一日後 グネルド教の教会
その後、帰路に就いた。
図書館で、大好きな本に囲まれ、一時的に気が紛れたものの、やはり、この日、学校で起きたことは忘れられなかった。
タヌキ女、か――。
あの岩津予義也の顔を思い出すだけで、屈辱に体が震えるような感覚を抱く。
そのことについて、父と母に話そうか。
ちょっとだけ考えてみたが、しかし、そうしたところで、気持ちがすっきりするとは、どうも思えない。
そうだ。
こういう時こそ、あそこに行くべきなんだ。
摩希は、家とは別の方向に、足を向けた。
それから数分後、目的の場に着いた。
目の前にあるのは、グネルド教の教会だった。
教会とはいっても、本の描写に出てくるような、荘厳な建物とは正反対の外観である。
著しく老朽化の進んだ木造家屋で、壁はボロボロだし、ところどころ穴まで空いており、今にも崩れ落ちそうに思えてくる。
不思議なもので、日本にしては珍しく、この村には、お寺や神社といった類いのものは存在しないのだ。
なので、この教会が、村で唯一の宗教施設だった。
摩希は、立て付けの悪いドアを引いた。みしみしと音がした。
仄暗い建物内に、そろりそろりと入っていく。
二十脚ほど並べられたパイプ椅子の、半分以上に、村人たちが座っている状態だった。
そして、一番、奥に、黒い服を着て、フードをかぶった老婆が、こちら、村人たちのほうを向いて立っていた。グネルド教の司祭、東堂さんだ。
彼女に向かって、軽くお辞儀をし、後ろのほうの椅子に腰を下ろした。
グネルド教には、これといった教義もなければ、読むべき教典のようなものもない。
そのため、村人たちが、一人ずつ、前に進み出て、苦しい胸の内を打ち明け、それに対して、神の代弁者を自認する東堂さんが、人生の真理を授ける、といった形式で会は進行される。
それにしても、会に参加したはいいが、だんだんと、摩希は、場違いなところにいるような心地になってきた。
なにしろ、村人たちの口から吐き出されるのは、絶望が色濃く滲む、極めて深刻な問題ばかりだったためだ。
家業である農家が、廃業に追い込まれ、明日の子供たちの食べ物にさえ困っています――。
借金返済の目処が立たず、取り立て屋から、毎日のように脅されているので、一家離散しそうです――。
大事な弟が、冤罪で収容所に入れられてしまい、面会も叶わないので、心配で堪りません――。
そうした問題に比べたら、今、自分自身が抱えている、心の痛みなど、虫刺され程度のことではないだろうか――?
しかし、摩希にとって、この日、惨事に見舞われたのは、紛れもない事実なのである。だというのに、なんの発言もせずに帰ってしまったら、ここに来た意味がないではないか。
摩希は、勇を鼓して右手を挙げた。
司祭である東堂さんが、こちらに手を差し向け、咽せたようなしわがれ声で、
「では、青村さん」
と、指名してきた。
「はい」
摩希は、椅子から立ち、おずおずと前に歩いていく。
そうして、東堂さんの横まで来て、足を止めた。
東堂さんは、両目とも、外斜視、つまり、黒目が外側を向いているため、表情からは、感情が読み取りにくい印象がある。が、その口もとに浮かんだ、柔和な笑みを見れば、ここに集った悩める民たちを、あまねく救わんとする、慈悲の心が、染み入るように伝わってくるのである。
摩希は、そんな東堂さんに向かって、一度、頭を垂れた。それから、自分の両肩を抱き、続いて、その両腕を大きく広げると同時に、宙を仰ぎ見た。これは、グネルド教の神に誓って、真実を告白いたします、という誓約のジェスチャーなのだ。
その後、摩希は、着席している村人たちのほうに、体を向けた。
不安を打ち消すように、大きく深呼吸してから、おもむろに口を開く。
「あのっ……、初めに、申し上げたいのですが……、あたしからの、今回の告白について、そのっ……、なんといいますか、皆様のなかには、それくらいのことで、いちいち大げさだと、眉をひそめたくなる方も、いらっしゃるかと思います……。
ですが、心の弱い、あたしにとっては、もう、トラウマとして残る出来事でした……。それは――、今日、学校で、数学の授業中に起こったんです……」
つっかえつっかえながらも、摩希は、言葉を絞り出していく。
読書家同士、ちょっと仲のいい友達に対して、たちの悪い男子生徒が(最後の温情で、岩津予義也の本名は伏せておいた)、聞くに堪えない暴言を吐いたこと。
それが許せず、自分は、その男子を、強く非難したこと。
結果として、その男子から、タヌキ女、と容姿を侮辱されたこと。
あの時は、頭部の血液が沸騰したかのように、顔が熱くなり、立っているという感覚すら失うほどの、放心状態におちいった――。
初めは、その程度のことかと、呆れ顔をする人もいるだろうと覚悟していたが、案に相違して、皆が皆、真剣そのものの態度で、摩希の話を聞いてくれていた。そのため、摩希は、徐々に緊張から解放されていき、話を終える頃には、大いなる安堵感を覚えていた。




