三日後 親友
それから、どのくらい、自分は、ぼーっと突っ立っていたのだろう。
「おい、摩希。おーい」
はっとした時には、もう、秋乃さんの姿はなく、梨瑠香が、覗き込むような目で、こちらを注視していた。
「あ、うん、なんか、あたし――、びっくりしちゃってさ……」
摩希は、まだ、夢うつつの状態から抜け出せなかった。
「なるほど。要は、それほど、絶望感に襲われたってことか」
「絶望感?」
「思えば、中等部の頃からだったかなあ……。摩希が、諭羅くんのこと、すんごく、目で追いかけてたの。そのくせ、諭羅くんが、そばにいる時は、目を合わせられないどころか、変に、よそよそしい態度を取っちゃって。
ねえ――、気づかれてないと、思ってた?」
梨瑠香は、いつになく、冷笑的な態度で言う。
「いっ、いやいやいや――。あのさ、諭羅くんに対する憧れから、ちょっと、挙動不審になるなんて、女子なら、当たり前っていうか、みんな、同じじゃん――?
なによっ、そんなふうに言うんなら、梨瑠香だって、諭羅くんに、そういう感情、少なからず持ってるでしょうっ? この、バカッ」
摩希は、苦し紛れに、右の手のひらで、梨瑠香の肩を軽く押してやった。
「全然っ。全然、反論になってないよ、摩希――。
ほかの子は、諭羅くんのことを、もう、雲の上の存在として、ただ単に眺めてるだけなの――。でも、摩希の場合は、そこに、手を伸ばそうとしてる。
そう――。なまじ、手が届きそうだからこそ、妄想が、果てしなく膨らんじゃうんでしょっ?
諭羅くんに、ぎゅーって、されたい? それとも、してみたい? いや、その程度じゃあ、まるで物足りない?」
ぎゅーって……。
突然、諭羅くんに、後ろから抱き締められる情景が、脳裏に映し出された。
あ、まずい――。
と、感じた時には、もう、おしまいだった。
またたく間に、血が、頭部に上っていくのがわかる。ほっぺたが、真っ赤に紅潮していると確信するまでに、二、三秒とかからなかった。
「ギャハハハハッハハァッ」
梨瑠香が、びっくりするくらい、汚いだみ声で笑いながら、摩希のほっぺたを、つんつんと人差し指でつついてくる。
「図星かあ――。そうかあ――。だって、顔に、こんなはっきりと書いてあるもんねえ」
摩希は、顔全体の筋肉が、ぴきぴきと引きつるのを感じた。今ほど、重度の赤面症持ちであるのを、恨めしいと思ったことはない。
「まあ、さあ――、そんなふうに、妄想ばっかしてるから、自分は、なんて、やましい人間なんだろう、って気持ちが芽生えて、親友のあたしにさえ、諭羅くんを、好きだってこと、何があっても、話せない状態だったんでしょっ――?
可愛い子には、可愛い子なりの、苦悩があるってわけね。あたしからすると、羨ましいような、でも、同情しちゃうような――」
「グガアァァァッ!」
摩希は、もはや、やけくそになり、ライオンのごとく、爪を立てた両手を上げ、梨瑠香に襲いかからんとした。
しかし、その両の手首は、梨瑠香に、ばしっと両手で受け止められる。どうやら、梨瑠香のほうは、摩希が、乱暴なやり方で反撃してくることを予期し、それに対して、心身ともに構えていたらしい。
力比べの様相を呈する。
が、腕力ならば、こちらが、一枚上だ。この目の前の小娘は、床に引き倒し、馬乗りになって、とっちめてやらないと、到底、気が済まない。
「だーかーら、秋乃さんが、諭羅くんに、告るってことを聞かされて、放心するくらい、絶望感に襲われたんだね?」
梨瑠香は、無機質な声で言う。
その言葉を耳にしたとたん、摩希は、梨瑠香をねじ伏せてやるという闘争心の炎が、一気に下火になっていくのを感じた。
と同時に、猛烈な脱力感に襲われる。下手をすると、この場に崩れ落ちてしまいそうだった。
梨瑠香の側にも、それが伝わったらしく、
「バレバレなんだよ、まったく」
直後、両の手首を離される。
摩希は、そのまま、すとんと両腕を下ろした。
まさに敗者だということを、骨身に染みて痛感する。拗ねるような気分になり、唇を尖らせた。
「でも――、摩希には申し訳ないけど――、あたしは、秋乃さんを応援するしかないかな。
たぶん――、諭羅くんから、オーケー貰えるでしょっ。
だって、あの秋乃さんだよ? 誰もが認める美人だし、頭の良さは、三年生のなかで、一位二位を争うレベルで、ソフトテニスの女王。
それにさ、家柄っていうの――? 秋乃さんのお父さん、新聞社の社長だよね。
ここまで揃ってると、諭羅くんと、釣り合いが取れてるっていうか――、いや、もっと言えば、誰が見ても、あの二人、お似合いじゃん?」
梨瑠香は、淡々とした口調で話す。
そういうことね。わかった。わかったぞ、梨瑠香――。
もはや、梨瑠香の心情は、手に取るように伝わってくる。
なんだかんだで、親友である摩希が、諭羅くんのような、雲の上の存在である男子と結ばれるのは、嫉妬心を掻き立てられそうで、面白くない、許せない、という思いなのだろう。最悪、そうして、友情が決裂するのを、心のどこかで怖れているのかもしれない。
しかし、それが、一学年上の、秋乃さんとなると、ある種の諦念から、許容するだけの心理的ゆとりが生まれる。
おそらく、この推察は、おおかた当たっているはずだ――。
なんとなく、親友の嫌な面を見ているようで、摩希は、不快感を抱かずにいられなかった。
「だーかーらぁっ!」
梨瑠香は、一転、明るい声を出し、
「そんな、ふてくされた顔、すんなよ、摩希ぃぃぃ――」
と、なにやら、摩希の背後に回った。
かと思っていると、いきなり、背中に飛び乗ってくる勢いで、摩希に抱きついてきたのだった。
「な、なに!? やめてって、もう!」
摩希は、そんな気分じゃない、とばかりに抗議する。
「高等部に通ってる間は、彼氏なんて、いらないじゃんっ! 摩希には、あたしがいるじゃんっ! せめて、卒業するまでは、ずっと、あたしと一緒にいてくれるよねっ!」
嫌な空気を吹き飛ばす、魔法のようなハイテンション。
この子の、そんなところが好きで、あたしたちは、妙に馬が合うんだったな――。
そう思うと、不思議なことに、沈んだ気分が持ち上げられ、摩希は、我知らず、ふっ、と笑いを漏らした。
もう、摩希が、嫌がっていないと判断したらしく、梨瑠香の行動はエスカレートした。摩希の上半身を、文字通り、手当たり次第にくすぐり始めたのである。
「――わかった! わかったぁっ! 梨瑠香は、大事な、親友! 梨瑠香を裏切るようなことはしないから、ストップゥゥッ!」
摩希は、ゲラゲラと笑い声を上げながら必死に訴えるも、あえて、身体的には無抵抗に徹した。
それをいいことに、梨瑠香は、やりたい放題で、気づけば、その両手は、くすぐるというよりは、まさぐるような動きを始めていた。
「ノーノーノーッ! いやっ、それ以上は、触らないで! 梨瑠香、変! 変っていうか、変態っ――!
誰かぁぁっ! 助けてくださいっ! 変態に襲われてるんですがぁぁぁぁっ!」
おそらく、摩希の叫び声は、教室内にまで届いていることだろう。しかし、青村摩希に来栖梨瑠香、それに、西園寺秋乃の三人が、公害レベルの大騒ぎをするのは、毎度のことなので、誰一人として、やって来る者はいなかった。




