第21話 強行偵察
村の広場にある半鐘がけたたましく鳴り響いたのは、数日前の夕暮れ時のことだった。
猟師の報告により、村は『正体不明の脅威』への警戒態勢に入った。自警団は南門と西門を固めると同時に、特に脅威が潜む森がある北側と東側の防壁沿いに、夜通しで見張りを立たせている。
だが、俺とバルドにとって、大人たちのこのパニックは『極上の目くらまし』でしかなかった。
「……自警団のおっさんたち、一日中警戒しているな」
「ああ。だが、指揮も歩哨も素人だ。巡回のルートも間隔も規則的すぎるし、たった数日であきらかに疲労と油断が生じている」
翌日の早朝。
俺たちは、二人の見張りの視線が交差して逸れるブラインドスポット(わずか数秒の警戒の隙)を正確に突き、自宅の裏手から丸太の防壁を音もなく乗り越えた。
そのまま朝靄に紛れ、村の東――兄さんたちが日々木を切り倒している『開拓の森』へと足を踏み入れる。
俺たちの第一の目標。それは、この開拓の森のさらに奥にそびえる『山』の登頂だ。近隣で最も標高の高いあの山であれば、周辺の地形構造を正確に把握できるはずだと判断した。
大人たちが安全を確保した伐採エリアを抜け、さらにその奥――村の大人たちが定期的に見回っている『警戒区域(緩衝地帯)』をも、俺たちは無音の歩行術でパスする。
やがて、猟師たちが木に刻んだ目印が完全に途絶えた。
そこから先が、大人たちすら立ち入らない、文字通りの『未踏領域』だった。
腐葉土の深さが変わり、空気を満たす魔力の濃度が跳ね上がる。
日の光すら遮る巨木の群れが、俺たちを拒絶するように立ち塞がっていた。
ふと、先頭を歩いていたバルドが右手を挙げ、拳を握った。
停止のサイン。俺は即座に姿勢を低くし、気配を断つ。
頭上だ。
巨木の太い枝葉の陰に、二つの影が張り付いていた。
警戒区域には決して降りてこない、樹上からの奇襲に特化した中型魔獣『フォレスト・パンサー』。北の森にいたシャドウウルフよりも遥かに敏捷で、立体的な動きで獲物の首を狩る捕食者。
奴らの筋肉が収縮し、殺気が膨れ上がった瞬間。
「――『ブースト』」
頭上から降ってきた一頭に対し、バルドが短く呼気を吐き出して迎撃に出た。
魔力の強制駆動と極限の踏み込みによる無音の超加速。同時に、右手に握られた肉厚なファルシオンが恐ろしい風切り音を立てて真横に一閃される。
ギィィンッ!!
刃物で肉を斬る音ではない。鉄の塊が激突するような鈍い破砕音。
極端な前重心と分厚い刃を持つそのファルシオンは、バルドの放つ理不尽な膂力と遠心力を100%の破壊力に変換し、毛皮の価値を損なわないよう、フォレスト・パンサーの頭蓋骨だけを空中で正確に粉砕した。
もう一頭が、仲間の死など意に介さず、俺の死角を突いて鋭い爪を振り下ろしてくる。
俺は姿勢をさらに低く沈め、特注のカランビットナイフを握った右手で、その前肢を下から弾き上げるように受け流す。
内側に湾曲した刃と、指を通すリング。敵の攻撃を弾いた直後、俺は手首の返しだけで流れるように刃の向きを変え、パンサーの腕に引っかけて強引に俺の懐へと引きずり込んだ。
完全に無防備となった、顎の下、ゼロ距離。
「――『ショット』」
ヒュッ。
亜音速で放たれた高密度の質量弾が、ゼロ距離からパンサーの脳幹を正確に撃ち抜く。
ズキリと手首に反動が走るが、指を通したカランビットのリングで武器を完全にホールドし、肘と肩の関節をサスペンションにして全身へ衝撃を受け流す。汎用のサバイバルナイフでは、衝撃ですっぽ抜けてこうはいかない。
音もなく、二頭目のパンサーが俺の足元に崩れ落ちた。
「……クリア。周囲に他の敵影なし」
「上出来だな。新しいオモチャのテストとしては申し分のない相手だ」
俺たちは手早く魔獣の解体に取り掛かる。
「ファルシオンの質量と、カランビットの近接制御。これで俺たちの当面のスタイルは最適化されたな」
「ああ。重さも刃の厚みも完璧だ。前の長剣みたいに、振った時の刃こぼれや歪みを気にする必要がない。……よし、片付いた。進むぞ」
血の匂いが森に広がる前に、俺たちは血塗れの麻袋を担ぎ、未踏領域のさらなる奥へと無音で歩みを進めた。
それから何度か交戦し、二時間ほど進む。
警戒を強めながら山の麓へと接近した時のことだった。
森の空気が一変した。
鳥の鳴き声がしない、重く淀んだ静寂。
再びバルドが『停止』のサインを出す。
「……ひどい悪臭だな」
「ああ。血と内臓の腐った匂いだ。……見ろ、アル」
バルドが顎で示した先。地上から五メートル近い高さにある太い木の枝に、巨大な魔獣の死骸が『引っ掛かって』いた。
あの装甲特化のアーマーボアだ。だが、その分厚い鋼皮はまるで紙くずのようにねじ切られ、強引に引きちぎられている。
「……あれほどの質量の化け物を、あんな高さまで放り投げたのか」
知能ある群れの仕業ではない。純粋で暴力的な『個』の力の痕跡だ。
俺は短剣の腹で地面の土を軽く退け、足跡の深度と形状を確認した。
「……四足歩行の巨大な獣。体重はアーマーボアの二倍、いや三倍以上か。爪痕の深さから見て、前肢の筋力が異常に発達している」
「大木につけられたマーキングの爪痕も、バルドの身長の倍以上の高さにある。爪痕の高さ、装甲を引き裂く膂力……熊か、それに類する超大型の変異種だろうな」
未踏領域の奥深くに潜む、俺たちの想定をはるかに超える『理不尽な質量』。
バルドが視線だけで俺に問いかける。『どうする?』と。
俺の脳内で、状況の演算が行われる。
現在の俺たちの武装と、最適化した魔法。対して、アーマーボアの絶対装甲すら紙くずのように引き裂く、圧倒的な質量と膂力を持った未知のバケモノ。
奇襲をかければ、あるいは勝てるかもしれない。
だが、無傷で制圧できる確率は著しく低い。もし相手の生命力が俺たちの火力を上回っていれば、あの丸太のような腕の一撃を掠るだけで俺たちの骨は粉砕される。
ここでこの未知のバケモノと無謀な交戦を行い消耗すれば、最大の目的である「山の登頂ルートの開拓」に致命的な遅れが生じる。最悪の場合、重傷を負って母さんの尋問に引っかかり、計画全体が頓挫するリスクすらある。
軍事における偵察任務の鉄則は、未確認の脅威と無駄に交戦することではない。情報を持ち帰り、次なる作戦を立案することだ。
俺はバルドに向けて首を横に振り、指で背後を指し示した。
『撤退』。
バルドはわずかに口角を上げ、不敵に笑って静かに頷いた。あいつも、俺と全く同じ判断を下していたのだ。血の気が多い前世ならいざ知らず、今の俺たちは目的のために手段を選択できる。
俺たちは足跡を完全に偽装しながら、その場から音もなく離脱した。
開拓の森の奥、あの山の頂へ至る道には、まだ俺たちの火力を超える強大な単体の脅威が蓋をしている。
だが、絶望感はない。むしろ、あの理不尽な質量をどうやってキルするかという思考が、俺の脳細胞を熱く焦がしていた。
「……どうやら、デカイ『手札(魔法)』を準備する必要がありそうだな」
冷たい森の空気を肺に吸い込みながら、俺たちは村の北東の防壁へと続く帰路を駆け抜けた。




