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一日後 おまわりさん



 家を出て、五、六分、歩くと、駄菓子(だがし)屋さんが見えてくる。

 その横に置かれた青いベンチに、またもや、耕治郎(こうじろう)おじさんが腰掛けていた。

 白髪(しらが)混じりの髪は、伸び放題でボサボサだ。それに、その焦点の合っていない目つきを見れば、すでに、泥酔(でいすい)状態であることがわかる。片手に持っている(びん)の中の液体は、琥珀(こはく)色なので、おそらくウイスキーだろう。


「あーっ、いけないんだぁ、耕治郎おじさん。また、朝から、こんなところで、お酒、飲んで。

 おまわりさんに見つかったら、秩序維持条例違反の罪で、捕まっちゃいますからねっ」


 摩希は、きつい口調で注意した。

 だが、耕治郎おじさんは、へらへらと笑っている。

 もしかすると、女の子に構ってもらっているだけで、嬉しくてたまらないのだろうか。


「マギィちゅぁんは、ごれがらぁぁ、がっこぉーきゃぁい?」

 

 呂律(ろれつ)が回らないながらも訊いてくる。


「そうですよっ」


 この時間に、この格好で、学校以外の、どこへ行くというのか。

 

 呆れながら通り過ぎようとした時、突然、耕治郎おじさんが、「うぐっ」と、うめき声を上げた。

 そちらを見やると、まさに今、耕治郎おじさんの口から、白い吐瀉物(としゃぶつ)が出るところだった。ベンチの上に、それが、びちゃびちゃと落ちていく。

 

 摩希は、思わず顔をしかめ、


「まったくもう――! そこは、みんなが座る場所なんですよっ!」


 と、耕治郎おじさんに駆け寄る。

 彼の背後から、その両脇に、自分の両腕を突っ込む。体を密着させる格好となり、むせ返るような臭気に苦しめられる。

 いったい、どのくらい、お風呂に入っていないんだろう――。

 強い生理的拒否感を抱くも、それを必死に我慢する。


「吐くなら、せめて、こっちに来てくださいっ。こっちにぃぃぃ!」


 摩希は、耕治郎おじさんを無理やり立たせ、どうにかこうにか、ベンチの裏の、ドブのところまで移動させた。

 

 耕治郎おじさんは、地面に四つん這いになり、ドブのほうに、顔を突き出した。強烈なボディーブローを見舞われたかのような、苦悶(くもん)の声が響き始める。

 その声を聞いているうち、摩希は、このまま放置して去るのに忍びない気持ちになってきた。

 なので、自分も、その場にしゃがみ、耕治郎おじさんの背中を、右手で優しく叩いてあげる。


「だいじょうぶですかぁ? だいじょうぶー?」


「マ、マギィちゃんは、やざじぃなぁぁぁ。おれに、やざじぐじてくれるのばぁぁ、この村でぇぇ、マギちゃんぐらいだぁ。ぼかのやづらはっ、おれを見ると、どいつもごいつも――」


 今度は、暴力的なまでのひどい口臭が、鼻腔に流れ込んできて、摩希のほうまで、吐き気を催す始末だった。

 ふと、目を落とし、耕治郎おじさんが、まだ大事そうに握りしめている、ウイスキーの瓶を、忌々(いまいま)しい思いで眺めた。こんな麻薬と変わらない代物(しろもの)は、この村から、無くなっちゃえばいいのに――。


 摩希は、耕治郎おじさんから、ウイスキーの瓶を取り上げた。ドブの上で、その瓶を逆さまに傾けようとすると、耕治郎おじさんは、とたんに、しらふに戻ったかのごとく、真剣そのものの顔つきで、すがり付くように訴えてくる。


「やめてくれぇぇぇ。それは、命の水なんだぁ。おれは、それがないと、死んじまうんだよぉぉぉぅ」


「ダメですっ。耕治郎おじさん、このまま、お酒、飲み続けてたら、不可逆的に肝臓の細胞が変質して、それこそ本当に、死んじゃいますよ!?」

 

 摩希は、心を鬼にして、瓶に残っているウイスキーを、どぼどぼとドブに捨てていく。


「ああー、あぁぁぁぁぁわぁぁ」


 耕治郎おじさんが、絶望の声を上げた。

 

 瓶を空にすると、摩希は、駄菓子屋さんのゴミ箱に、それを突っ込んだ。

 

 耕治郎おじさんは、今にも涙を流しそうなくらい、顔をくしゃくしゃにしていた。


「それじゃ、あたし、もう行きますんで」


 摩希は、ため息混じりに言って、そこを去った。

 

 耕治郎おじさんは、村で有名な人物だった。

 村のあちこちに出没するらしく、昼夜を問わず泥酔状態におちいっていると見ていい。大声でひとり言を口にしたり、時には、酔いの勢いで他人に絡み、筋違いも(はなは)だしい説教まで始めたりするらしい。


 そして、数日前、駄菓子屋さんの横の、あのベンチに現れた。何事か喋りかけられ、摩希が、下手に立ち止まったのも、よくなかったかもしれない。

 五分ほど、会話にもならない言葉のやりとりをし、うかつにも、下の名前を教えてしまった。それからというもの、朝、摩希が、あそこを通る時には、常に見かけるようになった。

 

 そもそも、耕治郎おじさんは、この小さな村の、どこに住んでいるのだろう。どう考えても、仕事には就いていないはずだが、それならば、酒代や日々の食費は、どうやって調達しているのだろう。

 謎の多い人だ。


 しばらく行くと、交番が見えてきた。

 いつも通り、青色の制服を着た、佐伯(さえき)巡査(じゅんさ)が立っている。澄んだ眼差しをした、三十代の男性だ。

 

「おまわりさん、おはようございますっ!」


「おはよう、摩希ちゃん。今日も、元気そうで何よりだ――。

 でも、いつもより、遅いんじゃないか?」


「あ、実は……」


「ん? なにか、あったの?」


「ううん、いえ、ちょっと、寝坊しちゃって――!」


 摩希は、腕時計に目を落とし、


「やばいやばい! もう、こんな時間だっ! 急がなくっちゃ!」


 と、大げさに驚いてみせ、前のめりになる勢いで歩き始めた。


「行ってらっしゃーい」

 

 佐伯巡査が、穏やかな声を投げかけてくる。


 やっぱり、耕治郎おじさんのことは、佐伯巡査に話さなくてよかったと、摩希は思う。

 もちろん、佐伯巡査は、悪い人ではない。けれど、『おまわりさん』という優しい言葉の響きとは、ほど遠い存在であることも事実なのだ。

 

 この村で、ただ一人の警察官である、佐伯巡査は、逮捕権に加え、人を独断で裁き、処罰する権限を有している。

 なので、罪を犯した疑いのある者を、発見した場合、注意で済ませるかもしれないし、即、逮捕した後、収容所に送り込むこともある。最悪、拳銃を引き抜き、その場で――。

 いや、これ以上、想像するのは怖いから、やめておこう。

 

 要するに、ここは紛れもなく日本であるのに、この村においては、権力の分立が成されていないわけだ。

 なぜ、村の大人たちは、その点について、おかしいと声を上げないのか、摩希としては、合点がいかない。

 

 もしかすると、図書館に足繁(あししげ)く通い、貪欲(どんよく)に知識を吸収する、摩希以外、誰も、不可解なことだとは捉えていないのではないか。

 そう考えると、摩希は、背筋に寒いものを感じるのだった。

 おまけに、秩序維持条例というのも、この村特有のもののようだ。

 

 ここは、なんとも奇妙な村である。



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