第18話 戦術短縮詠唱(タクティカル・コード)
北の森。
腐葉土の臭いに混じって、獰猛な獣の臭気が鼻を突く。
俺とバルドは、一切の無駄口を叩かず、即座に互いの死角を補うように背を向け合った。
療養明けの初狩り。獲物は北の森の生態系の頂点に君臨する『シャドウウルフ』だった。
一頭であれば複数のベテランハンターでも狩ることができるが、遭遇したのは三頭だ。普通の村人たちなら、遭遇した瞬間に死を覚悟する絶望的な数。
だが、陣形を見る限り群れのボスは不在。各個体の索敵範囲が完全に重なる前に、連携して処理する。
――パキッ。
俺が僅かに小枝を踏んだ音が、開戦の合図となった。
正面の一頭が、俺に向かって一瞬で距離を詰めてくる。通常の人間の動体視力では、黒い残像にしか見えない突進だ。
だが、同時に背中合わせのバルドが、反対の一頭に向かってシャドウウルフを超えるスピードで接近する。
あいつは長剣を構え、短く呼気を吐き出し、
「――『ブースト』」
ドンッ、というような派手な踏み込み音や、土塊の飛散などは一切なかった。
ただ、今までそこにあったはずのバルドの姿が、ブレて消失した。
現実世界に定義されていないままの魔法の推進エネルギーを、己の肉体の内側だけで暴発させる『コントロールされた自爆』。自らの骨と筋膜をシリンダーとし、魔力の強制駆動で肉体を弾き出すその理不尽な身体強化は、現実世界に魔法の痕跡を残さないという暗殺のチートコードを成立させる。
圧倒的スピードでシャドウウルフの死角、左後ろ足の脇に現れたバルドは、らしくなく若干バランスを崩した。あまりにも理不尽な急加速に、上半身の重心移動がコンマ数秒遅れたのだ。
予想外のスピードにバルドを見失っていたシャドウウルフが、その一瞬の隙で立て直し即座に反転。体勢の崩れたバルドの喉笛へと襲いかかる。
だが、バルドは焦るどころか、その崩れた重心を逆手に取った。
敢えて身体の力を抜き、さらに深く沈み込むことで鋭い噛みつきを紙一重で回避。そのまま下半身のバネを開放し、長剣の柄頭を獣の頚椎へと、完璧な一撃で打ち下ろした。
ギャンッ!?
骨が砕ける鈍い音。完全な一撃。
同胞の異常な瞬殺と、音もなく空間を跳躍したバルドの存在に、残り一頭(三頭目)の視線が強烈に引きつけられる。
だが、そこは森の頂点に立つ捕食者だ。本能が、得体の知れないバルドではなく、現在交戦中で脆弱に見える小さな子供(俺)の背後を標的として選択する。
距離をとり、遠距離から『ファイアーボール』や『ウィンドカッター』などの高火力魔法で焼き払うのは簡単だ。だが、それでは毛皮や魔石といった素材の価値が暴落する。
ならば、やることは一つだ。俺は腰から特注の鋼の短剣を抜き放ち、姿勢を低くした。
俺の正面に迫った一頭目が、低空の跳躍で仕掛けてくる。
俺は指先に属性・構造変換した高密度の土の弾頭を形成しながら、シャドウウルフの鋭い牙を短剣の腹で滑らせるように「いなし」、その突進の巨大な運動エネルギーを利用して横に身を躱した。
そのまま、魔獣の懐へと滑り込む。
俺が構築した『ショット』には、銃身という物理的な誘導路が存在しない。空間に撃ち放てば、瞬時に空気抵抗の乱気流に巻き込まれ、弾道は致命的にブレる。
今の俺の未成熟な脳の処理能力では、そのカオス演算には到底追いつかない。ゆえに、この狙撃魔法が必殺の威力を発揮するのは、銃口(指先)が対象に触れるほどの『超至近距離(ゼロ距離)』のみだ。
俺はシャドウウルフの顎下、延髄の真下へと左手の二本指を押し当てた。
「――『ショット』」
俺は一言、極めて短い単語を呟いた。
脳内の思考だけでは弾かれてしまう世界のシステムを、この一音がパスワードとなってハックする。
ヒュッ。
亜音速で放たれた高質量の弾頭が、ゼロ距離からシャドウウルフの脳幹を正確に撃ち抜いた。
ズキリと、手首の骨が軋むような強烈な反動が走る。銃という重量を持たない以上、放ったエネルギーの反動はすべて己の肉体で殺さなければならない。
だが、痛みに顔を歪める暇はない。
一頭目が崩れ落ちるより早く、背後から三頭目が襲いかかってきた。高速戦闘を繰り広げていた俺の死角を正確に突いて躍りかかってきたのだ。
俺は反動の勢いを利用して身体を反転させ、振り下ろされる爪の連撃を短剣で極限まで弾き落とす(パリィ)。
火花が散り、鋼が軋む。子供の筋力で真正面から受ければ腕ごとへし折られる重撃。俺は刃の角度と歩法のみでその威力を逸らし続ける。
『ブースト』が使えない俺は、純粋な体捌きと短剣の技術だけで魔獣の猛攻を凌ぎ切り、決定的な隙をこじ開けなければならない。
シャドウウルフが大きく顎を開き、俺の頭蓋を噛み砕こうと顔を突き出してきたその瞬間。
「――落ちろ」
俺は短剣を持つ右手でシャドウウルフの上顎を強引に弾き上げ、無防備に晒された喉元へ再び左手をねじり込んだ。
「――『ショット』」
ヒュッ。
二度目の微かな空気の裂ける音と共に、三頭目のシャドウウルフが糸の切れた操り人形のようにドスリと地面に沈み込んだ。
「……クリア。周囲に他の敵影なし」
俺はひどく痛む手首を軽く振りながら、バルドへと声をかけた。
血抜き用の針穴ほどの傷以外、最高品質の毛皮には傷一つない、完全なサイレント・キルだ。
「見事な近接射撃だ、アル」
バルドは手首を返し、長剣を音もなく鞘に滑らせながら歩み寄ってきた。
「銃身がない以上、遠距離ではコントロールが利かない欠陥品だからな。確実に殺すには、懐に飛び込んで顎下から撃ち抜くしかない」
「だが、素材の価値を一切下げずに処理できる。十分すぎる手札だ。……少し手首が腫れているな」
「反動の殺し方がまだ甘い。……それより、お前の『ブースト』は成功だったみたいだな。そのウルフはあきらかに瞬殺されている」
俺が客観的な戦果評価を伝えると、バルドはシャドウウルフの解体作業に取り掛かりながら短く息を吐いた。
「全然成功じゃない。……着地でバランスが崩れた。お前がベッドに縛り付けられていた数週間、俺は毎日雑木林で調整していたが、まだまだだ。いきなり跳ね上がる出力と速度に、身体の制御が追いついていない」
「だから、お前も短いコードを口にするのか。俺みたいに存在定義を実行するためじゃなく、お前自身の肉体と暴発のタイミングを同期させ、魔法の出力に耐えうる剛性を確保するための『呼吸法』として」
「そういうことだ」
物理的な制約を抱えた不完全な軍事魔法。二人とも理想には遠いが、結果は傷一つない最高品質の素材。
遭遇戦に突入してから、三頭の影狼を完全制圧するまで、要した時間はわずか数秒だった。
「解体完了だ。血の匂いを嗅ぎつけられる前に撤収する」
「了解した」
俺たちは血塗れの麻袋を担ぎ、足音一つ立てずに北の森の奥へと消えた。




