二日後 申告
学校に向かう足取りは重い。
容姿侮辱を受けたことによる、心の痛みは、昨日のうちに、グネルド教の教会で、たしかに、嘘みたいに癒えた。
とはいえ、その代わり、顔を見るのも不快な男子、岩津予義也に好かれているらしいという、新たな悩みを抱えるハメになったのだ。
あー、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……。
なんで、よりにもよって、あの予義也なのよ……。
摩希は、そんな憂鬱な気分で歩いていく。
まもなく、前方に、駄菓子屋さんが見えてきた。
そして、目を凝らすと、その横に置かれた、青いベンチには、思ったとおり、例の耕治郎おじさんが腰掛けていた。彼の手もとには、黒い大きな酒瓶も確認できる。
近づいていくと、耕治郎おじさんのほうも、摩希の姿に気づき、どろんとした三白眼の目で、こちらを見てくる。
その横を通り過ぎようとした時、耕治郎おじさんは、またまた声をかけてきた。
「マァギちゃぁぁーん、これがらぁ、がっきょーぅかぁぁいっ?」
毎回、同じことを訊いてくる。
この時間に、この格好で、学校以外の、どこへ行くというのか。
摩希は、心の中で、そう突っ込むも、今日ばかりは、相手をする気にもなれないので、無視して歩き続ける。
「あれれれれれっ、ででぇぇぇ? マァァギィちゃぁぁん、きょーぅはっ、なんが、づべだいなぁぁっ――。おれは、マァギぢゃんがぐるのをっ、ずぅっど、ごごで、まぁぁっでだってぇいうのにぃぃぃ」
えっ……?
摩希は、無意識のうちに足を止めていた。首だけ動かし、斜め背後を見やる。
耕治郎おじさんは、よだれを垂らしそうな、なんとも品のない笑みを浮かべ、こちらを見返してくる。
が、突然、なにやら両手で胸を押さえたかと思うと、ベンチの上に、仰向けに倒れ込んだ。その顔は、苦悶の表情に変わり、ばたばたと両脚を動かし始める。
「ううぅぅぅっ! ぐるじぃっ! おれっ、マァギじゃんのごどがっ、じゅぎじゅぎて、ぶねがっ、ぐるぅじぃぃぃっ! マァギじゃぁぁぁんっ! おれのぶねを、ぽんぽんじでえぇぇぇぇっ」
摩希は、ようやく、関わらないのが身のためだということを悟り、慌てて立ち去った。
逃げるような早足で歩きながら、耕治郎おじさんについて、想像を巡らせた。
なに、なに、なに――!?
今まで、毎朝毎朝、あたしに会うために、あのベンチに座って待っていたってわけ――!?
「きもちわるっ」
摩希は、思わず、そう小さくつぶやいた。
しばらく進むと、交番が見えてきた。
いつも通り、青色の制服を着た、佐伯巡査が立っている。
「おまわりさんっ。おはようございます……」
摩希のほうから挨拶する。
「おお、おはよう、摩希ちゃん――。どうした? なんか、元気がないなっ」
佐伯巡査は、心配そうな眼差しで訊いてくる。
「あっ、えぇっとぉ――」
摩希は、寸前まで迷ったが、しかし、思い切って告げることにした。
「駄菓子屋さん、あるじゃないですか? そこのベンチに、耕治郎おじさんって、おまわりさんも知ってると思うんですけど、あの人が、毎朝、座ってるんです……。
それで、あたしが通る時、必ず、声をかけてきて……。こんなこと言うのは、アレっていうか、まあ、可哀想なんですけど、ちょっと、迷惑だなぁーって……。
なので、できたら――、おまわりさんのほうから、注意してもらえませんか――?」
佐伯巡査は、やや意外の感に打たれたのか、ぽかんとした表情を見せる。
「おっ、おう――。わかった。おれが、注意しておくよ」
「すみませんっ。よろしくお願いします」
摩希は、なぜか、気まずさを感じ、佐伯巡査からも逃げるように、すたすたと歩き始めた。
「行ってらっしゃーい」
背中に投げかけられた、佐伯巡査のその声が、普段とは違って、よそよそしい響きに聞こえたのは、気のせいではあるまい。
とうとう、耕治郎おじさんのことを、佐伯巡査に申告してしまった。
佐伯巡査による、『注意』の意味を、もちろん、摩希は理解している。
次、見つけたら、秩序維持条例違反の罪で、逮捕して、収容所に送り込みますよ――、あるいは、即、その場で、射殺しますよ――。
そういう最後通告にほかならない。
けれど、今、摩希の胸中にあるのは、同情の念ではなく、怒りという名の蝋燭に灯った、冷たい色の火だった。




