06. イヴ・クリーヴランド/前
イヴは異世界からの転生者である。イヴはこのことを、転生してから誰にも言ったことがない。
これはイヴが賢かったからだ。この世界で異世界からの転生者というのが、珍しくないものであるのか、珍しいものであるのかを判断する方法がなかったから、身の安全を考えたのである。
珍しくないものであれば構わないのだけれど、万が一珍しいものであったなら、例えば異世界の知識や、その他のイヴには及びもつかない理由で酷い扱いを受けてしまうかも知れない。イヴはそういうことを考えて、黙っていることを選んだのである。
ちなみに、転生したのが乙女ゲームの世界であることを、イヴは知らなかった。イヴは乙女ゲームであるとか、ライトノベルであるとか、そういうものとは縁のない前世を過ごしてきたからだ。
だからイヴは自分が乙女ゲームのヒロインであるという自覚もなく、ただ前世の記憶があるだけの人間として生き直すことになったのだ。
さて、イヴの前世の話である。イヴは前世では、透明人間であった。
もちろん漫画やアニメの世界のような日本ではなかったので、この『透明人間』というのは比喩である。単純に、前世のイヴは前世の両親から、ほとんどいないものとして扱われていたのである。
イヴの前世は記憶に残っている限りでは、高校生だった。自宅近くの高校に通って、日々のほとんどをバイトする生活をしていた。
これは単純に、学費と生活費を稼ぐためだった。イヴは実家で暮らしていたけれど、イヴに学費や生活費を与えてくれるような両親ではなかったので、自分で稼ぐしかなかったのである。
これを前世のイヴは、幸運だと思っていた。少なくとも家賃や、水道光熱費などは親に甘えることができていたので、世の中に山ほど溢れているであろう家を持たない子どもたちよりもよっぽど幸運であると思っていたのだ。
前世のイヴの両親は、おそらく世間的に見れば、それほど望ましい人間ではなかった。けれど恐らく、珍しい人間でもなかっただろう。
父親はろくな定職にもつかず、酒を飲んで暴れるばかりの生活をしていた。母親は宗教にのめり込んでいて、その宗教の幹部と肉体関係を持っていた。
母親が肉体関係を持っている宗教の幹部から、母親はよくお小遣いを貰っていた。つまりそれが、前世のイヴの家庭の生活費のほとんどだったのである。
父親は母親が宗教にのめり込んでいることも、不倫をしていることも、随分と気に食わなかったらしい。
ことあるごとに母親を殴りつけ、母親からお金を巻き上げた。そしてその巻き上げたお金で、またお酒を買うのである。
父親に殴られて、母親はいつもいつも泣きわめいていた。
けれど例えば殴り返すとか、理性的に反論するだとか、そういうことはしなかった。ただされるがままサンドバッグになって、子どもみたいにわぁわぁと喚いているだけである。
前世のイヴが物心ついたときには、もう前世のイヴの家庭というのはそういうものだった。
だからイヴには、前世のイヴの家庭環境というのが世間一般的にどれくらい悪いものだったのかは、よく判らない。ただなんとなく、良い方ではないのだろうな、と想像するばかりである。
そういう家庭で、イヴは育ったのだ。
といっても、イヴは随分と幸運だったと思っている。
少なくとも両親は、前世のイヴを殺してしまうようなことはなかった。ひとまず中学までは学校にも通わせて貰ったし、一日にパン一個のような生活ではあったけれど食べるものも与えて貰ったのだ。
そしていつもいつも母親を殴っていた父親も、イヴのことはあまり殴らなかった。
これは単純に、子どもの頃のイヴが父親に殴られたときに、本当に死にかけるほどの大怪我をしてしまって、救急車で運ばれて手術になって、とんでもないお金がかかったからである。
つまり父親は、イヴを殴ると面倒なことになると学習したのだ。これはイヴにとって、とてもとても幸運なことだった。
時代が下るごとに親から子どもへの暴力というものに対する世間の視線は厳しくなっていったので、もしも前世のイヴがもう十年だとか遅く生まれていたのなら、前世のイヴはその救急車で運ばれたときに保護されていたのかも知れない。
けれど世間は過渡期で、世の中には面倒事には関わりたくない大人が溢れていた。だから前世のイヴの家庭の問題は、ありとあらゆる大人たちに見て見ぬ振りをされたのだった。
イヴには、特に困ったことはなかった。少ないけれど友人もいたし、バイトは楽しかったし、ひとまず食べられる程度は稼いでいた。
けれどイヴは前世からそれなりに賢かったので、さすがに中卒で生きていくのが難しいということは知っていた。だから色々なことを天秤にかけて、実家に残って、高校に通っていたのである。
イヴは今でも、転生した今でも、当時の自分の判断は間違っていなかったと思っている。
前世のイヴは、透明人間であった。これは家庭での話である。
前世のイヴの家庭はお金がなかったので、ワンルームで無理やり家族三人が生活していた。
そして父親は、いつもいつも酔って暴れては母親を殴りつけている。つまり前世のイヴの文字通り眼の前で、日常的に父親から母親への暴力が行われていたのだった。
父親も、母親も、イヴには眼もくれなかった。いつの間にか、二人の世界からはイヴがいなくなっていた。
殴る父親と、殴られる母親。二人の世界はそれで完結してしまっていて、他者を受け付けなくなっていたのだった。
前世のイヴが話しかければ答えたし、頼めば学校関係の書類にサインもしてくれた。だから、前世のイヴが困るようなことはなかった。
ただ、三人家族の中に、イヴがいなかった。イヴが話しかけない限り、父親と母親は二人の世界で閉じてしまっていたのだ。
父親は母親を灰皿で殴りつけたし、包丁を突きつけたし、小さな小さなちゃぶ台を持ち上げて振り回した。そういうときの父親はいつも狂ったような眼をしていて、いつもいつもイヴが、父親のことを化け物のようだと思うのである。
けれど、部屋の隅で膝を抱えてさえいれば、イヴには害がなかった。父親が暴力を振るうのは、母親に対してだけだったからである。
だから前世のイヴは、いつもいつも部屋の隅で膝を抱えて、体を丸めて、イヤホンで音を遮っていた。新しいCDを買う余裕なんてないから、何年も前に飛び降りるような気持ちで買ったCDをセットして、聞き飽きたメロディを爆音で流して、部屋の雑音を遮っていたのである。
そして前世のイヴの手元には、いつでも教科書や、図書館で借りてきた本があった。
勉強をしたりだとか、本を読んだりだとか、そういうことだけが、前世のイヴの逃げ場所だった。狭い狭い部屋で周囲の騒音に膝を抱えているときにだって、勉強をしていればイヴはどこまでも深い知識の海に潜っていけたし、本を読んでいれば翼が生えたようにどこまでも広い世界を飛んでいけたのだ。
イヴに、困ったことはなかった。イヴは生きることに満足していた。
イヴに不足はなかった。イヴは自分が幸運で、幸せであると思っていた。そう思っていないと、生きていけなかったからだ。
前世のイヴは学校では、優等生で通っていた。何しろ自由時間はほとんど勉強をしているか本を読んでいるので、逆に成績が悪くなりようがないのである。
いつもいつも、学校でイヴが教師に褒められた。飛びきりの優等生だったのだ。
逆に、口さがない同級生たちからは嫌われた。あだ名は『ばい菌』だった。
高校は実家から近い場所だったので、同級生たちにはイヴの家庭事情が知られていた。だから同級生たちは、イヴの穴があいた靴下だとか、洗濯もろくにできなくて真っ黒に汚れた制服のワイシャツだとか、靴底の抜けかけたローファーだとかを見て嘲笑うのである。
イヴは優等生だったので、そういうことを気にしない同級生たちとは普通に友人だった。そういう、ほんの一握りの人びとの優しさに、イヴは生かされていたのだった。
「――さんはちゃんとした子だものね」
クラス担任の、若い女性教師からは、いつもいつもそうやって褒められた。
実のところこのクラス担任は、前世のイヴの親と揉めたことがある。
教師と生徒と保護者で行う三者面談のときに、イヴは一人で参加するつもりだったのに、新任だったこのクラス担任がイヴの実家に電話をかけるという余計なことをしたのである。
よりによって、学校に来たのは父親だった。母親はまた、宗教幹部のところに行っていたらしい。
父親の機嫌は悪かった。真っ昼間だったのに酔っていた。
そして父親は、クラス担任とイヴのことをさんざんに罵倒し、若い女性教師であったクラス担任を卑猥な言葉で侮辱し、騒ぎを聞きつけて助けに入ろうとした別のクラス担任の男性教師に殴りかかって大騒ぎになったのだ。
結局父親は、学校の男性教師四人がかりで押さえつけられて、強制的に帰らされることになった。
警察を呼ばれなかったことも、高校を退学にならなかったことも、前世のイヴにとっては幸運なことだった。
もしもそんなことになっていたら、前世のイヴは本当に、途方に暮れていただろう。だからこの判断はそういうイヴを哀れんだ、教師たちの判断だったのかも知れなかった。
それ以来、クラス担任はイヴの家庭には関わってこようとしない。ただ愛想良く微笑んで、イヴの成績や、生活態度の良さを褒めるだけだった。
それでも、イヴに不満はなかった。まぁそうなるよね、と納得しただけである。
前世のイヴの学業や、進路の相談にはよく乗って貰っていたし、雑談なんかもしていたので、前世のイヴはそのクラス担任をそれなりに信用していた。
さて、前世のイヴが亡くなったのは、とある男に刺し殺されたことによるものである。
自分でも意味が判らないけれど、痴情の縺れであった。この言い方が合っているのか、イヴにはいまいち判らなかった。
相手の男は、イヴのバイト先のカフェの常連客だった、らしい。刺し殺される直前に男にそんな主張をされたけれど、イヴには心当たりがなかった。
何しろイヴがバイトに入っている数時間の間だけでも、何十人もの客を捌くのである。ましてやイヴは客の顔にはそれほど興味がなかったので、よっぽど愉快なマダムだとか、あきらかに自由人の風体をして何時間も居座っていた(もちろんきちんと追加注文してくれていた)自称作家だとか、そういう常連客くらいしか覚えていなかったのだ。
つまり犯人の男のことなどイヴの印象には残っていなくて、おそらくは一見客と同じ対応をしていたのだろうということしか判らなかったのである。
だというのに、その男は、一方的な勘違いをしたらしい。イヴのバイト上がりを狙って、店の前で待ち伏せて、いきなり薔薇の花束を渡してきたのだ。
当然、イヴは困惑した。同じタイミングで店を出た同僚が、慌てて店の奥に店長を呼びに行くのが見えた。
変質者か、人違いか、イヴに思いついたのはそれくらいだった。だからイヴはなるべく刺激しないようにして、愛想笑いを浮かべて、問いかけたのである。
「えぇと、どなたかとお間違いじゃないですか?」
「勘違いなわけがない、――ちゃんだろ!」
男性客が口にしたのは間違いなくイヴの前世の名前で、だからイヴは途方に暮れて、困惑したのである。
そんなイヴの様子を見て、男性客は目の色を変えた。
「俺のことを弄んだのか!」
「えっ、違っ」
前世のイヴは慌てて否定した。何しろ男の顔も覚えていなければ、名前も知らないのだ。
けれどすでに男は、話の通じる状態ではなかった。そうして逆上した男によって、隠し持っていたナイフで、あっさりと前世のイヴは殺されたのだった。
これはイヴが転生してから気づいたことだが、よくよく考えればおかしな話だった。そもそもあの男は、告白するのにどうしてナイフを持ち歩いていたのだろうか。
普段からナイフを持ち歩いているような異常者でなければ、あの男はあのときにだけナイフを持っていたことになる。であればおそらくあの男は、最初から前世のイヴに告白を断られたら殺すつもりだったのだろうと思われた。
そういう、はた迷惑な理由によって、前世のイヴは殺されることになったのだ。
うっかり13,000文字とかになってしまったので、これも前後編に分けます! 大したお話じゃないのに長々と書いてしまって済みません、ふわっとお読みください、ふわっと
これ本来はイヴと両親の邂逅のお話があって、イヴ視点の語りで終了という予定だったのですが、先にイヴ視点のお話を書いてしまったのでこちらを先に投稿します。連載じゃなくて連作ですからね!(言い訳)思いついた順に書きます
おそらく、たぶん、きっと、次にイヴと両親の邂逅があって、そこで終わりのはず、、気力があれば書きます。もうここまで来たら書ききりたい所存です。わたしの気力が続くのを祈っておいてくださると幸いでございます
いじょいじょでございます! 続きをどうぞ→




