第33話 世界の輪郭と、見えざる足音
「お願いします。バルドと二人で未開の森で『野営』をさせてくれませんか」
夕暮れ時。村へ帰還した俺たちは、その足で父さんと母さんに直談判を行った。今頃、バルドも両親を説得しているはずだ。
当然、父さんは渋い顔をした。夜の森は視界が利かず、魔獣の活動も活発になるからだ。森の怖さを知っているからこそ、簡単には許してくれない。
「……理由はなんだ? お前たちの腕なら浅瀬の魔獣は問題ないだろうが、わざわざリスクを冒す必要はないはずだぞ」
「どうしても手に入れたい素材があるんです。森の山の方向に、夜明けの露を吸った時にしか薬効を持たない『月光草』の群生地を見つけました。その場所で一晩明かして、明日の朝に摘み取りたいんです。王都の行商人が、薬の材料として高値で買い取ってくれるらしくて」
俺は息を吐くように、嘘を構築して二人を説得にかかる。
「……だめだ、やはり危険すぎる。いくらお前たちが特別でも、まだ子どもには変わりない」
「絶対に無理をしないと約束します。無理だと判断したらすぐに逃げる。……どうか、お願いします」
「……いいんじゃないかしら」
危険だと心配する父の横で、予想外に母が援護してくれた。
「我が儘を言ったことのないアルが、はじめてあなたを説得してまでチャレンジしたいことができた。私はそれを応援してあげたい」
にっこりと微笑む母さん。その言葉は、純粋な親心から出たもののように聞こえる。
(……意外だ。森の危険性を知っているはずの母さんが、こんなにあっさり許可を出すものか?)
だが、その静かな瞳は子を思う母親のものにしか見えない。かすかな違和感を胸の奥にしまい込み、俺は深く頭を下げた。
「……母さん。ありがとう」
「ただし、ぜったいに二人とも無事に帰ってくること」
「もちろんです。必ず二人とも無事に戻ります」
「……わかったよ。だが、絶対に無茶をするなよ。失敗しても月光草をとるチャンスはまたくる。無理だと思ったときは迷わず逃げてきなさい」
「はい。約束します。父さん、母さん、ありがとう」
そして、数日後の晴れた日の朝。
俺たちは山を目指して出発した。
大人たちの監視が完全に外れた俺たちは、日中のうちに安全な森を最速で駆け抜け、夕暮れ前には標高3000メートル級の巨峰の麓へと到達していた。
そして、太陽が沈み、真の闇が訪れる。
ここからが本番だ。月明かりすら届かない漆黒の斜面を、俺たちは前世で培った極限のフットワークとペース配分を駆使して、無音で登り始める。
「……ハァ、ハァ……ッ!」
山の五合目を越え、斜面が牙を剥き始めた。
森林限界を突破し、身を隠す木々が消え失せた岩肌のルート。高度が上がるにつれて酸素が薄くなり、10歳の未成熟な肺と心臓が破裂しそうなほどの悲鳴を上げる。
だが、止まらない。俺たちの前世で培われた狂気的な忍耐力が、肉体の限界を強制的に凌駕し、ただひたすらに頂へと歩を進めさせる。
そして――。
空が白み始め、夜明けの冷たい風が頬を叩いた時。
俺たちはついに、目的の座標(山頂)へと到達した。
「……着いた、ぞ」
「ああ……」
息も絶え絶えになりながら、俺とバルドは岩場に座り込み、眼下に広がる景色を見下ろした。
朝日に照らされ、世界がその輪郭を現す。
東を見れば、地平線の彼方まで続く緑の海(未開の森)。さらにその奥には、今登ったこの山すら霞むほどの巨大な大山脈が天を突くようにそびえ立っている。
「…………」
息が整うまでの間、俺たちは黙ってその景色を眺めていた。
西を向けば、俺たちが暮らす小さな開拓村と、その先に点在する王国の街並み、そして網の目のように広がる街道がうっすらと見えた。
「……おい、アル。なんだ、この世界の広さは。前世の開拓惑星よりタチが悪いぞ」
バルドが、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな声で呟いた。
「ああ。村の大人たちはあそこが世界の端だと思ってたようだが……俺たちが苦労して攻略したこの山は、ただの『スタート地点の玄関マット』だったってことだ」
俺の言葉に、バルドが短く笑った。
「どうした? 絶望したか?」
「いや」
バルドは立ち上がり、地平線の彼方を見つめながら言った。
「前世じゃ、軌道上から数秒でマップをダウンロードして、命令された座標に降りて、敵を殺して帰るだけの人生だった。だが今は、これだけクソ広くて不便な世界が広がってるのに、俺たちに『行け』と命令する上官はどこにもいないんだぞ」
「……なるほど。なら、俺たちが自分たちの足と意思で、この面倒くさい世界を全部マッピングしてやる(遊び尽くす)しかないな」
俺の脳内で、これまで俺を縛り付けていた前世のシステム(鎖)が、音を立てて砕け散るのを感じた。
俺にとって、「未知・不確定要素」とはすなわち「任務失敗」や「死」に直結する最大のストレス要因だったはずだ。
「……なあ、アル。このクソ広い世界、どれくらいで制圧できると思う?」
「……分からないな」
俺は朝日に目を細め、胸の奥から湧き上がる熱い感情を吐き出した。
「だが……分からないことが、こんなにも不快じゃないのは初めてだ」
俺たちは顔を見合わせ、声を出して笑った。
前世の「犬(軍人)」から、自分たちの意思で生きる「人間」へと生まれ変わった、最高に自由な瞬間だった。
――だが、その圧倒的なカタルシスは、唐突に終わりを告げた。
「……アル」
笑い声を収めたバルドの声が、極限まで冷え切ったプロのそれに変わっていた。彼の視線は、村の北側——越えられないはずの『北の山岳地帯』へと向けられている。
「どうした」
「……確認してくれ。俺の気のせいならいいんだが」
俺は即座に右手を顔の前にかざし、魔法を構築した。
「……スコープ」
『外部魔導レンズ』を発動し、朝日の乱反射をカットして、この山からしか見ることのできない、数十キロ先の北の山岳地帯の裏側を覗き込む。
「……ッ!」
俺は息を呑んだ。
大人たちが「天然の防壁」だと信じて疑わなかったその山脈の裏側には、小〜中規模の部隊なら容易に行軍できる『なだらかな峠道』が存在していた。
そして何より――そのルート上の森の一部が不自然に伐採され、うっすらと、しかし確実に『人が入った痕跡(少人数の野営の跡)』が、国境側からこちらへ向かって点在しているのを、はっきりと捉えていた。
「どうだ、アル」
「……お前の目の良さを呪うよ。ビンゴだ。大規模な軍じゃない。少人数の工兵部隊か測量隊が、密かに道を切り開いてる」
俺はレンズを解除し、感情を完全に殺した声で告げた。
「北の小国……いや、おそらくその背後にいる敵国の軍隊だ。奴らはこの抜け道を使って、村を背後から強襲する『大迂回ルート』を密かに構築しようとしている。……今はまだ道の開拓段階だが、これが繋がり条件が揃えば、確実に軍がなだれ込んでくる」
「時期はいつ頃になりそうだ?」
「……すぐではない。少ししたら冬がくる。あの標高なら、冬になれば雪で峠道が塞がり、行軍は難しくなる。あのルートで本気で奇襲をかける気なら、雪がとけた後、『春』に仕掛けてくる可能性が高い。確実な猶予は数カ月程度だろう。しかし、このままでは、村の大人たちにとっては、防ぐ間もなく一瞬で蹂躙されることは確実だ」
「……行くぞ、バルド。下山だ。途中で親父たちへの言い訳用の『月光草』を摘んで帰る」
「ああ、分かってる」
山頂の冷たい風が、俺たちの間を吹き抜ける。
たった数分前まで感じていた「自由への歓喜」は消え失せ、俺たちの脳内は即座に、いつ来るか分からないその日に向けて、冷徹な『防衛・退避計画』の構築モードへと切り替わっていた。




