三日後 大きくて立派な家
学校が終わり、摩希は、校門を出てすぐのところで、ぼんやりと足を止めていた。
昨日、図書館で借りた、六冊の本は、家に置いてある。コンピューターやプログラミング関係の本なのだが、まだ、一冊も読んでいなかった。
なぜなら、岩津予義也に、容姿を侮辱され、その上、立て続けに雫ちゃんの件があり、まさに、弱り目に祟り目というべき状態で、昨夜は、さすがに、精神的に疲れ果てていたせいだ。いざ、布団に入っても、読書欲が、まったく湧いてこなかったのである。
そのため、今日は、図書館に行くつもりはない。
真っ直ぐ家に帰ればいいのだろうが、しかし、摩希は、別の方向へと足を向けた。
村で唯一の医療施設なので、場所は、ちゃんと知っている。
それから、七、八分で、目的地に着いた。
藤沢医院。
諭羅くんの自宅でもある。
敷地の面積は、摩希の家の十個分くらいだろうか。医療施設を兼ねていることを考慮に入れても、この村にしては例外的な、圧倒されるほど大きくて立派な家だ。
摩希は、はあーっ、とため息をついた。
まったく、いいよなあ、お金持ちは――。
その家の息子である、諭羅くんだが、高等部きっての秀才ということもあり、卒業後は、やはり、藤沢医院の跡継ぎとしての道を進むらしい。つまり、将来は、医者になるのだ。
そんな男子が、恋人に、ひいては結婚相手に求めるのは、どういうものだろうか。
先ほどの、梨瑠香の言葉が、嫌でも思い起こされる。
家柄、か――。
なんにせよ、ついに、秋乃さんが動き始めた。
むろん、摩希としても、それなりに覚悟してはいたのだ。いずれ、こういう日が来る、と――。
なにしろ、梨瑠香もそうだが、高等部の女子生徒たちは、藤沢諭羅くんと西園寺秋乃さんの二人が、在学中に結ばれ、将来的には結婚にまで至ることを、半ば、既定路線のように捉えている。
また、そうした空気の影響も受けて、秋乃さんは、大昔の言い方をするなら、諭羅くんの許嫁ででもあるかのごとく舞い上がっている有様だった。
なので、諭羅くんに告白するという、秋乃さんの決意表明自体は、充分、想定内であり、そして、その時はその時で、きっと、自分は、それを平静に受け止められるはずだと、漠然と思っていたのである。
だが、甘かった。
実際には、あらゆる思考が停止し、この体は、魂の抜けた殻と化し、梨瑠香の前で、醜態をさらすハメになった。
そのことを思い出すだけで、恥ずかしさに髪の毛を掻き毟りたい衝動に駆られる。
しかし、である。
では――、諭羅くんのほうは、秋乃さんのことを、どう思っているのだろう――?
そう。
肝心なのは、そこなのだ。
たぶん――、いや、十中八九、秋乃さんが、好意を寄せているという情報は、諭羅くんの耳にも入っていることだろう。だが、それでいて、諭羅くんと秋乃さんの距離感に、変化が起きた気配はない。遠からず、近からず、といったところだ。
だから、冷静に考えれば、その二人の関係にまつわる話は、何もかも根拠のない憶測に過ぎないと笑い飛ばせる。
要するに、自分が、身を引くべき、これといった理由は、ない、ということ。
なに?
秋乃さんは、ライバルとして手強すぎる、か。
いや、しかし――、この村の誰より信用できる、あの、グネルド教の偉大なる司祭、東堂さんが、お墨付きを与えてくれたではないか。
あたしは、非の打ち所のない美少女だ、と――。
なんだか、知らず知らずのうちに、東堂さんの、その言葉に背中を押され、自分は、ここ、藤沢医院の前まで歩いてきたような気がする。以前の自分であれば、想像もできない行動である。
いずれにせよ、あとは、自分に、最後の一歩を踏み出す勇気が、あるかどうかだ。
摩希は、これから、台本通りに動く自分を、頭の中でシミュレーションする。
まず、藤沢家のチャイムを押す。
諭羅くんが出てきたら、わざわざ会いに来た理由を説明する。後ろめたく感じるが、その説明内容は、真っ赤な嘘というほかない。
例のグループ決めの際に、『友達の』雫ちゃんを、救ってくれたことについて、どうしても、お礼が言いたかった、と。また、自分は、あの場面で、雫ちゃんをグループに入れる勇気が出ず、傍観を決め込んでしまい、そのことを、心から悔いている、とも釈明する。
うん。
簡単に言えば、雫ちゃんをダシにするわけだ。
ああ、なんて、嫌な女の子なんだろう、あたし……。
その後、それとなく本題に入るのだ。
秋乃さんのことを、どう思っているのか、諭羅くんに探りを入れる。
万一、その行為が、後日、秋乃さんの知るところとなったとしても、秋乃さんは、『応援して』と言っていたのだから、その応援活動の一環だったとして、言い逃れすることが可能なはずだ。
うん。
一学年上の親友に対する、明らかな裏切りだ。
ああ、なんて、ずる賢いことを考えるようになったんだろう、あたし……。
結果、諭羅くんから、ほっとするような答えが返ってきたら、それで、よし。きっと、目の前が、ぱあーっ、と明るくなるに違いない。
そればかりか、あわよくば、その機会を利用し、自分こそ、諭羅くんと、距離感を縮めることだって――。
しかし、そこで、著しくリアリティの薄い、その未来図を、頭の中から打ち消した。
そんなふうに、巧妙に立ち回る能力があるんだったら、とっくの昔に、諭羅くんに対して、なんらかのアクションを起こしてるって――!
摩希は、思わず空を見上げ、はははっ、と自虐的に笑った。
そもそも、これまで、恋に関しては、閉じた貝みたいに臆病だった、この自分が、覚醒したとたん、意中の男子の家にまで押しかけるとは、これいかに――。
おそらくだが、だいぶ、自分というものを見失っている状態だと、今ここで自覚するべきなのだろう。
それに、と思う。
自分にとって、リスペクトしてやまない人である、秋乃さんを出し抜こうとするなど、思い上がりも甚だしい。体育のソフトテニスで、二番手に徹しているのと同様、今までどおり、諭羅くんと秋乃さんという、その二人の行く末を、静かに見守っていればいい。
そっちのほうが、気持ち的にも、ずっとずっと楽だ。
つまり――、こんなところに立ってるのは、あたしの柄じゃない、ってことだよね――。
ひとり、そう納得して、摩希は、とぼとぼと来た道を歩き始めた。
そして、藤沢家の邸宅を横目に、ふと思う。
それはそうと、諭羅くんに釣り合うかどうかを考えるに当たって、自分と秋乃さんとを隔てる、一番の要因って、なんだっけか――?
だが、今は、これ以上、頭を働かせるだけのエネルギーが、体に残っていない感覚である。だから、何度か、首を横に振り、あえて思考停止する。
もう、そんなこと、どうでもいいじゃん――。
しかしながら、胸の内に、虚無の空洞が、ぽっかりと空いていることだけは、まざまざと意識させられた。




