さんは本当に仕事熱心だなあ」
「…………」
急激に冷めていく私の乙女心。
「……そうですね。仕事熱心ですね、私」
「ええ、すごく助かってます!」
「……店長」
「はい?」
「……同じのを、飲んでみたかっただけです」
消え入りそうな声で呟きながら、私は差し出されたミルクをたっぷりとカップに注いだ。白い雲のようにミルクが広がり、コーヒーが淡いカフェオレ色に染まっていく。
「僕の好きな味を?」
「……はい」
「それは……なんだか、すごく嬉しいですね」
店長は自分のブラックコーヒーのカップを持ち、ふわりと照れたように笑った。その笑顔を見たら、さっきの脱力感なんてどこかへ吹き飛んでしまう。
(……もう。そこまで言えて、なんでその先がないかなあ……)
スプーンでくるくるとカップをかき混ぜながら、私は壁の張り紙を見上げた。
「……店長」
「ん?」
「そのカップル割、二人じゃなくても使ってましたよね」
「え? 僕が? そんなことないですよ。二人以上じゃないと割引は――」
「私、高校三年のときに初めてここに来たとき、一人で半額にしてもらいました」
カップを持つ指に、ぎゅっと力が入る。あの雨の日。失恋してボロボロで入ってきた私に、店長がくれた温かいココアとおまけの半額。あの日のことを、この人は――
「……え?」
店長は目を丸くして、本気で思い出せないように首を傾げた。
「僕、そんなこと……しましたっけ……?」
「…………」
息が止まった。悪気なんてこれっぽっちもない、純粋な疑問の顔。胸の奥が、冷たい氷で撫でられたようにスーッと冷えていく。
(……覚えて、ないんだ)
私の人生を変えたあの日を。この人にとっては、通りすがりの誰かに施した、名前もついていない親切の一つに過ぎなかったんだ。泣きそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に押し殺す。
「……ふふっ」
私は無理やり口角を持ち上げて、わざと吹き出すように笑ってみせた。
「やっぱり店長、計算だけじゃなくて記憶力も壊滅的ですね! お父様のこと言えませんよ」
「うっ、そ、そんな昔のこと言われても……! でも、本当に一人で半額にしたなら、お店のルール違反ですね。反省します……」
頭を掻いて苦笑いする店長。私はカップに視線を落とし、甘くなったカフェオレを喉へと流し込んだ。
「朝比奈さん、おかわり淹れましょうか? 今度は最初から、ミルクたっぷりで」
店長は私の表情の陰りに気づかないまま、嬉しそうに小鍋を用意し始めた。
「……はい。いつものやつで、お願いします」
(四十年前の初デートを覚えているご夫婦。……それに比べて、私は一年半働いても、まだあの日の一人にもなれてない)
少しだけ視界が滲みそうになる。けれど、トントンと小鍋を火にかける店長の背中を見ていると、自然とため息が柔らかいものに変わっていった。
(……でも。今の私の好みは、ちゃんと覚えてくれてる)
カウンターの上に並んだ、二つのカップ。ブラックと、ミルクたっぷり。
(……よし。今日も一杯分だけ、許してあげよう)
「はい、熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとうございます、店長」
手渡された温かいマグカップを両手で包み、私はふうふうと息を吹きかけた。




