第32話 高地と千里眼
未開の森開拓の一員となってから、数週間が経過した。
俺たちは村の大人たちからの狩人としての信頼を順調に勝ち取っていた。
『浅層エリアから出ないこと』『夕暮れ前には必ず帰ること』。
この二つの条件と引き換えに、俺とバルドはついに「二人だけでの森の立ち入り」を公認されたのだ。大人たちからすれば、安全な浅瀬で確実に食料を調達してくる優秀な働き手といったところだろう。
だが、俺たちのターゲットは浅瀬の獲物ではない。
大人たちの監視という鎖が外れた今、俺たちが優先すべきミッションを実行に移すことにした。
鬱蒼とした森の奥。
周囲に完全に誰もいないことを確認し、俺は地面の腐葉土をブーツで退け、木の枝で簡易的な地図を描いた。
「……行商人からの情報では、この国と北西の国との衝突は長く膠着状態が続いているらしいが、この村には大きな影響はないという話だ」
「そうだな。村の大人たちも全く危機感を持っていない」
「が、誰に聞いても、その安心の根拠は乏しい」
「大人たちは『北には山岳地帯があるから軍は越えてこない』『この村の北の国は小国だからこの国を攻めることはできない』『戦争中の国は王都の北の国境線に釘付けになっている』と言っているな」
「……あぁ。まったく信用できない。できることなら、俺たちの足で状況を確認しに行きたいが、俺たちは当面この村から出ることは難しいだろう」
「……そうだな。まだ『子ども』、だからな」
「だからこそ、あの『山頂』を目指す」
俺は枝の先を、開拓の森のさらに奥にそびえる、ひときわ高い山の頂へと突き立てた。
「あの絶対的な高地——標高3000メートル級の山頂に立てば、北の国境の山岳地帯の裏側まで広域俯瞰できる。有事の際に村の連中を逃がすにせよ、どこで迎撃するにせよ、あの山頂からの視界が絶対に不可欠だ」
「理屈は完璧だ。タイラント・ベアっていう最大の障害も排除した今、あの山までのルートは開かれている。……だがアル、いくら高い山に登っても、人間の肉眼じゃ数十キロ先なんてはっきり見えねえぞ」
「そうだな。商人に探りを入れたが、この世界にスコープは存在しなさそうだ。だから、魔法で実現する必要がある」
「……そう言うということは、すでに考えがあるのか?」
「理論上は可能だ。……実際にやった方が早い」
俺は右手を顔の前にかざし、精密な演算を開始した。
眼球から数十センチ前方の空間にかけて、『屈折率の異なる薄膜』を形成し、凸レンズと凹レンズを組み合わせた望遠鏡(光学系)を空中に構築する。
「対象までおよそ2000メートル、空気の揺らぎを補正。……上空の太陽からの乱反射がキツいな」
俺は脳内の演算式に、数行の補足コード(イメージ)を走らせた。
「魔導レンズの表面に偏光のスリットを刻み、波長550ナノメートルを中心に光の透過率を減衰……よし。これで網膜は焼けない。強烈な逆光の中でも、白飛びせずに遠くの怪鳥の顔が見えるぞ」
俺が数秒かけて構築した『外部レンズ』越しに、遥か遠くの景色が鮮明に網膜へと飛び込んでくる。
「……すげぇな」
「維持する集中力が要るし、光が差せばレンズが反射して敵に位置がバレる。それに、眼球の水分を極端に消費するから、長時間は使えないドライアイの極致だ」
「……相変わらず理屈っぽい魔法だな。俺には真似できそうにない」
「…バルドにしかできない、別のアプローチも考えてある」
俺は自身の魔法を解除し、バルドの両目を指差した。
「お前の天才的な身体センスを使う。『目』そのものを一瞬だけ望遠鏡に変形させるんだ」
「……目を、変形させる?」
「ああ。眼球の内圧を高めて水晶体を歪ませ、同時に視神経の処理速度を数ミリ秒だけ爆発的に加速させる。ずっと見続けるんじゃなく、カメラのシャッターを切るように一瞬だけ遠くを見て、その残像を脳に焼き付ける『ストロボ・サイト』だ」
「……なるほどな。理屈はサッパリだが、どう筋肉を締めればピントが合うかは、感覚でやってみるか」
バルドはニヤリと笑い、標的の方向へ顔を向けた。
「……いくぞ」
バルドの瞳孔が一瞬、針の穴のように極限まで収縮した。
強烈な光から網膜を守るための異常な速度の瞳孔反射。それと同時に眼球の内圧を高めて望遠モードに変形させ、視神経を強制駆動する。
「……あー、いたいた。2キロ先の怪鳥、嘴に虫を咥えてやがる。……悪い、逆光を気合で耐えたから、ちょっと目がチカつく。次は30秒後だ」
バルドがパチパチと瞬きをしながら、数秒前に俺が捉えたのと同じ情報を、一瞬の直感と身体操作だけで引き出してみせた。
「野生の勘と天才的な身体センス……俺には真似できない。情報が断片化するが、魔力の兆候が出ない分、隠密性と即応性はお前の方が上だな」
俺たちは不敵に笑い合い、目的と手段を共有した。
「今日はあくまで『強行偵察』だ。夕暮れまでに村に戻るという条件を守りつつ、どこまで山に肉薄できるかのタイムトライアルになる」
「ペース配分は任せろ」
俺たちは気配を極限まで殺し、高速で山へ向かう。
二つの影が、弾かれたように森の深奥へと飛び出す。
かつてタイラント・ベアの痕跡に撤退を余儀なくされた死の森。だが、その絶対的な覇者を狩り尽くした今、俺たちを阻む脅威はない。遭遇する下級の魔獣は立ち止まることすらせず、無音の連携で沈め、ひたすらに先を急ぐ。
息の詰まるような強行軍を数時間続け、標高が上がり始めた頃。
「……アル、ストップだ。時間切れが近い」
先頭を走っていたバルドが太い枝の上に飛び乗り、頭上の葉の隙間から太陽の位置を確認して言った。
「現在地は?」
「山の五合目ってところだな。ここから急斜面が始まる。頂上までは、急いでもあと二時間はかかる計算だ」
俺は息を整えながら、頭上にそびえる3000メートル級の巨峰を見上げた。
物理的な距離と標高差が、10歳の子供の脚力を残酷に浮き彫りにしている。
「……往復の時間を計算すれば、夕暮れまでに村へ戻れる限界点はここか」
「ああ。これ以上進めば、帰還が夜になる。そうなれば、父さんたちが松明を持って総出で森を捜索しに来る大騒ぎになるぞ」
山頂の景色を見るためだけに、親の愛情と「優秀な子供」というアリバイを捨てるわけにはいかない。
「ルートの安全性と、必要な所要時間は把握した。今日の強行偵察は大成功だ。……撤収しよう」
「了解。手ぶらで帰るわけにもいかねえし、帰りがけに手頃な獲物をいくつか狩っていくか」
夕闇が迫る森を、俺たちは来た時と同じ超高速のペースで引き返す。
(日帰りでの登頂は不可能。ならば、夜通しで山を制覇するための『正当な理由』が必要になる……)
風を切って走りながら、俺の脳内はすでに、大人たちの目を欺き、「一晩の野営許可」をもぎ取るための新たな盤面の構築へと移行していた。




