第20話 森に潜む脅威
(※とあるベテラン猟師の視点)
この森には、……何かがいる。
俺はこの開拓村で三十年、猟師をやっている。
森の気配を読み、獣の痕跡を辿り、村に肉と毛皮をもたらすのが俺の仕事だ。長年森に入っていれば、足跡ひとつ、折れた枝一本からでも、そこで『何が起きたか』を正確に読み取ることができる。
今日、村の東にある浅い森を見回っていた時のことだ。
そこは未開の森から少し離れた場所にあるが、時折迷い込んだ魔獣が出るため、子供たちは絶対に近づかないよう厳命されている領域だ。
ふと、風に乗って微かな血の匂いがした。
(……近いな。新しい血だ。それも、かなりの量だ)
俺は気配を殺し、愛用の弓に矢を番えながら慎重に茂みを掻き分けた。
そして、開けた獣道に出た瞬間、思わず息を呑んだ。
そこには、中級魔獣である『鎧猪』が絶命して倒れていた。
異常に硬い鋼皮の装甲と狂暴性を持ち、森の覇者であるシャドウウルフの群れですら絶対に手を出さない防御力特化のバケモノだ。討伐には熟練の冒険者5人がかりでようやく倒せるかどうかという代物。だが、俺が驚いたのはその死骸の存在ではない。
あまりにも『綺麗』すぎたのだ。
普通、獣同士の争いや、冒険者の狩りであれば、周囲の土は荒れ、木々はなぎ倒され、激しい死闘の痕跡が残る。だが、周囲の土には無駄に踏み荒らされた跡が一切ない。
それどころか、鎧猪が突進してきたであろう直線上の『邪魔な太い枝とツル』が、何かにまとめて綺麗に薙ぎ払われていた。
俺は死骸に近づき、しゃがみ込んで傷口を調べた。
鎧猪の硬い頭部の装甲が、頭蓋骨ごと『一撃』で叩き割られている。
「……なんだこれは」
思わず声が漏れた。あのシャドウウルフの牙すら容易く弾き返す絶対の装甲だぞ。異常な重量の刃物を、恐ろしい速度と完璧なタイミングで叩きつけなければ、これほど綺麗に骨は断てない。
だが、俺の背筋を本当に凍らせたのは、その一撃ではない。
頭を割られるよりも先につけられたであろう、もう一つの『致命傷』だ。
鎧猪の喉元の、装甲の隙間にあるわずかな柔らかい部分。そこに、奇妙な刺し傷があった。
ただ真っ直ぐ刺したのではない。特殊な湾曲した刃物を突き立て、そのまま手前に引きちぎるように『抉った』痕だ。
獣が痛みに気付く間も、仲間に危険を知らせる悲鳴を上げる暇すらも与えず、一瞬で声帯と頸動脈だけを正確に破壊している。
(そこらの盗賊たちにはできない……王都の暗殺者ギルドか? いや、最前線の特殊な傭兵部隊が、この森に潜んでいるのか?)
冷や汗が頬を伝う。
戦いの痕跡から推測される手際は、人間業とは思えないほど洗練されていた。
致命傷を与え、反撃を許さず、一切の無駄なく命を刈り取る。これは戦いではなく、完璧な『処理』だ。
俺は警戒を最大に引き上げ、死骸から続く足跡を探した。
……おかしい。足跡が見つからない。
いや、違う。俺は地面に這いつくばるようにして土を睨んだ。
足跡がないんじゃない。体重をかけない歩法で岩や木の根だけを渡り歩き、どうしても土を踏む場所は、意図的に『木の枝で掃いて偽装』されている。三十年の猟師の目で、あるはずだと探してギリギリ違和感に気づけるレベルの、完璧な証拠隠滅だ。
(こんな真似ができる人間が、この村の近くにいるのか……!)
俺は全身に脂汗をかきながら、その「幽霊」の痕跡を必死に追った。
偽装された痕跡は、森から続く小川――村の子供たちがよく遊んでいる小川の方へと続いていた。
弓を引き絞り、木陰から息を殺して川辺を覗き込む。
そこにいたのは、黒装束の暗殺者でも、歴戦の傭兵でもなかった。
村の東外れに住む、今年で9歳になるあの二人組の坊主たちが、ただ小川で汚れを洗い流しているだけだった。今はまわりに他の子どもたちは見えない。
(なんだ、村の子供か……いや、待て。あの偽装された痕跡は確かにここまで続いていたはずだ……。)
俺が茂みの奥で眉をひそめ、さらに息を潜めた、その時だった。
小川で手を洗っていた綺麗な顔の坊主が、不意にこちらを振り向いた。
いや、ただ振り向いたのではない。俺が完璧に気配を殺し、風下に潜んでいる『木陰のど真ん中』を、寸分の狂いもなく見透かして、自然な声で話しかけてきたのだ。
「おじさん。森の奥から来たんですか? あんなに分かりにくい痕跡を迷わず辿ってこれるなんてすごいですね。さすが、村一番の猟師だ」
「……え?」
俺は息を呑んだ。
なんだ、今の言葉は。それに、なぜ俺の居場所がわかった?
猟師の俺の本気の隠密だぞ。小枝一つ踏まず、呼吸すら風の音に紛れさせていたというのに。
隣にいたガタイのいい坊主もこちらを向き、無邪気な顔でニッと笑った。
「おじさん、すごい険しい顔してるぜ。森の奥で、何か『ヤバい獲物』でも見つけたのか?」
「あ……いや、俺は別に……」
俺が混乱のあまり言葉に詰まっていると、村の方から声が響いた。
「二人ともー! お願いしてた農具洗い、終わったー?」
あいつらの母親たちの、のんびりした声だった。
「今行くよ!」
「今行くー!」
二人は年相応の子供らしい声を張って返事をすると、小川から上がり、「じゃあね、おじさん」と手を振って村の方へ走って行った。
静寂が戻った森で、俺は一人、弓を下ろして顔の脂汗を拭った。
……落ち着け。冷静になれ、俺。
あいつらは親に頼まれた畑仕事の農具を、村の外の小川で洗っていただけだ。
俺を見つけたのも、痕跡を見失って俺が動揺し油断した瞬間に偶然こちらを見たんだろう。
9歳の子供たちが、あの巨大な鎧猪を一撃で処理できるわけがないし、足跡をあそこまで完璧に偽装するなんてありえない。
そうだ、俺が追っていた痕跡は、東の森から村へ向かって潜入してきた何者かの足跡が、偶然あいつらの遊んでいた小川の近くで途切れていただけに違いない。微かな血の匂いも、錆びた農具の鉄と泥の匂いを、俺が過敏になって錯覚しただけだろう……。
だが……だとすれば。
あの恐ろしい殺しを行い、足跡を完璧に消し去った『本物のバケモノ』は、一体どこへ消えたというんだ?
森に何かがいる……。
俺は背筋に氷を当てられたような悪寒を感じ、震える手で弓を握り直した。
急いで村長と自警団に報告しなければならない。村の警備と東の森の警戒を強めろと。
この平和な開拓村に、正体不明の恐ろしい脅威が、すぐそこまで迫っているかもしれない。




