一日後 男子生徒たち
クラスには、高等部の一年生から三年生までの、三学年の生徒がいるため、教科ごとに、三人の教諭が、授業を進行する。だから、昔でいうところの、家庭教師に近い形式だ。
ほぼ毎日のことなのだけれど、例によって、二年生の数学の授業は、茂川雫ちゃんのところで詰まっていた。
読書家の雫ちゃんは、国語こそ平均的な能力を備えているものの、ほかの教科は、からっきしダメだった。とりわけ、数学に至っては、びっくりするくらい理解力がなかったのである。
五十分授業だが、数学の二年生の担当である、江口教諭が、雫ちゃんに付いてから、すでに二十分以上が経過していた。
前のほうの席に着いている、男子生徒が、汚いだみ声を上げ、野次を飛ばしてくる。
「おい、モカぁぁぁぁっ! 早く解答が知りたい、おれらの身にもなってくれよぉぉっ。数学で、0点取っちゃう、おまえとは違って、おれらには、未来があんの! 高等部卒業したら、就職しないといけないのぉぉぉっ!」
二年生の岩津予義也だった。
本人はワイルドだと思っているのか、長めの髪の毛を、ライオンのように全体的にハネさせたヘアスタイルは、身だしなみの乱れという印象しかなく、不潔に見えて仕方がない。
おまけに、いかにも軽薄そうな人相も相まって、容姿的に、女子ウケは、最悪だといえる。
だが、体格だけは恵まれており、そのためか、普段から、たちの悪い男子連中を、子分のように従えている、荒くれ者じみた生徒である。
続いて、その岩津予義也の配下である男子たちが、ここぞとばかりに便乗する。
「モカちゃぁぁぁん!」
「モカモカモカッ」
摩希は、げんなりしてしまう。
生徒同士は、下の名前で呼び合うよう、校則で決められている。名字やあだ名で呼ぶのは禁止されているのだ。とくに、あだ名のほうは、容姿に対する揶揄などを込めた名を付けられる生徒が、必ず出てくるからだ。
しかし、対象が雫ちゃんとなると、その校則無視が横行していた。
茂川の名字を略して、モカ。
男子たちは、二、三年生どころか、後輩である一年生の生徒までもが、雫ちゃんのことを、そのあだ名で呼んでいるのだった。
江口教諭は、五十代後半の、見るからに人当たりのいいおばさん、という雰囲気の女性だった。その彼女が、雫ちゃんに対して、優しい口調で尋ねる。
「それじゃあ、ここの角は、何かしら?」
「た、対頂角ですぅぅぅ」
雫ちゃんは、怯えたような、弱々しい声で答える。
「タ、タイチョウカク、デシュゥゥゥ」
岩津予義也が、雫ちゃんの口真似をする。
男子たちが、どっと品のない笑い声を立てた。
摩希は、はあーっと、ため息をついた。
どうして、男子というのは、こうも幼稚で奸悪な生き物なのだろう。
けど、もっと許せないのは、それを注意しようともしない教諭たちだった。
江口教諭なんて、困ったものだわ、と言いたげな微笑みを見せているだけである。
予義也が、ますます調子に乗って、さらに続ける。
「モカさあ、おまえ、高等部卒業したところで、何かになれるわけじゃねーんだし、マジで、今から、男、捕まえることに専念したほうが、よくね――?
ん? 可愛くないから無理?
いやいや、あの、村ん中をフラフラしてる、アル中の耕治郎おじさんがいるじゃん。耕治郎おじさん、若い女が、大好きなんだぜぇぇぇ。
似た者同士なんだから、おまえ、耕治郎おじさんと、一発、ヤっちまえよ!」
それを聞いた直後、摩希の頭の中で、何かが弾け飛んだ。
「いい加減にしなよ!」
摩希は、机に、ばん、と両手を叩き付けて立ち上がった。
「予義也、あんた、どういう神経してるわけ!? あんたは、人の心のない、ケダモノよぉぉっ!」
その時、男子のなかでは、例外中の例外の存在である、王子様が登場した。
「摩希ちゃんに同感だ――。たぶん、おまえは、来るところを間違えてるぞ、予義也」
声の主は、三年生の男子生徒、藤沢諭羅くんだった。
諭羅くんも、おもむろに腰を上げる。
すらりとした長身である上、その顔立ちは、まるで、少女漫画から飛び出したかのように眉目秀麗である。おまけに、高等部で一番の秀才といっても過言ではなく、運動神経も抜群ときたものだ。
つまり、女子生徒ならば、誰もが、密かな好意を抱いているであろう、人物である。
それに続き、同じく三年生であり、彼の親友である、久賀友彦くんも、
「言われてること、わかるか? 予義也――。物事には、順序ってものがあるんだよ。だから、そうだな――。
おまえは、まず、小等部の生徒たちと一緒になって、道徳の教科書を、声に出して読むことから始めろや」
と、席を立った。
その先輩二人は、まるで示し合わせたかのように、ゆっくりと予義也の席に歩み寄っていく。
おおおおおっ。
頼もしい、お二方――!
摩希は、心の中で、喝采を上げていた。
「な、なんだよ、諭羅くんも、友彦くんも」
一方の予義也も、椅子から立ち上がる。が、威勢を示すというより、身の危険を察知したがゆえに、守りに入ったような行動に見えた。
藤沢諭羅くんは、そんな予義也に対して、冷ややかに告げる。
「要するに、いつまで経っても、人間としての、最低ラインにすら立てないような奴は、存在自体が不快だから、このクラスに要らないってこと」
力強い加勢を受け、摩希は、すっかり気が大きくなり、
「そうよ! そうよ! 諭羅くんの言うとおりよ!」
と、声を張り上げた。
横から、ぱちぱちと手を叩く音が聞こえた。
見ると、数学の三年生の担当である、柴原教諭だった。四十歳前後と思しき、中肉中背の男性だ。丸眼鏡の奥の眼差しには、常に厳しい光を宿している、という印象がある。
「見事だ! 青村さん、藤沢くん、久賀くん。人権侵害という難題に、真っ向から取り組まんとする、その姿勢。まさに、解の公式を具現化しているようだ。数学の授業にふさわしい、実にいいものを見せてもらった。きみたちは、学問の徒として、これ以上ないほどの模範を示してくれたよ!」
そんなふうに言うなら、最初っから、柴原先生が、予義也を叱ってくれたらよかったのに。
摩希は、そう突っ込みたい気持ちだった。
「その三人に比べ、岩津は、おまえ――。警告しておくぞ。もし、これ以上、授業の邪魔をするような、問題行動を繰り返すなら、公務執行妨害と見なし、佐伯巡査を呼ぶからな。
おまえのほうこそ、その、耕治郎おじさんだかなんだかいう、ろくでもない男と似た者同士なんだから、二人揃って、収容所にぶち込まれればいいんだ」
なんとなく、柴原教諭の物言いも、教育者としては、不適切な気がするけれど。
予義也は、男三人には敵わないと悟ったのか、舌打ちすると、最初に声を上げた摩希のほうに、憎々しげな眼差しを向けてきた。
「おまえの行動は、いっつもいっつも、偽善まみれなんだよ、この、タヌキ女」
摩希は、一瞬、耳を疑った。
タ・ヌ・キ・女――。
明らかに、その言葉は、人格についての悪口ではない。
そんなふうに、容姿を侮辱されたのは、果たして、いつ以来だろう。
強烈な羞恥心が湧き上がってきて、かあーっと顔が熱くなっていくのがわかる。
友彦くんが、見かねたように、とうとう、予義也の胸ぐらをつかんだ。
「人間未満の分際で、生意気にも、人間様に悪態ついてんじゃねーよ!」
さらには、柴原教諭も、血相を変えて怒鳴り散らす。
「おい! 岩津! おれは本気で言ってんだぞ! 今すぐ、佐伯巡査を呼んでやろうか!? おまえみたいなゴミは、射殺だ、射殺!」
今この瞬間、あたしは、諭羅くんや友彦くんと、一体になってる――。
その事実を認識してはいたものの、ショックが大きすぎて、摩希は、ただただ茫然と立ち尽くしていた。




