第1話 今日の二人は恋ですか?
カラン、と控えめなドアベルを鳴らしながら、入口の木製プレートを裏返す。『OPEN』から『CLOSED』へ。
午後八時。それが、私――朝比奈灯里の一日の終わりの合図だ。
すりガラスの隙間から吹き込む夜風が、ひやりと肌を刺す。十一月も半ばを過ぎ、街を包む空気はいよいよ冬の気配を帯び始めていた。
ふう、と白くなりかけた息を小さく吐き、客席の丸椅子を元の位置に戻していく。テーブルを布巾で拭きながら視線を上げると、カウンターの奥で、店長の二葉湊が洗い上がったコーヒーカップを拭いていた。その布巾を動かす手が、ふっと緩む。
(……あ、この顔)
私は心の中で警戒アラートを鳴らした。店長が何か言いたくてたまらないとき、決まって口元が緩み、目がキラキラと輝きだすのだ。
「朝比奈さん。今日の二人、見ました?」
「えっと、どの2人のことですか? 何組来たと思ってるんですか」
「ほら、窓際の特等席に座っていた、制服の二人ですよ」
ほら来た。
店長はカップを棚へ戻すと、なぜか神妙な面持ちで、カウンターの上に陶器の砂糖壺とステンレスのミルクピッチャーを引き寄せた。そして、それを向かい合わせでコトリと置く。
始まった。閉店後の『脳内劇場』だ。
この店の店長は人が良くてコーヒーを淹れる腕は天才的なのに、人と人との関係性を勝手に深読みしてロマンチックな物語に仕立て上げる、筋金入りの『関係性オタク』なのだ。
「僕はね、こう見たんです」
店長は胸を張り、自信満々の笑顔で言い放った。
「あの二人――告白が成功した直後です!」
「…………」
私は椅子の背もたれを掴んだまま、盛大にため息をつきそうになるのをこらえた。
「……店長。あれのどこをどう切り取ったら、告白直後になるんですか?」
「えっ、わかりませんでしたか? 完璧な布石があったじゃないですか」
店長は嬉々として砂糖壺(たぶん男子生徒)を指先でチョンとつつき、少し傾けた。
「まず、目が合うのを徹底的に避けていました。男子がココア、女子がミルクティー。二人ともカップを持ったまま、ほとんど口をつけず、視線を泳がせていた。……朝比奈さん、告白した直後って、急に相手の顔をまともに見られなくなるものでしょう?」
「それ、経験談ですか?」
「…………一般論です」
急に視線を逸らし、猛烈な勢いでカップを拭き直す店長。灯里は、口の端が上がりそうになるのをこらえる。この人は、恋の話をするときだけは饒舌で、自分の話になった途端に短くなる。
「急に布巾に集中しないでください。図星ですか」
「ち、違いますよ! 僕の話はいいんです! 注目すべきはその次です!」
誤魔化すように咳払いをして、店長はピッチャー(女子生徒)を砂糖壺の前にスッと滑らせた。
「女子が自分のスマートフォンを取り出して、二人の真ん中に置いたでしょう? 男子が身を乗り出して、画面を覗き込むように指先を動かしていた。ここからじゃ画面まではっきり見えませんでしたけど、あの枠線、どう見てもカレンダーアプリですよ! つまり! 友達から恋人になったばかりの二人が、照れながらも初めての休日のデートの約束を取り付けていたに違いありません!」
「ふーん……」
「そして決定打は帰り際です! 会計を終えてドアの前で、女子がそっと手を出しかけて、引っ込めた。それに気づいた男子が、ためらいがちにその指先に触れて……最後は手をつないで、二人で笑い合って帰っていったんです!」
店長は両手を広げ、陶酔したようにカウンターに乗り出した。
「……いや、これはどう見ても恋ですよ。甘酸っぱい、青春の始まりの物語です!」
勝ち誇ったドヤ顔。無駄に整った顔立ちのくせに、こういう時の店長は子どものように無邪気だ。見ているこっちの胸が、不意にちくりと痛くなるくらいに。私はエプロンのポケットに両手を突っ込み、やれやれと首を横に振った。
「最後の手をつないだのだけは、まあ、恋かもしれませんけど」
「でしょう!?」
「告白直後とは一言も言ってません」
「えっ?」
ぽかんと口を開ける店長。私はカウンターへ近づき、窓際の席を指さした。
「男の子の鞄、足元に置いてありましたよね。口が少し開いてて、パンフレットが覗いてたの見えませんでした?」
「え? カウンターの影になっていたから、足元までは見えませんでしたけど……」
「ですよね。ずっとカウンターの中にいた店長には見えない死角です。でも、私が追加のお冷を持って行ったとき、椅子の脇にはっきり見えたんですよ」
「な、何が見えたんですか?」
「表紙に『北浜高校 転入学のご案内』って書いてありました」
「てんにゅうがく……」
店長の指が止まる。
「引っ越す人かもしれない、とは考えなかったんですか?」
「そ、そっちの予定……?」
「そうです。それに、女の子が見てたのは男の子の顔だけじゃありません。窓の外を、同じ制服のグループが笑いながら通り過ぎた時、女の子、袖でさっと目元を拭ってましたよね」
「……知り合いに、見られたくなかった?」
「照れて隠したとも取れますけど、泣いてるのを見られたくなかったのかも、とは思いませんでした?」
店長は砂糖壺とミルクピッチャーを見つめたまま、言葉を失っていた。カウンターの奥で豆を挽いている店長からは見えない角度。客席を回り、配膳し、お冷を継ぎ足し、レジに立つ私だからこそ見える情報だ。
「――お会計のとき、男の子から直接聞いたんです」
「えっ、聞いたの?」
「女の子が先に入口の外で待ってるとき、男の子、レジの前で言いました。『来週、引っ越すんです。今日、その話をして……その前に、もう一度二人で来たいんですけど。あの席、予約できますか』って」
あの時、奥で店長がけたたましくミルを回していたから、声は届いていなかったのだ。
「だから、カレンダーは初デートなんかじゃありません。引っ越してしまうまでに、二人で会える最後の日を探してたんです」
「……」
店長はしばらく瞬きを繰り返し、それから深く息を吐き出した。
「……始まった日じゃなくて、離れるとわかった日、だったんですね」
「はい」
「なるほど。……僕の盛大な読み違いでした」
言い訳ひとつせず、店長は苦笑しながら砂糖壺とピッチャーの距離をすっと離した。この素直さが、この人のズルいところだ。プライドにこだわらず、あっさりと自分の間違いを認めてしまう。だから私は、この人に嫌味を言い切ることができない。
「でも」と、店長は離したはずの二つの小道具を、今度はそっと同じ向きに並べ直した。
「ちゃんと、次に会う約束をして帰ったんですよね」
「……はい。土曜日の三時です」
「なら、今日ここに来てくれて、本当によかった」
店長の顔に、心からの優しい光が灯った。
「離れるからって、全部が終わるわけじゃない。離れる前に、ちゃんと二人で話せる時間をこの店で作れたなら……それはすごく、幸せなことですよ」
「……っ」
不意に胸を突かれて、私は言葉を詰まらせた。他人の事情を勝手に妄想して盛大に外すくせに、どうしてこの人は、相手が一番救われる言葉だけは絶対に外さないんだろう。
店長はカウンターの下から予約帳を取り出し、土曜の欄に『窓際 二名様』と丁寧な字で書き足した。
「時間を長めに取っておきましょう。ゆっくり話せるように」
そう言って、棚の奥にあるデザート用の平皿に手を伸ばそうとする。
「店長」
「はい?」
「勝手にお祝いのデザートとか盛ろうとしないでくださいね」
「……っ、出しませんよ? そんな、余計なお節介なんて……」
「今、お皿取ろうとしましたよね」
「……普通に、すごく美味しい焼き菓子を出そうかと」
「それなら賛成です」
顔を見合わせて、ふっと笑いがこぼれた。事情は的外れでも、相手を喜ばせたい気持ちだけは本物。
(……ほんと、こういうところが、困るんだよな)
胸の奥がじんわりと熱くなるのを自覚して、私は誤魔化すように片付けに戻った。冷たい水で布巾を固く絞って最後のテーブルを拭き上げ、洗い場に回ってカトラリーを片付ける。
拭き上げたティースプーンを、カウンター越しに店長へ手渡す。指先が触れそうで触れない距離。店長の指は、すらりと長くて、コーヒーを淹れる人の綺麗な手をしている。さっきの高校生たちの手を思い出して、私は自分のエプロンの端をぎゅっと握りしめた。
「……店長」
「はい?」
「手、つないだら……ちょっとは安心するんですかね」
なるべく他愛のない世間話のトーンを装って、顔を見ずに聞いてみる。
「どうでしょうね」
店長はスプーンを受け取り、引き出しにしまいながら穏やかに言った。
「でも、うまく言葉が出ないときでも、『私はここにいるよ』ってことだけは、ちゃんと相手に伝わるんじゃないでしょうか」
「……ふうん」
短く相槌を打つ。
(じゃあ……言わなくても、伝わるのかな)
ドクン、と心臓が跳ねた。店長が最後のカップを拭き終え、両手が空いたのを見計らって、私はカウンターの内側へと回り込んだ。店長のすぐ隣。肩が触れそうな距離に立つ。
「店長」
「はい?」
私は息を呑み、そっと右手を差し出した。カウンターの上。店長の左手のすぐ隣、わずか五センチの距離。手のひらを上に向けて、指先をほんの少し、彼の小指のほうへ伸ばす。私の心臓の音が、静かな店内に響いてしまうんじゃないかと思うくらい速くなる。
店長の視線が、私の差し出した手に落ちた。
「ああ」
「っ!」
(気づいた……!?)
思わず息が止まり、カッと頬に血が上る。
しかし――
ぽすん。私の手のひらに、ほかほかの温かいものが乗せられた。
「……え?」
「テーブル拭くのに、冷たい水で布巾を絞ってくれたでしょう。さっきからずっと指先をこすり合わせていたから」
店長は満足そうに微笑みながら、温かい蒸気を立てるおしぼりを、私の両手で包み込ませるように整えてくれた。
「いつも手伝ってくれてありがとうございます、朝比奈さん」
「…………」
固まる私。手の中にあるのは、ほかほかのおしぼり。
「……おしぼり」
「はい、おしぼりです」
「……」
「……あれ? 熱すぎましたか?」
「ちょうどいいですっ!」
私はおしぼりをぎゅっと握りしめた。怒りたいのに、手のひらから伝わる温もりが心地よくて、怒りきれない。
「……よく、指こすってたの気づきましたね」
「もちろん見てますよ。大事なスタッフなんですから、体調や手の荒れくらい気配りしないと」
「そこは、見てるんですね……」
「え?」
「何でもありません!」
唇を尖らせる私を見て、店長は「?」と首を傾げながら、温めた小さなミルクのカップをコトリと置いてくれた。
「帰る前にどうぞ。少しハチミツを入れてあります」
「……いただきます」
甘いミルクを一口すする。喉を通る温かさが、もどかしい心に染み渡っていく。
「あ、そうだ朝比奈さん」
「なんですか」
「土曜日の二人、僕も見守ってますけど、もし僕がまた早とちりしそうになったら教えてくださいね。朝比奈さんがいてくれると、僕の見落としがわかるので、本当に心強いです」
屈託のない笑顔で言われて、また胸がぎゅっとなる。
「……答え合わせ要員ですか、私は」
「ふふ、頼れる相棒ですよ」
「……店長」
「はい?」
「一番大事なもの、見落としてますよ」
「えっ!? な、何ですか!?」
店長が血相を変えて店内を見回す。
「明日の牛乳の発注です。もう一本もありません」
「ああっ!! 忘れてた!!」
頭を抱えて発注帳へ走る店長の背中を見て、私は思わず吹き出してしまった。まったく、世話が焼ける。
おしぼりを握りしめたまま、私は窓際の特等席を見つめた。
(今日の二人が恋だったかは、土曜日になればわかる。……でも)
慌てて電話の受話器を取っている、鈍感で心優しい店長を盗み見る。
(……こっちの二人は、もう少しわかりやすいと思うんですけどね、店長)
「朝比奈さん! 明日もオープンから入ってもらえたりしますか!?」
「駄目です、明日は二限から講義です。午後までには来ますから」
「わかりました! なんとか午前中は一人で耐えます!」
ため息をつきながら、私は冷めないうちにハニーミルクをもう一口飲んだ。




